3-7 淑女訓練

 現実へと放り出されたように覚醒した。頭の奥のどこにも眠気の名残りが無く、すっきりとしている。

 夢を見たかもしれないが、覚えていなかった。


 ヒースは体の凝りがないことを確かめるように、大きく伸びをした。

 ここの寝具の肌触りには、まだ慣れていなかった。そのためか、ここ数日は夢見が悪かったらしく、体を強張らせて目覚めることが多かったから、よけいに体が軽く感じる。


 ここの客室は、ひどく殺風景だ。

 壁紙は無地。床に敷物のたぐいは無い。鉄板を張り合わせたようなデスクと、座り心地を度外視した椅子があり、収納はなく、小さな洗面所と便所を合わせたバスルームが、入口の横についていた。

 ベッドの広さとマットレスの質だけは良く、まさしく『眠るだけの部屋』だった。


 洗面所で顔を洗い、一つしかない備え付きの小さな鏡に顔を映す。目の下に刻まれつつあった青黒い隈が消え、目に見えて顔色が良い。

 髪をブラシでいて整え、前髪を横に流す。厚い睫毛に縁どられた、青が差す紫の瞳と目を合わす。

 複製のように母とよく似た顔だった。


 隣室のサリヴァンは、もう出たようだった。

 廊下が緩やかに湾曲しているのは、ここが円柱の形をした建物だからだろう。

 食堂は一転して、木の調度品が目立つ。

 テーブルクロスのかけられた長大な長机に、ベロアの座面が敷かれた椅子が、左右に二十ずつ並ぶ。それが三組。

 相変わらず窓は無いが、かわりに壁一面が本棚になっている。降り注ぐ照明は明るく、揃いのソファもある。談話室としても利用できた。


 部屋が簡素なぶん、ここにはランダムに、誰かしらが集まった。

 よくいるのは、ヒューゴとケヴィン、ヴェロニカとモニカだった。

 ヒューゴとケヴィンは互いに離れたところで蔵書を読んでいることが多く、モニカやヴェロニカはその二人にお茶を差し入れたり、自分も読書をしたりしているようだった。

 彼女たちはグウィンがヒースと飛鯨船の整備にかかっていることで、昼時になるとやってきて、ともに昼食を取ったりもする。

 アルヴィンはもっぱら、あの灰になった森に入り浸り、夜に部屋に戻っているかもさだかではない。

 クロシュカというあの少女は、この食堂で一度も見たことが無く、部屋がどこにあるのかも分からなかった。

 ここの主であるエリカも、ここでの出現率はクロシュカよりましというくらいでしかなかった。

 サリヴァンは――――毎日エリカについて何かをしていて、朝か夜の食事時以外は顔を合わせられない。

 時にはこうして、朝時のタイミングが合わないこともあったが、今日は違った。


「ジジ! 」

 サリヴァンの隣で頬杖をつき、だらしないほど恰好を崩している彼を見るのは、六日ぶりのことだ。

 ジジはあくびをしながら、「やあ」と手を上げて見せる。そんなジジを、フォークを持ったままのサリヴァンが肘で小突いた。


「ちょっと。……サリーたらさ~、さっきからこの調子なんだ。ご機嫌ななめなんだよね」

「おまえな、あっさり捕まりやがって。こっちは心配したんだぞ」

「サリー、足の調子は? 」

 サリヴァンは、ニッと笑って手の中でナイフをくるりと回す。

「あ、ヒース、こっち座んなよ」

 ジジが隣をポスポス叩いた。

 上目遣いに見上げてくる金色の瞳は、見慣れた形に笑っている。そのことに、ヒースは自分でも驚くほど安堵していた。




 ✡




「次はキミの準備らしい」

 ジジは通せんぼをするようにヒースの前に立ち、いつのまにか握っていた扇をパシンと手の中で閉じた。

 ヒースは目を白黒して、飛行場へ向かおうと食堂を出ていこうとして扉にかかった手をそのままに、足を止める。朝食が終わればいつもそこなのだ。


「整備は終わってるんだろ? 暇はあるはずだ」

「そう……だけど……。僕の? 」

「そう。キミの。ボクが任されてる」

 羽のついた婦人用の扇で、ジジは自分の肩を叩いた。

 廊下を通りすぎ、昇降機に乗って下に。薄緑色のライトが点在する暗い廊下を進んで通された部屋には、モニカとヴェロニカもいた。

 泊っている客室より少し広いが、印象はそう変わらない殺風景な部屋。違うのは、寝具のたぐいが無く、クロスがかけられたテーブルと茶器のセット、場違いな大きなクローゼットがあることだった。


「じゃーん。こっちは淑女部屋ね」ジジはニヤニヤして言った。「サリーも今日から紳士部屋のほうに行ってるから。あ、講師は皇子様たちね」

「……どういうこと? 」

「だってホラ、言われたんデショ。キミたち技術は身に着けたけど、仕上げはまだだって。つまり必要なのは、社交。マナー。立ち振る舞い。経験不足なのは、腹芸のお稽古ってわけさ」

「はあ……」

 ピンとこないヒースは、後ろ首を掻く。

 ヴェロニカが高い背を屈めながら、ニコニコしてクローゼットを差し出した。……文字通り、クローゼットをトランクのように持ち上げてヒースの前に置いたのだ。

 義姉のモニカはひどく小柄なので、30センチほど浮き上がって、(信じられない)という目で、年上の義妹を見上げた。


「慣れていらっしゃらないようだから、まずは形から整えましょうか」

 モニカは苦笑しながらメジャーを引き出す。

「……ドレスを選ぶ前に、採寸をしなくてはね」

 ジジは腕を組んで、また扇で肩をピシャリとした。

「さいわいにも、ここにはちゃんと場数を踏んだ皇女さまと皇子様がいる。これ以上ない講師だろ? 」


 話の流れが読めてきたヒースは、押し寄せる緊張に唇をきゅっと結んだ。

「ま、待って。国に戻ったらそんな機会もう無いだろうし、付け焼刃でも今のうちにやらせとこうって考えたのは分かる。皇女様に教わるのもね、そうないことだから有難いよ。……でもジジ、きみは? サリーのほうに行くべきじゃない? 」

「あのね、ボクがいなきゃア、誰が着付けと化粧をするの? 言っとくけど、この中で一番『他人の顔に化粧をしたことがある』のはボクだよ。一時期は毎晩違う顔を作って、それにあう化粧をしてたんだからね。……こんなふうに」

 ジジは、大きな音を立てて羽扇を開いた。

 扇を顔に添えて流し目をつくり、目蓋がゆっくりと瞬きをする。その身体にまとわりつく影が巻き付くように伸びて、ヒースのみぞおちほどしかない身長が、みるみる膨れ上がった。

 前髪を掻き上げて顔を上げると、そこには髪を結い上げ、緑と黒のドレスに身を包んだ妙齢の貴婦人が立っている。艶やかに持ち上がった胸の上で、暗い真紅に隙間なく塗られた唇の端が、意地悪そうに上がっていた。

「……設定は、二十歳年上の貴族の後妻に入った夜の街の女ってところかな」

 ヒースが感心しきりで拍手をする。

「説得力があるね」

「そうでしょう? 」

 貴婦人は自慢げに、扇で顔をあおいで見せた。

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