3-8 諜報訓練

 

「まずキミは姿勢がまずい。ずっと操縦桿に張り付く仕事なんだから当たり前だけどね。そこでだね、物理的に矯正することにする。……ああ、もう少しいけるね? 」

 語尾とともに腹をギュッと締め付けられて、ヒースは椅子に手をついて前屈みになったまま、「ウッ」と濁った呻き声を漏らした。

「……に、肉がコルセットのふちで擦れて痛いんだけど」

「言っちゃなんだけどキミ、そりゃ体に無駄な脂肪がついてるからだよ。一昔前より布も柔らかくなってるし、性能は上がってるんだから。そのうち慣れる」

 ジジは『二十歳年上の貴族の後妻に入った夜の街の女』のまま、シレッとした顔で羽扇を仰いだ。


 初めての本格的なドレスの着付けは、ヒースにとって大変なイベントになってしまった。

 まず、リネンのスリップの上にコルセットを装着すると、上からペチコートを着込む。(「一昔前みたいな骨組みを仕込むこともないし、脚も上がるだろ」)

 腰に膨らみを持たせる帯を巻き、(「まあ、ウエストは細いほどいいってわけさ」)その上にまたスカートを巻く。(「ジジ、腰回りが布でぐるぐる巻きなんだけど」「お洒落は見栄と我慢だ。まだ冬だから、だいぶマシ」)


 そこでようやく、このタマネギ状態の外皮と見られる群青の布が出てきた。

 胸元が開いた袖のないワンピース状のものを上からかぶり、背中でボタンを締めると、ワンピースと揃いの袖があるガウンを着こむ。きちんと固定すれば、同じ布から出来た二枚の服は、縫い合わされたように一体になった。

 ドレスは、明るい満月の夜の色だった。ドレスの切れ目から、下に着こんだ布地が見えるようになっている。ごく薄いレースを重ねたスカートの色は、レモン色をしていた。


 隣で、モニカも同じような着付けをされていた。この小柄で若い妃は、そもそも庶民出身なのだ。講習が必要なのは、彼女も同じだった。

 ヴェロニカの力では華奢な彼女が折れてしまうためか、初老の女の姿をした語り部のダイアナが、せっせとコルセットを締めている。目にも鮮やかだが、落ち着いた深緑色のドレスだ。

 ぐるりと自分を見て、ヒースは(このドレスも高いんだろうな)と思った。

 ヒースはときどき商人の真似事もする。基本的な目利きはできているはずだ。


 着付けが終わると椅子に座らされて化粧をされた。

「こっちが下地で、こっちがファンデーション。粉と液がある。順番は今からやるのを見て覚えて。いいかい、液のあとに粉だ。復唱して」

「液のあとに粉、液のあとに粉……」

「よろしい。服の色で化粧の色が変わる。キミはもとの肌が青白いから、どんな服でもオレンジや緑は避けた方がいい。ピンクでも黄色っぽいのはダメ。必ず顔に光を当てて、明るい場所で化粧をすること」

「緑とオレンジは避ける、緑とオレンジは避ける。黄色っぽいピンクはダメ……わかった」

「今から、五パターンの場面を想定した化粧をする。軽いやつからね。自分ちでやる昼食会、余所んちでやる昼食会、七時には帰る夜会、九時まで帰れない夜会、深夜、どころか泊まりも想定の夜会」

「……うそだろ」

「残念ながら、今日は基礎までもいかない。流れをつかむための『慣らし』だから」



 ✡



 着付けや化粧自体は他人の手がやってくれる。ジジが叩き込もうとしたのは、『場面においての装い』だった。

「キミは舐められちゃダメだ」

 それがレッスン中のジジの口癖で、化粧の具合の計算や衣装のセンスは、貴婦人に『舐められないため』に必須なのだと繰り返した。

 化粧とドレスは脱いでも、コルセットの着用だけは義務付けられる。ヒースは自分の姿勢の悪さを痛感することになった。

 その点においてはサリヴァンも同じらしく、食事時になると監視するかのように隣に皇子たちがついて、『調教』を受けている。


「商売と同じさ。売り手の愛想や、身なりも見られる」コルセットのリボンを引っ張りながら、ジジは言った。

「接客と同じだと思えばいい。サービスの内容は流動的に変わる。キミたちはその見極めができるようにならなくちゃいけない。キミは綺麗だから、黙っているだけでサマになるけど、動いて台無しじゃアお人形のほうがまし」

 不思議とジジが化粧をすると、ヒースの顔は、母親よりも少し違って見えた。

「キミ、お嬢さんなんだから、もっと若々しい化粧をすべきだよ。あんな威圧する化粧は友達を増やすには向いてない。彼女のようになりたくなったら、ああいう化粧を真似すればいい」

「威圧されてる気はしないけど……」

「威圧してるさ。完璧な美人になるように計算されてるだろ。キミも真似すれば、孤高の美女になれるさ。美人は美人というだけで場を支配できるから武器になる。キミは同じ美人でも親しみやすい方向性で売り出すべきだ。もとが陽気でのんびりしてるんだから、それを活かすほうがいい」

 鏡越しに、ヒースは瞼を瞬かせた。

「……目からうろこだ」

「素人が別人になろうと演技をするとボロが出るよ。真実を混ぜ込むのが嘘のコツだっていうだろ。別人になりたきゃ、いきなりは無理だ。段階的に嘘に慣れていって、本当にするんだよ。こうして一枚ずつ、表面に塗装するようにしてね。……さ、ちょっと下向いて」

 着け髪で伸ばした後ろ髪を結い上げ、ジジはヒースの首に手を回した。

 ネックレスの代わりに、銀糸で刺繍されたチョーカーを巻かれる。真珠とオパールが、虹色に光った。


「綺麗だよ」

 悪戯っぽく囁いたジジに、ツンと首を逸らして答える。

「知ってる」

 二人は顔を見合わせて、ゲラゲラ笑った。


 ヒースがようやく基礎的な化粧技術を覚えたころ、合同レッスンが行われた。

 化粧とドレスを『完璧』に仕込み、『紳士部屋』へと移動するわけで、ヒースはまだこの格好でサリヴァンと顔を合わせたことがない。

(あっちもこういう服着てるのかな……)


 着ていなかった。

 室内は本棚とソファがあり、淑女部屋よりも形だけは居心地が良さそうだった。クローゼットはあるが、そう大きなものではない。

 しかしかわりに、大小の箱が部屋の隅に積まれ、それはつまり様々な『参考資料』であり、サリヴァンはどちらかといえば、技術よりも座学に寄った指導を受けていたように見える。

 新品のシャツを着て、いくらか髪を整えてはいるサリヴァンは、ソファに座って何か本を眺めていた。扉が開いたので顔を上げた彼は、最初の数秒、その群青のドレスを着た黒髪の貴婦人が誰なのか、気付かなかったようだった。


「……すごいな」

 たっぷり間をおいて、顔を背けるようにして呟かれた感想がどういう意味を含んでいるのかは、ヒースにはよくわからなかった。



 ✡



 ジジが手の中でパシンと扇を打つ。今日は、金色の巻き毛をべったりと頭皮に撫でつけた、気位が高そうな貴族の女だった。カーネーションの花束のような、黄色いフリフリした袖を揺らしながら、ソファに座らせた生徒を見下ろしている。

「いいですか。は、ボイド伯爵夫人。由緒正しきコリーン公爵家の血を引き――――」甲高いラッパみたいな声でジジが言った。


「ゴホン。これは重要なレッスンです。このように、一人ずつ現れる姿を記憶に刻み込み、そのお人柄と容姿、立ち位置を、完璧に記憶なさるのです。今後、レッスンの半分をこの合同授業にいたします」

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