第二部 【第18海層】魔導国家『×××・××××××』
第一節 【赤毛の鷹】
1 Fly Away
ギザギザした、青白い山脈が迫る場所だった。
緑の丘の斜面に整列した風車たちは、今日も勤労に励んでいる。
ここは年中、強い風が吹く。
夏の丘は波打ちながら、はてしなく輝いていた。
彼女は見慣れたそれらから目を逸らすように、乾いた草地に身を横たえて、雲を眺めていた。
山に囲まれ、はるか遠くの海風は、まっすぐに勢いを増しながら、このサマンサ領の谷へやってくる。
東から西へ。北から南へ。
激しく流れていく雲は、潮目に乗って旅をする魚群に似ていた。海藻に埋もれて上を見るばかりの小魚の気分で、少女は雲を目でなぞる。
ふと、風が知らない音を立てた。
草原に影が差す。夏の太陽を背負った翼のシルエットが、少女の上を撫でて飛んでいく。
――――ケツルの渡りだ。
少女は息を詰めて瞬きも惜しんだ。
身に纏った極彩の織物が風を孕み、光に透けて少女の白いエプロンに虹を落としていった。
純白の翼は、どんなものより美しかった。
高鳴る胸を抱えて、深呼吸を繰り返す。慌てて体を起こして、また呼吸を忘れる。
波打つ丘の上に、翼持つものたちが無数にやってくる。敬虔なケツルたちの巡礼が、毎年ひっそりと行われているということは知っていた。
今年は彼女が生まれてはじめてくらい、大規模に違いない。もしかしたら、この何十年のうちでも一番かもしれない。
祭のようだった。
見慣れた丘が輝いている。少女の上を、無数の影が飛び去っていく。
彼らの翼や体毛の色は様々で、けれどみんな美しい翼と、透き通った瞳をして、極彩の衣裳を陽に透かせていた。
上空にある影は薄く、地面に近い影は濃い。重なる陰影。きらめく光。
荘厳で、神秘的で、むせかえるほどの命の息吹を感じる。
(すごい。きれい)
ヴァイオレットは高鳴る胸に手をあてた。
自分はいま、すごいものを見ていると確信した。
もし、死ぬときに見るのなら、このときを夢に見たい。そう思うほど。
ああ、きっと自分の前世は鳥だったのだと確信した。
彼らと同じような翼があったら。
(あの空が自分で飛べたら……なんて素晴らしいんだろ! )
✡
さて、ヴァイオレットがただの非力な……いや、一般的な子供なら、「なんて素晴らしいんだろう」と思ってそれが終わりだった。
美しい思い出を糧に夢を膨らませ、やがては空を飛ぶため箒を手に取り、あるいはケツルと共に空を駆けるために、船乗りを志したかもしれない。
ヴァイオレットという少女のすごいところは、『ぶれなかったこと』であろう。
彼女はまず、来る日も来る日も、あの丘での経験を頭の中で繰り返し再生した。
言葉を失った感動の理由を考え抜き、自分の気持ちを分析した。
激情の根っこ、虹色の憧れの根元に埋まっている『理想』を掘り起こし、『自分はどうしたいか』を、幼いなりに考えた。
寝食もおざなりにして考えて、とても考えて……心配する両親と曾祖父に対し、三日で答えを出した。
「あのね、お母さん。あたし……」
それは普通なら、荒唐無稽な夢だった。
けれど彼女は、それが母なら、どうすればいいのか教えてくれると知っていた。
「……あたしね、鳥になりたいの。鳥になって、空を飛びたい」
『大きくなったら』と付けなかったのは、『大きくなったら』では間に合わないから。
なら、一分一秒も無駄にせず、今すぐにでもそうなりたいから。
それくらい真剣なんだと、母に伝えたかった。
ヴァイオレットは言った。
箒は駄目だ。箒では完全とは言えない。きっと鳥たちは仲間にいれてくれないし、尻尾の火があまりに無粋に思う。
航海士になれば遠くにいける? いいや、一番論外だ。自分は船の中なんて、閉じ込められているのと変わらない。
風を顔に受け、その翼の羽根の一本一本に感じながら、太陽を背に受けて飛びたいのだ。
小さくてもいい。遠くに行けなくてもいい。あのケツルたちや、あらゆる翼ある生き物たちのように、空の一部を借り受ける許可が欲しい。
そのためには、箒でも船でもいけないのだ。根拠のない確信だが、絶対にそうなのだと、今のヴァイオレットは知っている。
母は、その筋では名のある魔女だった。
こんな田舎に住んでいるけれど、すごい魔法を使える人だけがもらえる勲章と資格を持っていて、ときどき有名な学校で
ヴァイオレットは、お母さんのことならなんでも知っている。だからお母さんが『良い』と頷いたら、ヴァイオレットは夢の切符を手に入れたも同然なのだ。
母は話がわかる人なので、「大きくなったらね」とは言わなかった。
けれど甘い人でもないので、「じゃあ、試してみましょうね」と言った。
まるで庭の畑に夕食の材料を取りに行くみたいな足取りだった。屋敷を囲む石造りの門扉をくぐり、丘の先をずんずん母は歩いていく。
入ることを禁じられた森に足を踏み入れ、ふつうなら馬で行くだろう道を、ずいぶん歩かされたが、ヴァイオレットは弱音を呑み込んで背中にかじりついた。
森は薄暗くて常に上の方で吹く風で枝が揺れ、あちこちからいろんな音がする。振り返らないで歩き続ける母は、まるでいつもの母とは人が違うみたいに見えた。
母が足を止めたのは、森の中にある古井戸だった。
小さな三角屋根の塔になっており、石を円柱に綺麗に組んだ上に、ノブドウの蔓がたくさん這って、苔や藪に沈みかけている。ぽっかりと開いた入口は三段の段差があり、そのぶん地面より高くなったところに、同じ石で組んだ井戸があった。
井戸は、塔の上のほうにある窓から光が差し込んで、そこだけ照らされていた。
ヴァイオレットは母に促されるまま段差を昇り、井戸を覗き込む。光を受けて、きらりと底で何かが光った。
「光った! 」
振り仰ぐと、母は『それでいい』というように頷く。もっとじっと目を凝らせという意味だと思って、ヴァイオレットは思い切ってつま先立ちになり、井戸のへりに体をのりだした。
風も届くはずが無いのに、水面が揺れている。目を凝らしても、横穴や特別なものは何も見えない。
自分の頭の影が落ちたぶんだけ、底は暗く見えている。しかしそのぶん、澄んだ水の先にあるものがうかがえた。きらきらしているのは、光を受けた水面だけじゃあない。底に沈んでいるものも、すこし違うきらきらを放っている。
思い出したのは、貝殻の裏側に見える、乳白色に混ざる虹色のきらきら。ちょうどあんな色を放ちながら、きらきらしたものが揺れている。
呼吸がしぜんと細くなった。息をひそめ、それを驚かさないように、ヴァイオレットは手を伸ばした。
深くにあると思った水面は、ヴァイオレットがじゅうぶんに手を伸ばせば届くところにあった。
『それ』が瞬きをしてこちらを視ている。水底の闇で乳白色に浮き上がっていた鱗は水を上がると漆黒で、光を受けて虹色に輝いた。木の実のように小さくて赤い目は、透き通っていて綺麗だった。
素早い舌がヴァイオレットの人差し指を舐める。ゆっくりと瞬きをした小さな蛇は、シャツの袖を伝って少女の肩を昇ってみせた。
緊張の面持ちで振り返ったヴァイオレットに、母は苦笑して、「おめでとう」と言った。
✡
今なら分かる。
あれは、家が信仰する尊き御方に伺いをかけたのだ。
ヴァイオレットの家は、代々神官をしている。ヴァイオレットはそこの長女で跡取りだ。
ヴァイオレットの家でいちばん偉いのは、当主の父でも、曾祖父でもなく、神さまだった。
神さまが『いいよ』と言ったのだから、ヴァイオレットの進路には、もう誰も口を出せない。
ヴァイオレットの母は、変身魔術において、今代でぴかいちの腕と認められた魔女だった。
まさに追い風だった。
胸についた情熱に薪をくべ、ヴァイオレットは修練に励んだ。
実を結ぶのは、あの母をして驚くほどだったという。
ヴァイオレットは夢中だった。夢を追うとちゅう、そうして些事を無視できるのは、幼かったからか、それこそが彼女の才能だったのか。
まっすぐ前を見てぶれないことは、ヴァイオレットが目指す『翼あるもの』の理想形態でもあった。
誰も止められない。止まらない。
七歳の夢は、十歳のときに叶った。毎日泥だらけになって励んだ成果だった。
いくら田舎とはいえ、これでも貴族令嬢である。
人の口に戸は立てられず、とくに領民は、いまいちパッとしない自領の領主一家に降ってわいた天才児の存在が誇らしくて仕方がないみたいだった。
ある日の不吉な夕焼けの日。速達で届いた手紙には、その日の首都の朝刊が。
マイナー誌で、ほんの片隅だったけれど紙面の四分の一を占めていて、最悪なことに顔写真がついていた。
二日後、最果てだとか言われるサマンサ領の、ド田舎領主の屋敷のまわりを、記者たちが取り囲んだ。
この年の子供が、哺乳類への変身ですら前例がないのに、鳥への変身なんて――――!
逃げるように……いや、まさしく逃げるために、ヴァイオレットの寄宿学校への入学が決まった。
ヴァイオレットには、隠れて育てられた兄がいる。五歳で死んだことになっている、両親も同じ兄が。肖像画でしか見たことがない、首都で暮らす兄だ。
本来であれば当主になるはずだった兄。でもこの家は、ふつうの貴族の家ではない。
かの時空蛇の手となり足となる存在。『影の王』の副官の家系である。
兄はそのお役目を果たすために生まれてきたという。
ヴァイオレットとその兄は、とてもよく似ている。
癖のある赤毛に、目鼻立ち。両親の同じところを貰ってしまった兄妹だった。
このために、ヴァイオレットは、首都の社交界にも徹底して姿を隠してきたのに。兄妹が成長して『他人の空似』で済ませられるくらい男女の差が出るころ、予定では十五歳になったら、ヴァイオレットはサマンサ領主ライト辺境伯子女として名乗りを上げるはずだった。
両親のみならず、陰王と陽王に近しい者が徹底してきたルールであったが、民衆はそんな事情を知っているわけもなく、汲んでくれるはずもない。
一番怖いものを映す鏡があったとしたら、ヴァイオレットの前に映し出されるのは、自分のせいで家族が恐ろしい目にあうことだ。
慣れ親しんだ赤毛を染めたときは、むしろ清々しい気持ちになった。母とおそろいのハチミツ色の髪だ。瞳は兄と違って青いから、顔立ちをまじまじと見なければ、第一印象で繋がるわけもない。
魔術師は名前を変えられない。先祖から受け継いだ家名には、加護があるからだ。名前を捨てることは、その加護を捨てることになる。
幸いにも、ライトなんて家名は、庶民にもありふれている。
二つのときに別れた兄の記憶は、ヴァイオレットにはない。それでも、家族の親しみは忘れたことはなかった。
送られたミネルヴァ領は、国内でも首都に次ぐ城塞都市で、首都からは独立した自治区だ。
むかし、大きな内乱があったとき、当時の皇子はこのミネルヴァ領のラブリュス魔術学院に籠城し、当時の志ある若者たちと迎え撃ったという。海を越えることになるが、首都よりサマンサ領にもぐっと近い。
日々、寄宿舎の家で祈る。
神官だからというだけじゃない。ほんとうは、神官であるからこそ、神にお願いをしてはいけないのだけれど、それでも願わずにいられない。
(……明日もみんなが、いつもの明日を迎えられますように)
ヴァイオレット・ライトは、そうして十四歳になった。
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