一節【陰王の娘】
1-1 ヒース・エリカ・クロックフォード
雲が晴れた最下層フェルヴィン皇国の昼空に、一日だけ星が輝いている。
群青の空に、とりどりの星屑が散らばる極夜の朝だった。
この国の人々が、ことごとく石になって四日。すべての戦いが終わって一日。
冥界からせり上がってきた冷たい空気を押し流す温(ぬる)い強風が、火山の山脈から街へ向かって吹き下ろしてくる。
まるで、昨夜までの戦いの名残りを払拭していくかのように。
首都ミルグースで息をしている人間は、「彼女」と幼馴染みの「彼」、それとこの国の王家の血に連なる三人のたった五人だけだった。
それぞれ疲れた体を引きずって、あるいはその身体を癒すために、街中へ散らばっていった。
この国の皇子たちは、『石の試練』で眠りについた市民を置いてこの国を去ることに迷いがあるのだろう。彼らに付いた語り部の魔人がいれば、互いに一瞬で連絡が付く。それをいいことに、長男であるグウィンをはじめ、次男のケヴィンと三男ヒューゴもまた、名残惜しむように、ふらりと祖国を取り巻く霧の中へと姿を消していた。
サリヴァンは体のあちこちを癒すため、ベッドの住人となっている。とても短いだろうが、休息のひとときが彼を癒すことを彼の相棒も望んでいるようだった。
そして、ひとり外国人であるヒース・クロックフォードは、巻き上がる短髪をそのままに、飾り気のない灰色の船体をした飛鯨船を見上げている。
船体は素人が見ても分かるほどに傷がつき、とくに破れた脇腹が痛々しい。冷たい鉄の塊に額をつけ、ヒースは目を閉じた。
父ほどにも慕う師に託された船である。一度きりとはいえ、相棒になった船を飛べなくしてしまったことに、船乗りとしての矜持が大きく傷ついていた。
(……おやじ、ごめん。この子はここに置いていく)
船体から空へと視線をずらした紫紺の瞳は、青と緋色と紫が薄く重なり合った複雑な色彩をしている。明けの空と暮れの空、両方の色を持った瞳は、父親譲りの虹彩である。溜息を吐く吐息は、僅かに白く霞んで風に掻き消されていく。顔にかかる長い前髪を鬱陶しそうに耳にかけて、ヒースはまた息を吐いた。
そのとき、空の向こうのさらに先へ思いをはせる横顔に声がかかる。
「……やぁ」
「ケヴィン皇子」
ケヴィン・アトラスは、ヒースよりも頭二つは高い背を丸めるようにして佇んでいた。
十日間の監禁生活と三日間の奮闘を終え、身繕いを整えた三十歳の皇子は、撫でつけた金髪の下にヒビの入ったままの眼鏡をかけている。充血した淡い水色の目と癖になった眉間の皺から、彼の心労がにじみ出ていた。
その二歩後ろでは、彼の『語り部』であるほっそりとした女魔人が付き従っている。
―――――フェルヴィン王家には、代々不思議な慣習があった。
王家の人物が逝去したとき、国税でもってその伝記が出版されるのである。
その人生を記録しているのが、彼ら『語り部』と呼ばれる魔人……『意志ある魔法』との別名を持つ人型の魔術人形だ。
ケヴィンの語り部、マリアは、目尻のくっきりとした、二十前後に見える女だった。
語り部の制服である黒い詰襟の上着に、足首まで隠れるスカートの裾から、尖った靴の先が見えている。小さな顔を縁取るように肩に触れる程度で切りそろえられたまっすぐの黒髪を飾るレースのヴェールは、顎の尖った白い顔を隠す役割をしていた。マリアの黒い衣裳の中、手袋だけが純白である。
前フェルヴィン皇帝、レイバーンには、五人の子供たちがいた。その全員に語り部がおり、ヒースは末皇子の語り部以外には面識がある。
語り部にも主にあわせてそれぞれ個性があるのは、ヒースはとっくに知っていた。その認識と照らし見るに、このマリアという語り部は、語り部の誰よりも静かで、まるでケヴィンの影法師のような娘だった。
差し出された水筒を受け取り、ヒースは目をパチパチと瞬く。
「……その、差し入れだ。体が温まる」
「ありがとうございます」
ケヴィンとヒースは、まだ知り合って一日も経っていない。まともに話すのも、これが初めてだった。「……あの、何かありましたか? 」
「……少しきみと話がしたくて」
「僕――――いえ、私と? 」
「すまない。邪魔だったら出直すよ」
「いいえ。……では中へ」
飛鯨船の尻のあたりにぽっかりと開いた、開け放ったままのハッチの中を指す。風除け程度にしかならないが、座る場所があればいいだろう。
ケヴィンは等間隔に並んだ三列の座席の一番前の列に、ヒースは座り慣れた操縦席をクルリと反転させ、それぞれ斜めに向かい合うようにして座った。
ヒースがまだ湯気の立つ水筒の中身を、コップに分けて差し出す。
一向に口火を切らずにカップを持て余しているケヴィンの横顔に、相棒である語り部・マリアの視線が刺さっていた。
「あの……お話というのは」
ケヴィンの肩がびくりと跳ね上がった。十一歳も下の女航海士に小さくなっている皇子に、(おや? )と思う。
ケヴィンは、父レイバーンの右腕として働いていた男だ。現皇帝となった兄に付き従うようすは堂に入っており、思慮深く厳格な男という第一印象だった。
予感がして尋ねる。
「何か、個人的なお悩みでしょうか」
「……そうだな。そうかもしれな……いや、そうだ。そうとしかいえない。非常に個人的な質問だ」
ケヴィンは、眼鏡をずらして眉間をもんだ。
「その……きみには……
ヒースは目を瞬いた。
「きょうだい、ですか」
「ああ。姉か……もしくは、姉くらいの年齢の親族はいないだろうか」
「あいにく一人っ子ですが……思い当たりがあるようなふうにおっしゃいますね」
「15か月前に、父の名代として魔法使いの国へ滞在したんだ。そこできみとよく似た女性と出会った」
ケヴィンは深く椅子に腰かけたまま、穏やかに切り込んだ。
「あれは、きみだったのだろうか」
「15か月前……」
ヒースは、顎に指を添えて考え込む。
「……でしたら、昨年の秋口のあたりでしょうか。そのころでしたら、私は第八海層あたりを航海中でした」
ヒースは淡々と、記憶を探るようにして質問に答えていく。
「彼女はクロックフォードと名乗った。『エリカ・クロックフォード』」
眼鏡越しの水色の瞳が、ヒースの顔をじっと見上げる。探るように、というには実直すぎる、願うような視線だった。胸の内で漏れた溜息を呑み込んで、ヒースは居住まいを正す。
「……私の両親に親族はおりませんので、私の姉ほどの年齢をした女性はおりません。血のつながった女性は、母しかいないんです」
「では彼女は、きみの母君だったのだろうか」
「母の営む店が城下にありますし、取引で王城への出入りもある場合がありますから、皇子と出会うこともまったく無いというわけではありません。母は相当若く見えるようですし……でも、どうでしょうか」
ヒースは、自らの耳のあたりの髪をつまんで見せた。
「私は、あまり母に似ていないんです。共通点は黒髪というくらい。でも、うちは父親も黒髪なので。女性は化粧で顔が変わりますから。似たような人がいたのかもしれません」
「でも、君ととてもよく似ていたんだ。名前も同じ」
「皇子。それ以上は」
ヒースは、首を横に振った。
ケヴィンは紙のように顔色を白くしている。縋るような眼差しが、ヒースに被さる面影を見つめた。
「私に言えるのは、
「そうか……いや、すまない。気にしないでくれ」
ケヴィンは肩を落とす。今日はじめて微笑を浮かべ、低い天井に頭をぶつけないようにそっと立ち上がった。
「いえ、あの――――」
腰を上げかけたまま、ケヴィンが振り返った。
「なんだい? 」
「その……」
ヒースは口ごもって視線を床に落とすと、意を決したように顔を上げた。
「……魔術と魔法は、違うものなんです。魔法は、こうして……」
作業着と手首の隙間を押し上げて、銀色の針のようなものが顔を出す。そこに小さなオレンジ色の火が灯った。
「……魔力を発芽させる。これが魔法です。魔術は、この火にルールを取り付ける。例えば、こう」
火影がにゅるりと首を伸ばした。ヒースの胸の前を蛇行しながら、『Maria』のスペルを綴る。
「こうして……指南性を持たせて使い手の思う形に『魔法を加工する』。これを魔術といいます」
「興味深い話だが……」
ケヴィンは不思議そうな顔をしながら、再び腰を下ろした。
「聞いてください。……魔術はそのまま学問のこともいいます。呪術もその一つ。特定の人物とを指南性を持つ魔法で繋ぎ、様々な影響を与えます。呪術は最も古く、そのやり方も千差万別です。『住まいや通り道に仕掛けをする』『瞳を見つめる』『言葉を交わす』『匂いを嗅がせる』『物を拾わせる』あるいは『譲り受ける』『対象を模した人形を作り、それを見たてて飾り付けたり傷つけたりする』――――」
ヒースは、抜かりなくケヴィンの顔色をうかがっていた。
「何かもらいましたか」
「……落とし物を拾ったんだ。それを返したくて」
「魔女の持ち物を持っているのはおすすめしません。川や海に流すか、土に埋めるか、火にくべるか、しかるべき対処ができるところへ託すか。よければわたしが引き取りますが」
「……いや、いいよ。ありがとう」
ヒースは目を細めた。
「その魔女の真意は、僕にも分かりかねますが、意図があって殿下に接触したものだと思います」
「やはりきみは、彼女を知っているのだね? 」
ケヴィンの明るい瞳が、瞳孔が分からないほど暗い濃紺をしたヒースの瞳を見つめた。差し込む光ばかりが映り込んでいる魔女の瞳は、薄い膜が張ったような笑みをつくってしまう。
「魔術師の瞳をじっと見つめるのは、おすすめしませんよ」
ケヴィンは、諦めたように首を振り、今度こそ席を立った。
「時間を取らせて、すまなかったね」
「いいえ。お力になれず、申し訳ありません」
連れだって飛鯨船を降りる。ケヴィンは思いっきり背筋を伸ばした。
白く霞んだ街並みは、すこしの間に風に洗われて、輪郭を見せつつあった。
「兄たちを回収してから、宿に戻ることにするよ」
ポケットに手を突っ込んで、ケヴィンが言う。
「……殿下」
振り返ると、ヒースの長い前髪がその瞳を隠したところだった。
指を祈るように絡ませ、彼女は飛鯨船の前にたたずんでいる。
「
「――――ああ、わかったよ」
ケヴィンは、背中を向けて宿に向かって歩き出した。
拠点にしている、この主(あるじ)不在の屋敷は、フェルヴィンの沿岸にある港町で、二番目あたりに大きい貿易商の持ち物である。
辺境も辺境、世界の端と言ってもいいフェルヴィンには、宿屋という商売は現実的ではない。
こんなところまでやってくる商人は、たいがい、こうした土地の有力者に接待を受けてそのまま屋敷に泊まるのだ。
地震の多いフェルヴィンでは、大きくとも三階建てまでの建物ばかりだ。その屋敷もしっかりとした石組みの土台の上に柱や梁を張り巡らせて、横に平べったい平らな屋根の建物だった。
一階は店と水回りが集まっていて、二階三階に住居や客間がある。海に面しているのでより風が強く、廊下の窓ガラスがガタガタと鳴った。
ケヴィンは、二階の階段を昇ってすぐの客間をノックする。すこし間が空いて、左足を引きずった赤毛の少年が、眼鏡を押し上げながら顔を出した。
「ケヴィン殿下」
「すこしいいだろうか」
サリヴァン・ライトは頷いて、招き入れた。
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