三節【正しい魔人の作り方】
3-1 魔人の子
「―――準備を怠ったものから死ぬのよ」
女の唇が、口癖を呟いた。
美しい顔と吐息が目前にあらわれ、遅れて黒髪が白い額にふわりと下りる。
サリヴァンは舌打ちの間もなく、膝を曲げて右下から斬り込まれた白刃を右上腕の薄皮一枚で避けた。
キン――――ッ 返す刃を下から受け、軋む筋肉に奥歯を噛む。
「教えたはずよ。全身で集中なさいな」
脇腹に衝撃が走る。跳ね上がった女の膝だった。
(まずい、まずいまずいまずい! )
のけぞった背に、首だけは彼女の姿を追う。悪い予想通りに容赦のない剣が迫り、光の速さで思考が巡る。選んだのは、そのまま背中から地面へ倒れ込むことだった。
炭化した木々が背中を黒く汚す。舞い上がった木の葉の灰を吸い込まないように唇を薄く閉じ、息を継ぎながら背中から肩へ転がる。
低い視界は、空中を重く漂う灰で曇っている。体を起こす方向は第六感に従った。
切っ先を下に構えた瞬間、柄に向かって切り込まれる。あやうく指を落とされるところだった。間髪いれず肘鉄が左からこめかみを襲うが、警戒すべきは脚だとサリヴァンは体を丸める。
踵はみぞおちをわずかに反れたが、サリヴァンは毬のように木々の間を転がった。ひしゃげた腹から押し出された吐しゃ物の上を、ごろごろと転がる。
「うっ」
地面に埋もれた岩か何かだろうか。背中を強く打ち付け、息が一瞬止まった。止まったことで、吐き出した胃の中身が逆流して窒息の予感に手足をばたつかせてうつ伏せに戻る。
重力を借りて腹の中身をすべて吐き出してから、ようやくサリヴァンは顔を再び持ち上げることができた。
「さて……もう何度目かしら。あなたがそうして立ち上がってから」
「ゲホッ、――――ご、五度目です」
「私は何度も言ったはず。準備を怠ったものから蹴りやすい弱者になる。……脚に怪我をしているわね。万全ではない。なら、あなたも例外じゃあないわ」
しゃくり。
木の葉を砕きながら、女がゆっくりと近づいてくる。右手にぶら下がった剣が、濡れたように光っていた。
「死にたくないなら、どうするか。考えなさい」
サリヴァンがようやく顔を上げた先に、切っ先が付きつけられる。
「――――思考停止の先は『死』あるのみよ」
淡い色で塗られた唇が、薄い笑みの形に歪む。
「サリー! 」
ヒースが、悲鳴のように彼を呼んだ。
✡
ヒース・クロックフォードは、いつにない憤りを胸に抱えていた。
端麗な白い顔をかすかに歪ませ、歩み寄ってくる自分と同じ顔の師を見据える。
「サリヴァン、もう終わり? 」
地面に短くなった赤毛が散っている。倒れたまま、サリヴァンは激しい吐息だけを繰り返した。
「
ヒースが非難の声を上げる。
「知っているわ。知っているからやっているの」
サリヴァンが何かを求めるように腕を上げた。エリカはその腕を取り、半ば無理やり引き立たせる。
ふらつく足元は、左足が傍から見ていかにもおかしい。ブーツの足首に奇妙な皺が寄り、爪先に重心が傾いている。足裏を地面につけるのですら辛いのだろう。
フェルヴィンでの戦いのさい、サリヴァンはその足で、首都全土を温めるほどの火球と化した『原初の泥』に触れた。灼熱の火の雨を浴びても生きていられたのは、ひとえにサリヴァンが鍛冶神の加護を持っていたからだが、直接『原初の泥』へ浸けた左足は、靴を通してその肉を骨まで焼いた――――はずだ。
本来ならば、『原初の泥』に触れて形が残ることはない。ヒースの母、アイリーンにより、時空蛇の加護もあったのだろう。
サリヴァンはアイリーンの愛弟子でもあり、時空蛇を奉ずる神官一族の長子であり、待ち望んだ『予言の子』であるのだから。時空蛇は、そもそも『原初の泥』から最初に生まれた存在だ。
同室にいたヒースにも、サリヴァンはかたくなに患部を見せなかった。
しかしフェルヴィンでは、ずっとベッドにいたのだ。ここに来て普通に歩いていたので、頭の端で気にするだけに留め置いていたが……。
(やっぱり、悪かったんだ)
フェルヴィンでの戦いから五日もたっていない。完治するわけがない。
「戦うときは万全なときじゃないときだってある。負傷した状態の戦闘の経験を積むにはちょうどよかったのよ」
立ち上がらせたサリヴァンの顔を覗き込み、エリカは溜息を吐いて、その脇に腕を伸ばして抱えた。
「……もういいわサリヴァン。治療して休みなさい。ヒース」
苦い顔をしたままのヒースに、エリカはサリヴァンを抱えて歩き出しながら言った。
「アルヴィン皇子に声をかけて連れてきなさい。昨晩からやっているのだから、あちらももう十分でしょう」
「連れて来いって、どこに」
「あの桃色頭の小娘が知っています。私と同じ顔が言えば、しぶしぶ案内してくれるでしょう」
✡
白熱する手合わせに水を差すのには苦労した。なにせ、うかつに近づくと火球が飛んでくる。
ヒースは十四歳で故郷を出奔したおり、それを期にサリヴァンと共にしていた修行をやめている。修行の中には、サリヴァンとやっていたのと同じ、格闘技や戦闘術の指南もあった。染み着いた身のこなしは忘れてはいないが、戦いの場では役に立つレベルにいないとヒースは自覚している。
少し離れたところから大声を出し続け、ようやく。
「その顔をした女はこの世に二人もいらん! ああ! こちらをジッと見るな! 心臓に悪い! 」
クロシュカ・エラバントは鼻息荒くそう言い、ほんとうに「しぶしぶ」といったふうに、ヒースとアルヴィンをエリカのもとへ案内した。
円柱の中身は迷路のようだ。
変わり映えのしない廊下、いくつもある分かれ道。上下の階を行き来するには昇降機と階段があり、階によって施設が違うので、廊下の構造が同じではない。
「ではな。わしは自分の部屋に戻る」
扉の前で、クロシュカは踵を返した。
「あの、ありがとうございました。助かりました」
隣でアルヴィンも感謝を示す。
「やめんか。その顔で言われると気味が悪い」
少し振り返ったクロシュカは、顔をしかめると背を向けてひらりと右手を振った。
特徴のない、金属製の重い扉だった。
ここの扉は、おおむねこのような頑丈なつくりをしている。
室内は、壁の代わりに衝立とカーテンで四つに仕切られていた。
入ってすぐのところに衝立がひとつ。その隣に机がひとつ。奥にベッドが四つ、それぞれカーテンで仕切られて並んでいる。うちのひとつはカーテンが引かれていた。
エリカが入口に背を向けて机に向かって書き物をしている。
「座っていて。そこにある椅子、使っていいから」
彼女が振り返らずに言うので、ヒースは衝立の前に積まれた椅子を二つ出して、アルヴィンと壁を背に座って待った。
いくらもせず、椅子を引く音とともにエリカは振り返る。眼鏡をかけている瞳の色は、見慣れた濃紺に戻っていた。
「アルヴィン皇子、少しお体を診せていただいてもよろしいでしょうか」
アルヴィンは、戸惑うように頭の炎を揺らした。
「右手を」
おずおずと、差し出された手のひらに少年の手が乗せられる。普通の医者がするように、エリカは脈を測った。
「御足を失礼いたします」
次に跪いてふくらはぎに触れ、形の消える断面を診る。聴診器を取り出して肋骨の籠の中にある心臓部の青い炎をのぞきこみ、その『鎧』にも触れた。
居心地を悪そうにしていたアルヴィンも、てきぱきとした手つきに警戒を解いていく。
「ありがとうございます。もう楽にしてよろしい」
アルヴィンの肩が微かに上下する。膝が触れない距離で椅子に戻ったエリカは、ヒースとアルヴィンを視界に入れて言った。
「……【魔人】は、わたくしの発明品です。もうお気づきだと思いますが、わたくしもまた魔人。三千五百年もむかし、自分で魔人になりました。『始祖の魔女』というのは、わたくしのことです」
驚きはなかった。ああやはりそうか、と思っただけだ。
「『混沌の夜』を収めるなかで、わたくしの元になった女は考えました。人々は疲弊し、平穏な生活には程遠い。すべての者が故郷を失くし、寄る辺が無かった。彼らには統率が必要で、国が必要で、新たな秩序が必要でした。そしてその秩序は、神々の威光のもとにある秩序ではいけなかった。人々の心はもはや神々から離れておりましたから。人々は女を……その知識を信頼して慕ってくれていましたが、唯人である女は、自らの肉体に限界を感じていた。
わたくしには知識がありました。しかし幸か不幸か、人々の営みを取り戻すには、まず土地を探すところから始めなければいけなかった。知識はあっても、国が出来て、それを活かせるようになるまでに、いつまでかかるか。ざっと計算しても、国が国として機能するまでに百年かかる事業でした。命を次に繋げるために、老いず、疲れず、眠らず、しかし人に寄り添う……意思あるシステム。そういうものが無辜の民を導くのに適切でした」
エリカは、そろえた腿の上で両の手を組んだ。
「……【魔人】とは、そもそも人間なのです。語り部たちも……もちろんジジも」
炎が揺れた。
「ジジは、わたくしが最初に造った魔人です。語り部たちは、わたくしが魔人になったあと。ジジと同じ『
「サリーに、その話は」
「さっき話したけれど、サリヴァンは知っていたわ。いえ、気付いていた」
ヒースは奥にあるカーテンが引かれたベッドを見た。
「あのころの魔人の
エリカは、まっすぐにアルヴィンを見た。
「魔法とは、この世界の法則そのものをいいます。その法則を利用し、技術として研鑽したものが魔術。神々が人類に与えた意思、魂という奇跡も、魔法のひとつなのです。
アルヴィン皇子。あなたは万物の源たる『混沌』を身に宿し、魂をこの世に定着させた。定義の上で謂えば、あなたはもう『意志ある魔法』。
魔人といって、よろしいでしょう」
アルヴィンの両手が丸く握られた。炎は一度大きく揺れたが、それきり静かに燃えている。
ちりちりと、炎が空気を炙る微かな音がする。
「『原初の泥』は、万物の源です。すべての命はそこから生まれ、人類もそう。あなたは今でこそ魔人と定義される存在ですが、これからの『原初の泥』の運用次第では、肉体をその泥が補って魂を覆い、人として再び蘇る可能性も、ゼロではありません」
アルヴィンの拳が強張った。
「わたくしにも初めての事例です。偶然に偶然が重なり、あなたは魔術師の手を借りずに魔人となった……。
アルヴィン皇子。本来であれば、魔人とは魔術のすいを注いで組み立てるもの。そこには魔術師の思惑と理論がある。
皇子の場合は逆です。皇子自身で、その『原初の泥』からかつての体を組み上げること。そうすれば、かつてのままの肉体を取り戻すことも、不可能ではありません」
震える
炎が大きく揺れている。
「クロシュカはいい師でしょう」
アルヴィンは、頷くかわりに炎を大きくした。
ヒースは、そんなアルヴィンと
今のエリカは、馴染み深い顔をしている。
彼女はこうして、何人の人を導いてきたのだろうと思いを馳せる。うちの一人は、ヒースとサリヴァンだ。
(この人は、どこまでお見通しなのだろうか)
畏敬の念よりも、ただただ不思議だった。
ただただ――――不安だった。
漠然とした予感がある。その予感がよぎったときに感じた、苦いもの。
たとえば、踏み出そうとした地面が断崖だったというような。
いつも使っている井戸の底が、落ちたら助からない深さにあると気が付いてしまったような。
(……お母さん。あなたはどんな人だったの? )
ヒースにはまだ、その不安の正体が見えていなかった。
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