3-6 君への手紙
ヒースはその夜、ずいぶん久々に、青く茂る草原の夢を見た。
海から山脈を越えて吹き下ろす風は、一年を通して強い。
産まれてから七年近く経っただけの幼児には、歩くのにも大変な気候だったが、寝そべってしまえば、吹き付ける温かな風が見えない毛布のようで心地よかった。
白い化粧をした尖った山脈を右手に見ながら、どこまでもどこまでも、こんもりとした緑色の絨毯が続いている。初夏の草原は花もつけ、少女のように愛らしいありさまだった。
ヒースがエリカと母子らしく過ごした記憶は、サリヴァンの実家であるサマンサ領で暮らした、たった二年ほどしかない。夢の中の草原は、そのころのものだった。
ヒースではなく『エリ』と呼ばれていたころ。
母は勉強をして疲れたら、こうして共に寝そべって昼寝をし、気まぐれに料理や裁縫を教えてくれた。
後にも先にも、実母と一般的な母娘らしく過ごせた日々は、あの頃だけだった。
「今日から私を母と呼ぶことを許します」
エリカは最初の日と最後の日に、ヒースにこうして言ったものだ。
「明日からの私は、あなたの母親ではありません」
首都アリスへ移ってから、ヒースには、アイリーンを母とするように通達が下った。
アイリーンは子煩悩ではあるが、母親らしい母親ではない。
子供への力加減というものを今だにイマイチ分かっていないし、育てられたというよりは、ともに協力して生活をしてきたという感覚がある。(思えば彼女はどちらかといえば父親気質だ)
幼いころヒースは、『親』というものは大人全般を示すのだと思っていた。
『母』や『父』は『親』の中でも特別な役割であり、父は男が、母は女が務める。
だから、サリヴァンの両親であるフランクやミイも心から父と母だと思っていたし、アイリーンを母とすることも、エリカが母をやめることも、そう重くとらえていなかった。
賢く前向きな子供であったので、役職の移動があるなら、また『母』の役職に戻ることもあるだろうと思っていたのだ。
実際、エリカは
『母』のかわりに『先生』になっただけのこと。なんの不都合も、なんの不自然もない。
そんなふうに育ってきたから、十四歳でケツルの民の船に乗り込んだときも、船長を『おやじ』と呼ぶことに抵抗は無かった。
『母』が三人もいるのだから、『父』がもう一人増えたところで。
そのころには流石に『父』と『母』がトランプの絵札のように一枚ずつしかない役職だと気付いていた。
実父にこだわらなかったのは、サリヴァンの父がヒースの父親役も惜しみ無くこなす好人物だからであるだろうし、思春期の全盛期に船乗りになったからでもあるだろうし、ヒース自身の気質もあるだろう。
良くいえば前向きで柔軟な人格である。身もふたもなくいってしまえば、おおざっぱで能天気だ。
(まあ、そこが僕のいいところなんだよね)
うんうんと頷く。夢の中なので、恥はない。
いつしか草原に寝そべっているのは、七歳のエリではなく、十九歳のヒースだった。
彼女は大人になったので、難しいものが見え、難しいことを考える。
魔術師という生き物の根本にあるのは、自然崇拝だと、ヒースは思っている。
海模様、空模様、木々の落葉、季節の移り変わり。
神話には、それら一つ一つに生まれた物語があり、所有する神がいる。神話を根拠として、魔術師は得たい力を持つ神に誓約して、権能の一部を借り受ける。
魔法と呼んでいるものは、そもそも、神々の奇跡の残り火のようなものだ。
すべての命は『混沌』から生まれた。混沌からは、最初の神が生まれた。神は新たな神をつくり、神は動植物をつくった。
世界を回しているのは、神々が緻密に設計した大魔法。
なのだから、魔術師は神々により設計された世界そのものを愛し、よく観察し、その『設計図』をお手本にして新しい魔法を構築する。
人類は、『黄金』、『銀』、『銅』を経て、『鉄』の世代に至るまでに、神々に
では『魔術』とは何か。それは人類が発明した『魔法の改良法』である。
火の神の力を借りて火を起こす。ここまでは魔法で、その聖なる火を使って道具を造れば、それはもう『魔術』と呼ばれる。
魔術とは、人間が持つ、人間らしい傲慢さと好奇心から生まれた技術だ。
自然のあるがままを崇拝しなければならない魔術師が、そうして生まれた技術に制限をつけたのは、なるべくしてなった結果なのかもしれない。
現代魔術師には、使ってはいけない魔術がある。使うと理由を審議することなく厳罰が処されるというたぐいのものだ。
『隣人を畑するな』――――つまり、同じ人間を魔術の材料にしてはいけないということ。
その命に手を加えることは、あってはならない。
神の領分に手を入れるということだから。
エリカは言った。
――――……【魔人】とは、そもそも人間なのです。語り部たちも……もちろんジジも……。
魔人とは、あってはならないものだ。
すくなくとも、国は、民は、許しはしないだろう。
そのことを、エリカが分かっていないはずがない。ヒースとサリヴァンに魔術を教えたのは、彼女だったのだから。
だからヒースは、
許されるはずがないのだ。
どんな理由があったとしても。
(僕も、『正しく』生まれてきたわけじゃないのかもしれない)
ヒースにとって、そう考えてしまうのもまた恐ろしいことだ。
母や父がたくさんいることはいいことだが、自分は自分一人しかいない。そして自分に責任を持つのは、自分その人だけなのである。
(そういえば……)ヒースは考える。
ヒースにとっての一番最初の記憶。はっきりと『自分』を意識したのは、サマンサ領主の館でのことだ。
当時六歳。ヒースは、それ以前に自分がどこで暮らし、誰といたのか、その思い出は持っていない。
おかしいことは知っていた。今までは気にしていなかった。今となっては、なんだかゾッとする話である。
膝を引き寄せて抱え込むと、いつしか草原は枯れて茶色くなり、空は暗くなっていた。小雨が降り出し、強い風で煽られて体を打つ。
濡れて冷たくなっていく体は、まるでヒースの動揺をあらわすようだ。
夜になり、あたりは闇に沈んで、雨と草の感触があるだけになった。掘り起こされた土の薫香は嫌いではなくて、ヒースはすっかり立ち上がるきっかけを失ってしまった。
「これは夢なんだから、風邪なんてひかないよね」
思考を声に出してみる。もしかしたら寝言となって口から出ているかもしれないが、一人部屋に移ったので聞く人は誰もいない。そう思った時だ。
「――――夢を夢だと自覚するのは、とても大切なことですよ。とくに、あなたにとっては」
ヒースは悲鳴も出ないほど驚いてで、バネのように飛び上がった。
風で草木が踊る音の中、確かに呼吸する誰かの気配を、腕を広げたほどの距離に感じている。
「これは僕の夢だよ! 」
ほとんど悲鳴だった。
「そうでしょうが……じつは、ぼくの夢でもありますから」
ため息交じりに彼は言う。男か女かもさだかではないが、ヒースはどことなく、声色の中に少年のような硬さを見ていた。
気配が間隔を開けて座った気配があった。なんとなく小柄な人だろう、と思った。イメージしたのは、声変わり前の少年の姿だ。
「あなたは誰? 」
相手は答えを言わなかった。「あなたに教えなくてはいけないことがあって、お邪魔したんです」
『差し出がましくてすみませんが』と今にも言いそうな口調だった。
「とても難しい問題です。けれど恐らく、この力の使い方を教授するに適した人は、ぼくしかいませんでしょう。あなたとは面識もないのに、非常に差し出がましいとは思ったのですが」
「ほんとに言った」
「すみません」
「いいの。なんだか不思議な夢だ。楽しくなってきた」
「お気に、召されましたか」
「うん。ふふ、あなたって、愛嬌のある人だね」
「……いえ、そのような人物ではありませんよ、ぼくは」
声の主は、困惑したように身じろぎした。
「……ぼくをそのように言った人は、まだたったの二人目です。ぼくは、どちらかといえば無愛想だ……自覚があります」
「二人ならたいしたもんだよ」
「からかわないで……反応に困ります」
「ねえ。きみの話が訊きたいな」
ヒースは、前のめりになって呟いた。
沈黙の中に微かなため息が聞こえて、立ち上がる気配がする。
「今日は、もうやめにしましょう。後日に出直します」
ヒースは慌てて身を起こした。
「待ってよ、気分を悪くしたなら謝るから……」
「いいえ。ただ単純に、雑談をしている余裕がないのです。もうすぐ朝が来るでしょう。すぐそこに、においを感じる。朝のにおいが」
「目が覚めるのね? 」
「そう。ですから、またお伺いします」
「明日。明日にまた会いに来て」
「確約はできませんが、善処します」
頭を下げたのだろう、とわかった。
「……ああ、そうだ。これだけは覚えておいてください。ぼくらのような者には、夢を夢だと自覚することが大切です」
「どういう意味? 」
「いずれ分かることです。では、また明日」
世界が急速に白み始めた。白い闇が被さる中、遠ざかっていく言葉がきこえてきた。
「……見える現実を取捨選択することが、その力を制御する一番のコツですよ――――」
いつも、見た夢は忘れてしまう。
(でも今回は、目が覚めていても覚えてたいな……)
ヒースは強く念じながら、そっと目を開く準備をした。
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