1 冬の帰郷

 『変身』は危険な魔術だと謂(い)われてきた。

 一歩間違えれば、獣の思考に呑まれて、自我を失い、戻れなくなるからだ。

 危険だからこそ、熟練した技術と、卓越した精神力と、精密な理論が必要であるとされてきた。

 じっさい、動物への変身で知られる歴代の魔術師は、道をきわめた老魔術師ばかりだ。

 強靭な意思の力でもって、獣の本能を御し、目的を遂行する。

 古い時代、『変身』を習得した魔術師は、一流の戦士として重宝された。

 鳥や小獣となれるものは敵地に潜り込む優秀な斥候であり、罠を張る工作員であったし、大型の獣になれるものは、一騎当千とはいかずとも、しぶとい兵士になることは間違いなかった。

 馬の姿になって人を乗せることができれば、馬が通れない難所を人の姿で越え、残りの道を走り抜けるということもできる。

 『変身』は一流のあかし。

 ――――遠い、昔のことならば。


 この二百年、飛鯨船の台頭により、第18海層にあるこの国も、新たな技術を意識せざるを得なくなった。

 魔術によって海と空の海層突破点を閉じ、鎖国をしていたとしても、魔法使いたちは外海を観測し、秘密裏に新たな技術を確認していた。

 機械技術の発展は目覚ましく、六百年の鎖国のあいだ、三回の大戦の経験が、世界各国の『戦い方』を大きく改革していったのだ。

 ゆえに、もはや『変身』は、技能として過去の遺物となった。


 廃れ逝く技能が、学問に組み込まれたのは、まだ幸運だっただろう。

 しかし、その技能の伝承者が一人、また一人と消えていくにつれ、『変身』は危険性ばかりが提唱され、ついに国が取り締まるほどにもなった。

 『魔術規制法』という、九つの項目からなる法律は、リスクを伴う魔術や、生物の命を脅かす魔術の使用を、免許制にするというものである。

 『変身』の習得には、いくつもの条件がつき、結果、現代の魔術師社会では、理論と技術を収めたひとかどの魔術師だけが習得できるもの、とされた。


 その定石を、辺境から文字通り現れた理論も技術も持っていないはずの、田舎の十歳の女の子が引っ繰り返したので、当時は上に下にの大騒ぎだったのだ。


 どこで習い、どうしてのか。


 師である彼女の母親も、彼女自身にも説明できはしない。

 ただ彼女は言う。腰に手をあて、誇らしく。



(―――――あたしったら、天空神に愛されちゃったて~~~んさい! なのでっ! )


 一般的な個体よりも、ひとまわり大きなメスのハイタカである。オレンジ色の瞳を持ち、腹側が白く、脇腹が紅葉したように紅く、背面が赤褐色という、赤毛の鷹がヴァイオレットの変身した姿だった。

 翼を纏ったヴァイオレットは、木々の間を巧みに飛んだ。

 魔術で練られたいくつもの影が、黒煙のような尾を引いて木々の間を縫って尾羽に追いすがる。しかしヴァイオレットに言わせれば、故郷に比べればこんなもの森なんていえない。せいぜい林だ。


 風の吹きすさぶ原生林に鍛えられた翼である。

(故郷にかけて、こんなところで捕まるわけにいかないもんね! )

 少女の決意が引き締まる。

 思考は過去。二週間前の、冬の我が家に飛んでいた。



 ✡



 当主である父親から正式に後継者として扱われたのは、その夜が初めてのことだった。

 学院から実家へは、年に二度、夏の学年末と、冬の年越しの時期に帰ることが決まっている。

 ライト家には山間にある本宅と、麓にある別邸とがあり、冬場は一部の使用人を本邸に置いて、領主家は別邸に移ることが慣例になっていた。

 今年が例年と違ったのは、ヴァイオレットだけ今年最後の授業を三日も残して帰郷することになったこと。

 変身魔術一本で、あまり成績が良くないヴァイオレットは、泣く泣く出席日数を諦めて馬車に乗った。

 すでに本邸は雪に覆われた時期である。別邸に辿り着いたヴァイオレットを出迎えたのは、ずいぶん少なくなった使用人と、父ひとりだけだった。


「お母さまとひいおじいさまは? 」

「おじいさまとお母さまは、もう家を出たんだ」


 素朴な田舎領主を体現している父フランクは、いつになく真剣な面持ちだった。その姿が自分と同じ旅装であること、しかもずっと長い旅を想定しているようなものであることに、ヴァイオレットは身を固くして、父の言葉を待った。

 荷解きも許されないまま、雪を掻き分けてやってきたのは、丘の上にある本邸だった。

 フランクは自ら重い扉を開け、娘とともに燈の落ちた無人の屋敷に踏み込んだ。

 こちらにも使用人たちがいない。暗い廊下を、父の杖明かりで進み、当主の間と呼ばれている奥の間へと導かれる。

 冷気が立ち昇る暗闇のなか、一人の女が立っていた。ほっそりとした体に、薄手の黒いドレスを纏い、長く垂らした髪が、ドレスの一部であるかのように垂れ下がっている。


「……陰王様」

 はじめて見る真紅の瞳が、赤毛の少女の青い瞳を貫く。ヴァイオレットは慌てて、幾何学模様が描かれた石畳に跪き、首(こうべ)を垂れた。



「ヴァイオレット。ヴァイオレット・アトラス・ライト」



 陰王アイリーンは、ヴァイオレットが予想したよりもずっと高い、しかし不思議な響きの声で、顔を上げるように言った。

「は、はい……」

 ヴァイオレットは、口をぎゅっと小さくする。おしゃべりなこの口が、余計なことを言わないように。



「まもまく『審判』の刻が来る」



 決意した矢先に、えっ、と声が漏れた。それだけ衝撃的だったのだ。

 魔法使いの国で、審判を知らないものはいない。どんなに信仰から離れた田舎者でも、自分の国の下にいるという、時空蛇の存在と、その預言を知らないということはない。



「この海層もまた、早晩、禍(わざわい)に包まれる。第二の試練は『思慮の試練』。人々は惑わされ、争いが始まる。兄サリヴァンは、今夜にでも第一の試練の地である最下層へ送られることになる。おまえの役目は、第二の試練において生き残ること」



 隣の父は、見たことがない大人の男性の顔をしている。



「ヴァイオレット――――血を絶やすな。必ずだ。お前の中に流れる血が、この国に希望を灯すときが必ず来る。その身体をわたしが与えた宝と同等と考え、熟慮をもって生き延びよ」



「……はい」

 からからの声は、自分のものとは思えない。ヴァイオレットは、思い切って半歩、陰王のほうへ踏み出し、今度ははっきりと言った。


「はい! ヴォ、オッ、お任せくだヒャイ! 」


「――――よろしい」


 陰王は大きく唇を横に開き、目を細くして笑った。目を丸くしたヴァイオレットの目の前で、すっと笑顔を消し、陰王は切れ長の目で父フランクを見る。


「よいか、フランク。こたび第二の試練において、この陰王は邪神同盟らとの約定により、この地にはおらぬであろう」


「はい。承知しております」


「陽王は、我が身が冥界に封殺されることを予期してはおらぬ。知るのはお前たちのみ。やがて第一の試練を越えた勇者たちが、この国に合流することになる。耐え忍ぶのだ。此度の試練は、第一の『石の試練』のようなものではない。人災のたぐいである。人々の心という見えぬもの。その中にある数多の小さな欲望が煽られることで、大火となる災厄である。フランク。おまえの動きで、禍の火はこの国を焦土にする炎にも、恵みをもたらす野焼きにもなることだろう」


「委細、承知いたしました」


「よろしい。おまえも生き延びよ。祝福を授ける」


 冷たい手が、震えるヴァイオレットの額に押し当てられた。父にも同じようにして、陰王は言う。

「首(こうべ)を垂れよ」


 いわれるがまま、顔を伏せ、再び上げたときには、煙のように陰王の姿は消えていたのだった。


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