3-2 時の記憶


 アイリーン・クロックフォードは、ひとりの人間の男と添い遂げるために造られた、時空蛇の端末である。

 そしてエリカは、その男とアイリーンの間に産まれた子どもだった。


 アイリーンは、ある時、娘にこう言った。

「時空蛇に、性別なんてもんはないんだよ。そもそも雌雄の概念ができる前に生まれてきたからね」

「しゆう? 」

「男と女ってこと。時空蛇は考えたんだ。人間と夫婦になるには、相手とは違う性別じゃなくちゃいけない。いや、別に夫婦じゃあなくてもよかったんだけどね。子孫を残すのが、ほら。いろいろ手っ取り早いから。だから時空蛇はね、賭けをしたんだ。『その人間が男でありますように』と、私を女として作ることにしたわけだ」

「……お父さんがお父さんになれる人で、よかったねってこと? 」

「そう。私は賭けに勝った。そして私はね。あいつの子どもが欲しくて欲しくて、お前とどうしても会いたくて、とてもとても頑張ったわけだ」

「ふぅん」

「あまり興味はないか? まぁいい勝手に喋るから聞いておけ。私はねぇ、エリカ。お前がエリカ・クロックフォードなのが幸せなんだ。お前がね、『時空蛇の子ども』ではなく、私と同じ名前と血を受け継いだ一つの命であることが、とても嬉しいんだよ」

「へぇ」

 ぺたぺたと小麦をこねていた。エリカの手から粘土細工のようになったそれをアイリーンは取り上げて、自分のものに取り込むと、力強くこねだした。

 すると、おっとりとキッチンに入ってきたライト夫人が、「まあ! 」と声を上げる。


「アイリーンたら。またカチカチの岩みたいなパンが焼き上がりますよ」

「いっぱい練ったほうが美味しくなるような気がするんだ」

「だめよ。料理は魔法じゃあなくて技術で学問。乾いた鍋を火にかけても湯気は出ません。それくらいにしましょ」

「加減がわからんのだ」

「粉を爆弾にはできるでしょう。あれより簡単よ」

「そうかなぁ」

「わたしにとってはそうだもの。やっていればできるようになるわ。かまどの扱いなら得意でしょう。用意してくださるかしら」

「任されたよ」

 おっとりと小柄なライト夫人の前で、男の人のように背が高い母は、少し背中を丸めて子供のように言う。

 赤い煉瓦のかまど。よく磨き上げられた、右開きのドア。

 ライト辺境伯家のあるサマンサ領には、夏になるとよく行った。両親と辺境伯夫妻は学友で、離れて暮らす兄弟のように仲が良かったのだ。

 窓の外ではどこまでも青々とした丘陵が広がり、青臭くて陽の香りがする風が強く吹いている。歩くとスカートが足にまとわりつき、全身で受け止めると抱き留められるような気さえした。



 ……ああ、だんだん思い出してきた。

 記憶というものは頭の中にある水たまりのようなものだと聴いた。

 雨が降れば波紋ができて揺れる。そのうち溢れることもあれば、干上がってちっとも思い出せないときもある。

 ただしこの水たまりは、すっかり水が無くなることはない。

 いわば、今までは日照りの日々だった。大きな目的と目先の多忙に邁進まいしんする日々に甘んじて、エリカは自分から、もう失ってしまった昔のことは思い出さないようにしていた。

 今は雨だ。

 大粒の雨が、エリカの頭の中では降っている。

 目を閉じると、昔の夢を見る。

 ひんやりとした大粒の慈雨じうが降っている。



 ✡




 エリカ・クロックフォードという娘が、その場所を、彼女から見て『過去』だと気付き始めたのは、暗黒の空の中に確かに『母』の存在を感じたからだった。

「あたしはたぶん、長くないわ」

 辿り着いた黒々とした荒野と、端が僅かに赤い空の下で、アリスは言い、じっさいにその通りになった。彼女はひと月も経たずに歩行が困難になり、乏しい物資のなかでようやくという掘立小屋の寝台に寝たきりになるまで、たった四十八日だった。

「あたし、こういう場所には適応できる体じゃアないもの」

 身重の女二人の世話は、アリスに(文字通り)心酔した流民の人々がやってくれている。

 アリスの第一の望みは、無事に子供が生まれることだった。そのためなら、この体は使い捨てにしてもいいと言った。(第二の望みは、子供が無事に成長できる環境を整えることである)


 彼女の『眼』は、人の脳同士を繋げてコンピューターのように使う能力だ。感染すると勝手に操作されてしまうウイルスソフトにも似ている。

 感染元である彼女自身の体から、彼女の意志だけを他の体に移す方法は、何度も使っているとアリスはエリカに説明した。

「自分の遺伝子に近いクローン体でやっていたことだから、拒絶反応のリスクはあるけど、そのあたりはなるべく相性がいい個体を選んでするわ。そうすればあたしは、この体が死んでもなんとかなる」

「他の人を『個体』と呼ぶのをやめてちょうだい……」

「あら、逆に罪悪感を刺激しちゃった? ごめんなさいね」

 アハハ、とアリスは声ばかり元気な調子で笑う。

(そうだわ。この人もともとテロリストなのよ)エリカはしみじみ思った。


 感染せんのうを広げるだけ死ににくく強くなる。アリスはそういう能力で、国に属さない反社会勢力の頭に立っていた。

「目的は世界征服です」と最初期からくちにしていた。子供の戯言と侮っていた大人から、感染せんのうは広がっていった。

 組織という群れは、人と人の連なりでできている。

 うちの一人に感染すれば、アリスはそこを起点に勢力を広げることができる。

 傍目には分からない。自覚がないこともままあった。感染者は、裏切者スパイではない。しかしまぎれもなく彼女の協力者になった。

 情報の秘匿はもはや役に立たず、対抗策は『知られていることを前提に動く』というそれだけ。

 彼女はほんとうに『夢の世界征服』の一歩手前にまで昇りつめたのだ。


 非力だが、繁栄した世界では誰よりも強くなる可能性を秘めた怪物。

 この死にかけている少女は、そんな女である。


 いま、この世界では人類が滅亡に瀕していると流民たちは言った。どれほどが生き残っているのかも分からず、自分達が最後の人類かもしれないとも。

 どうするべきか。エリカは考えた。


 エリカは、後方支援も前線も経験している。幹部候補の評価を受けていた。

 国も民族もなく、目的が同じものだけが集まる組織に属していると、評価されるのは『どれだけのことが出来るか』だった。

 母はああ言ったが、エリカ自身は『ただの人間』より、自分が大きく逸脱している自覚がある。

 肉体的な強靭さと見目の美しさ。精神の強度。知識への理解度。

 単純にいって、『人間としての出来が一級品』なのだ。

 学習すれば出来る。努力が報われないことがない。エリカが出来ることは、それだった。

 本で読んだ知識を実践で試す環境は、属した組織が用意してくれた。能力主義の社会はエリカを健全に育み、こうして原始的な世界でも、身重の自分と身重の重病人を二人なんとか生かしている。

 しかし、その場しのぎの対策しか打つことができない。限界は見えていた。


 髪がよく抜けるようになった。体は常に重く、内臓の動きが鈍いような気がする。

 それらはふつうの妊婦の体調の変化のひとつであろうが、そんなものが、『あの母』の血を引いた自分にも起きる事実が、エリカを焦らせた。

 うっすらと悪い体調を抱えて、アリスの分娩を行ったのは、六十八日から七十三日目のころ。

 昼と夜の境が無い一日の中、目の前の石を掴むように日々を進んでいて、予定日の計算など分からなくなっていた。超過しているかもしれないし、まだ早いのかもしれなかった。

 流民たちの中にいた経産婦の助言や、体重の変化などから推しはかることしかできないが、アリスの体重は見るからに日を追うごとに減っているがために、胎児の状態も分からないまま、戦いの日を迎えるしか無かった。


 ずいぶん苦しんだ。

 凄惨なありさまだった。


 そうして産まれてきたものが、およそヒトの形をしていなかったとき、なぜこうなる可能性を考えなかったのかと、エリカは膝から崩れ落ちそうになった。


 双子だったと予想される。すくなくとも、ある程度までは順調に生育できていたらしいのは、後ほど解剖した骨格や内臓の完成度から分かった。

 アリスは、精子提供者となったのは夫だと言った。彼女の能力からしておそらくそれは間違いなく、彼女の夫は肉体的にただの成人男性であったはずだった。

『適応できない』その言葉が、エリカの頭の中を巡る。

 アリスの体は適応できなかった。彼女の体は虚弱であり、豚や鶏や、実験室の鼠のように遺伝子操作されており、そもそも試験管の中で育まれてから生まれてきた。

 死産までは予想出来ていた。

 けれど。


 子供は生きていた。ヒトの形をしていなかったが、産声を上げなかったが、生きていた。

 助手を務めていた女が倒れた。


 それは、ひどい臭気を放っている。手足らしきものは見て取れるが、歩行は難しいと思われた。毛髪があり、肌の一部から爪に似た角質状の―――……。


 自分も「あれ」を産むのだろうか。


 目の前がチカチカした。もはや子供よりも、母体のほうがエリカにとっては重要だった。

 驚くほど順調に母体への処置はすみ、アリスはその後十日生き、子供のほうは六日で死んだ。

 アリスは、その十日の猶予ゆうよに新しい身体を見繕って、(妊婦のころに比べれば)万全の調子を整えた。


「……あなたは準備するべきだわ」

 アリスは言った。

「あたしには時間がなかった。でもあなたは違うでしょ。出来ることをしましょ、エリカ」

「私はあなたの子を見殺しにしたわ」

「でもあなたは、あたしを生かそうとしたのよ。お医者様としてまっとうなことよ」

「どうしてそんなことが言えるの? 気がおかしくならないの。恐ろしくは無いの。落ち込んだりはしないの」

「したわ。したけど、もうどうでもいいのよ」

「あなた、狂ってるわ……」

「不幸を下から数えたりしないの。それを狂ってるっていうのかしらね」

「わたしは怖いだけよ。こうして、あなたから産まれたものが何か、分からないことが」

「未来はそんなに怖くないわよ」

「……あなたの子供を解剖したのよ。それを培養液に入れて保存している。……自然にそうしていた自分が嫌になるわ」

「必要なことよ」

「どうしてそんなふうになれるの」

「あなたと違う人間だからよ」

「……私には無理だわ」

「エリカ、気付いて。あたしたち、二人でしか出来ないことがあるはずよ」


 エリカ・クロックフォードが、『今』を、彼女から見て『過去』だと気付き始めたのは、そんな時だった。

「蝗害がやってくるぞ」

 そう言ったのは、どこからかやってきた旅人だった。まだ生き残りがいたのか、と喜んだのもつかの間、旅人が運んできた厄災に、流民たちはすくみ上がった。

 外に出てみれば、赤黒い空のきわから黒い雲が上がってくる。それは羽虫どもの群れであった。

 逃げる暇はなく、逃げたところで、物資を持っていくことはできない。それらを蝗たちは喰い尽くすだろう。そうすれば生き残ることは、どのみち難しい。

 杖を持って外に立ったエリカのもとへ、蝗たちがやってくる。もはや剣を振ることができる体では無かった。

 巨大な、人間大の怪物たちだった。魔術を練る女魔術師をみとめるも、降りてくる気配がない。

 蝗たちはざわめいていた。

 エリカの持つ時空蛇の気配に、蝗どもは怯えていたのだ。

『時空蛇が地上にいる。かの神は目覚めたのか』

 逃げ帰る蝗の雲を見上げながら、エリカは考えた。


(ここは過去。まだ神々がいる時代。母さんはいなくて、時空蛇がいる時代)


『お前がね、『時空蛇の子ども』ではなく、私と同じ名前と血を受け継いだ一つの命であることが、とても嬉しいんだよ』


 どきどきと心臓が鼓動した。あの暗黒の空に、母の……否、時空蛇の気配がある。

 ここはエリカの生きていた世界と地続きなのだ。たとえ遠い遠いものだとしても。

(……このまま死ぬのを待つの? )

 流民たちを見る。

 夫婦がいる。親子がいる。若者が、老人が、子供が、男がいる。女も。その中に、かつての仲間たちの姿が見える気がした。


 時空蛇が、助けてくれるかは分からない。しかし、エリカは母を知っているのだ。

 母ならきっと言うだろう。



 ――――『』アイリーンの娘とあろうものが!


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