幕間 民衆の歌
まどろみの端で、母の手が枕もとに火種を灯した。
寝台が
寝顔を覗き込んで満足したのか、最後に指先が額を撫ぜて呼吸が離れていった。
灯りが消える。
落ちゆく意識の奥で、母は言った。
「わたしは、おまえを人間として産みたかったんだ」
母はそう、口火を切る。
遠い記憶。夢の
「
子供の寝息が聞こえる。籠の中身は見えない。
「神々にもまた命がある。死ぬことだってある。しかし、神の死というものはただ属性が変わるようなことなんだ。ほんとうの死は、忘却による消失なのだよ」
ごく浅い吐息を母は漏らした。もしかしたらそれは、溜息だったのかもしれないし、赤子の寝顔に心和んだからかもしれない。顔の横を垂れる髪が、その表情を隠している。
「人の命は、ごく短い。百年にも届かぬ。有限で、はかなく、制限がある。しかし残し、繋げることができる。……何をって? 心というものをさ」
母は、少し顔を上げてこちらを見た。……ように思えた。
夢の淵が融けだし、ぼやけていく。
『時空蛇』の化身である母の瞳は、暗い所で見ると赤く輝いていた。その両の眼差しすら、小さく遠ざかり霞んでいく。
声だけが明瞭に蘇った。
「いいようは何でもある……――――血、意志、記憶、言葉、歴史、物語。なんとでも呼べばいい。それをわたしは『心』と呼びたい。人はすぐ
記憶の中の母は、いつも不思議な自信に満ちている。
「エリカ。心を刻んで残しなさい。おまえという命に
遠く、遠く。嵐の音が近づいてくる。
「アイリーン・クロックフォードは、心を残すことができたんだ。
「だから、どんなに、どんなに遠いところへ行ったとしても、おまえはわたしの生きた証」
「おまえはさしずめ、わたしの勲章ってわけだ! ハハハハッ、アハ、ハハハハハ…………――――」
凍える風が吹いている。それに乗って雲という雲が掻き集められ、闇を運んできた。
こんなに空気が冷たいというのに、乾いた大地には雪の一片すら降らなかった。ときおり、針のように尖った雹が降るのだという。
灯した先から消える火を囲み、互いの肌の熱でなんとか生き長らえる。
春を待つテントウムシのように。
いつ終わるかも分からない冬の、ただ中で。
そんな人々を前にして、アリスは初めて声を震わせた。
「あなた、ほんとうに時空蛇とやらの娘だったのね……。こんな
エリカ自身にも、わけが分からなかった。
『混沌の夜』は、彼女にとっては遠い昔に寝物語に聞いたおとぎ話でしかなかった。もしくは、科学の本で読んだ、数千年前に猛威を振るった異常気象。
望んだのは生きること。
「誰にも追ってこられない。そんな場所へ行きたいと、そう望んだだけよ……」
そう言ったエリカの声は、みっともないほどか細く、アリス以上に震えていた。
「ええ、ええ。そうね。誰も追ってこられない……」
噛み締めた歯の奥で、言葉にならない声を噛み殺すようにして、アリスは呻いた。
彼女は、かつて一大勢力を築いた組織の主格だった。
この女の瞳は人を操ることができる。
その母数が増えるほど力は増し、未来を『観測』することすらも可能だった。
アリス一派は最大で億を超え、敵対した各勢力は内側から瓦解した。――――彼女に『感染』した者によって。
アリスという女を見ると、エリカは複雑な思いにかられる。
『
『彼』とは別の流れで生き残った『ホルスの眼』。
そして彼女は、『彼』の完全な上位互換であった。上位互換であったから、その命は生かされ、『彼』は消費されたのだ。
「……あなたを、連れてくるしかなかった。あなたの体を、
そんなふうに言うエリカの顔を、少女はつまらなそうに横目で見上げた。
「あいつらが追ってこない、この地の底のような場所で、あなたと心中しろって言うのね? 」
「そうよ」
「……あの人たちは? 」
二人をうかがう無数の瞳たちを
「……関係のない人たちよ。わたしたちより、ずっと昔に生きた人たち」
「あの人たち、このまま死んでしまうかも」
「でもいくらかは生き残るのでしょう……わたしたちがいるのだから」
「でも、きっとあの人たちは死ぬのよ」
「そうよ……でもそれが? 」
『アリス』は、『彼』と同じように、外見上は少女の姿を保っていた。臨月の少女の姿である。
二本の足で地面を踏みしめ、まっすぐエリカを見る瞳は、『彼』のものよりずっと濃い、夏の盛りのような青だった。
アリスは静かに言った。
「そうね。目の前のあの人たちは死ぬわ。確実に。わたしたちが死ぬより確実なことよ。だって生きようという気が、みじんも無いのだもの」
エリカは困惑を隠せなかった。じっと、かつて数億人の心を掌握していた女テロリストの顔を見下ろす。
今から、この女はとんでもないことを言おうとしているのかもしれない。
「
アリスの両眼が、燃え上がるように金に輝く。
指が、凍え
「わたしが彼らの目を見て、生きろと一言、命じればいい。そうすればあの人たちは、恐怖も絶望も忘れて動き出す。今しがた抱いた、根拠がない未来への希望を掲げてね」
「……脅しているの? 」
「脅す? 違うわ。あなたの提案よりも、より楽しいことをしたいだけ」
伸ばしていた腕を引き寄せ、アリスは立てた指を唇の前に持ってくる。「わたしはいつだって、正しいことじゃなくて楽しいことがしたいだけ。それは今も、例外じゃアない……」
力強く、女は立っている。『魔王』と呼ばれた女が、凍える暗闇に立っている。
これは夢だ。遠い昔にあったこと。けれど、彼女の言葉は一語一句変わらない。
眉間に引き絞られた眉の下で、蒼い瞳が輝いている。細い肩を広げて立つ女は、どこか見覚えのある、無限の自信に溢れていた。
「わたしはいつだって
「わ、悪あがきよ……! 」
エリカが悲鳴のように絞り出した言葉を、「ちっ、ちっ、ちっ」と、彼女は舌打ちで一蹴した。
「いいこと、エリカ。これから長い付き合いになるだろうから言っておくわよ。こっちにもこっちの都合があるの。
指が胸の中心を突く。
「まだ運命とやらの奴隷でいたいの? いつまで悲劇のひとでいるつもりかしら。ほら見なさい。あそこに、ほら。あなたの運命たちが死のうとしている。希望が死に絶え、悲劇が始まろうとしている。
エリカの顔を覗き込んだアリスは、にんまりと歯を剥き出しにして、意地悪そうに笑った。
「準備はOK? それじゃあ……今からわくわくする話にしましょう? 」
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