1 GO! GO! Magic!

 黒点が点滅している。

 揺らめく極彩の波を押し流す白。糸のようにもつれた思考に、凝り固まった体の痛みが重なって、ヴァイオレットは急速に覚醒した。

 尻のあたりが濡れている感覚に、眠気はさっと晴れた。

 薄闇に寝具を探ってみると、どうやら眠っているあいだに雨漏りをしていたようだ。


 眠る前と変わらない牢屋だ。鉄格子ごしに見える石造りの通路は、少し先で曲がっている。その角の向こうから、変わらず光が漏れていた。

 ヴァイオレットは溜息をつくと、重い腰を上げ、びしょびしょに冷たくなったズボンを脱いで、石畳の上でぎゅっと絞った。

 どうせ見張りは見ていないし、見ていても、この体に興味がないのは知っている。トイレも鉄格子越しに丸見えなのだ。

 心を擦り切らすくらいなら、とびきりなってやろうと早々に決めていた。


 濡れたままの下着の上に、湿ったままのズボンを履き直し、ヴァイオレットはパシンと頬を打つ。

(……さあて、今日もやりますか)


 手始めに、助走をつけて鉄格子を蹴り上げる。

 ぐわん、と、空気が揺れた。地下牢はすごく音が響く。これがこの五日ばかりの、戦いが始まった合図だ。


「ちょっとォ!? 聞こえてんでしょォ! ここ雨漏りしてるんですけど! 」

 角の奥で漏れる光に向かって叫ぶ。

「ふざけんじゃないっての! あたしのこと誰だと思ってんの!? 朝起きたら洪水よ洪水! 床がびっしょびしょ! あたしが風邪ひいたらアンタ責任とれるわけェ!? 」


 コンコンとこれみよがしに咳をする。両手で鉄格子を握って猿のように暴れていると、食事の乗ったトレーを持って看守がノロノロやってきた。

 よりうるさくする工夫のために、靴を脱いでヒールの硬いところでガンガン叩いて、顔が見えたので罵倒する。


「権力のブタ! 税金泥棒! あんたの給料イヌのエサ! 」


 男性教師の政治新聞を盗み見て覚えた語彙。『ブタ』や『犬』や『家畜』にアレンジしてバリエーションを増やしている。


 看守は言い返したくて口元をムズムズさせながら、トレーを鉄格子の間から入れた。

 これは言い返したら負けの、一方的なゲームなのである。しかし今日の看守は、ムズムズが堪えられなかったらしい。

「ほ~らお姫様ァ。今日は共食いに励んでくださいよ~ 」

 皿を見ると、鶏肉が乗っていた。

弱虫チキンはアンタのボスのことでしょ」


 打たれたので投げ返したのに、なにやら視線が生温い。ちらりと水たまりが広がる床を見て、ヴァイオレット自身のことは視界にも入れていない。

「はいはい。あとで新しい毛布とお洋服をあげましゅよ~ 」

 突然の猫なで声に、「気持ち悪……」という素の声が出た。

 これは利いたと思ったのだが、看守は鼻で笑うだけだった。

 どうやら『おサルさんと飼育員さん』という設定で、自分の立場を呑み込んだらしい。むかつくので、なるべく高い声で奇声を上げるも、さっさと廊下の向こうに消えてしまう。


(はいはい。朝はあたしの負けね)


 おとなしく食事にすることにした。

 メニューは、燻製肉の少し入った豆のスープ。パンと、おかずに蒸し野菜とピクルス、茹でた卵、鳥のソテーが一枚の皿に添えられている。いつも茹で卵がカチカチなところが気に食わないが、スープが日替わりだったり、主菜が濃い目の味付けだったり、料理人の配慮がある。

 年頃の娘には嬉しいバランスの取れた食事。

 酷使した喉に、スープがしみて、今日もがんばろうという気になる。

 とはいっても、初日ほどの勢いはさすがにもうない。

 語彙も尽きて来て、罵倒のマンネリ化が進んでいるのがわかる。看守の飼育員さん化は、そのせいだろう。

 最初の食事では、金属製のスプーンとフォークででセッションしながら、陶器の皿を投げたものだ。三回目くらいで、軽い木の食器に変わってしまった。


 パンをちぎりながら、天井から垂れてくる水を眺める。

(今日は雨なのかな)

 外に思いをはせた。そろそろ太陽が見たいところだわ、と思う。

 ヴァイオレットはこの五日で、自分の暗闇への耐性に驚いていた。

 フェルヴィン人の血が入っているからだろうか。ふつうの人は、五日も太陽が見えないと気が狂いそうに不安になるものだと看守が言っていた。味覚がおかしくなったり、幻聴や幻覚を見たりもすると。

(フェルヴィンって一年中暗いんだもんね。それにしてもお肉が美味しい。ひいじいちゃん、あたしは今日も、呆れるほど元気だわ)


 うまく逃げきれていたら、いまごろとっくに家族と再会できていたはずだ。ため息が出てしまう。


「……そろそろ脱獄したいなぁ」

 半分ほど食べた食事を見て、ヴァイオレットはニヤリとした。




 ✡



「おい、どうした」

 飼育員さんがやってきて言った。手には新しい寝具と服がある。牢屋の中はしんとしていて、鉄格子の近くにおざなりに置かれたトレーには、食事が半分残っていた。

 午後に差し掛かり、看守は昼食の催促がないことに気が付いた。

 牢屋の中身は食事くらいしか楽しみが無いので、毎日呆れるほどの腹時計の正確さで騒ぎ始める。嫌な胸騒ぎがした。

 鉄格子の闇に目を凝らす。かすかな水音。石畳が黒く光り、予想より大きな水たまりに「騒ぐわけだ」と中身の少女に少し申し訳なくなる。

 天井から雫が垂れる。

 看守はハッとした。水たまりに沈むマットレスに同化するように、その長い髪が散らばっている。一瞬にして冷や汗に全身を濡らし、待機室に取って返す。牢の鍵は、一人では開けていけないのだ。

 待機中だった相棒を叩き起こして、鉄格子を開けた。

 床にスプーンが落ちている。この虜囚はなんだかんだいっても貴族の娘。床に直接食器を置くようなことはしてこなかった。相棒の目も、不安に揺れている。


「……おい」

 ランプをかざすと、白い肌が照らされる。髪に覆われて頬のあたりしか見えない。その肌があまりに白くて、ぞっと血が下がる。二の腕を掴んだ。少女の、まるで柔らかい脂肪の冷たさ。

「し……死んでるんじゃ」

「……落ち着け。息はしている。医者を呼んでくる」

「あ、ああ、任せた」


 一人分の足音が遠ざかる。看守はぐんにゃりと柔らかい少女の身体を抱き起こし、新しい毛布でくるんだ。寒気に背中が震える。

(こんなとこ、女の子には酷だったよな)

 看守は涙目になった。こいつのせいで毎日不眠に悩まされたし、野生の猿を世話しているような気になっていたけれど、つい一週間前までは、あの名門ラブリュス学院に通っていた生粋の令嬢だったのだ。態度はまだしも、体のほうが付いていかなかったに違いない。

 看守はたまらなくなって立ち上がり、鉄格子を出ると、牢屋の前で廊下の向こうに声をかけた。


「おい早くしろよ! 」

「――――うるせえ! 今上に連絡中だよ! 」

 冷や汗を拭いながら、永遠とも思える数分を過ごし――――同僚が連れて来た医者が、「……はて、患者は? 」と間抜けな声を出した瞬間、看守は下がった血が、一気に逆流するのを感じた。



 ✡


(うまくいった! うまくいった! 名付けて『ギャップ作戦』! ――――あーもー笑いが止まんないったらぁ! )

 ヴァイオレットは、ウヒヒとはしたなく笑った。

 狭い廊下を滑空する。廊下は翼をやっと広げられるくらいだが、猛禽類が暮らすのは鬱蒼とした森の中だ。腕の見せ所といったところだった。

 地下牢は思ってたより浅いところにあったようだ。数段しかない階段を昇り、扉を開ければ、もう窓がある廊下が続いている。


「あたしって天才! 」

 ヴァイオレットは当たり前のように窓を開けて、そこから空へと飛び出した。


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