幕間:邪神狂騒曲2


「ちょっと動き出すのが遅すぎたかなぁ……」

 これは実に困ったなぁ。と、あまり困っていなさそうな、ひどくのんびりした口調で、少年は頬をぽりぽり掻いた。


「そのパン、おひとついただけますか。あ、そのトマトと挽肉のやつでお願いします」

 目についた屋台で昼食を支度した少年は、しげしげと顔をのぞきこんでくる店員の目から逃れるように、足早に小道の影へと踏み込んでいった。


 港の喧騒から遠ざかり、海岸の一角にうらびれた静かな岩棚を見つけると、これ幸いとばかりに温かいサンドイッチの包みを抱え、波風に削られた大岩の上を軽やかに渡って、波のしぶきがかろうじて届かない岩陰にちょこんと腰掛ける。

 背負った長物を収めた紫の袋が、岩肌に触れてがちゃがちゃ鳴った。


 上層の晴れた青い空には、白い翼の海鳥たちが遊んでいる。

 潮風が少年の鼻先にかかる黒髪を揺らし、南国に馴染まない陶磁器のような肌が、羽織った上着で藍色の影になっていた。


 少女のような顔立ちだった。

 幼さを象徴するように丸みをおびた輪郭をしているのに、夜の猫のように端の吊り上がった丸い右目が、奇妙なほど静かで大人びている。唇や左目蓋を縫い留めるように縦につ白い傷跡は、顔に施された模様のようになっていて、そこに落ちる長い睫毛の色違いの影が、むしろ妖しい色を振りまく要素になっていた。


 そんな美貌の少年はぐう、と腹を鳴らしながら、いそいそ袋を剥いて、はなびらのような唇をあんぐりと開けている。



「……もし、そこなわらし

 耳に気持ちのいい、渋みのある男の声だった。少年の濃い睫毛に縁どられた右目が、斜め上を向く。岩肌ばかりがそびえているのが見えた。


「ここだ。童」

 さらに視線を上げつつ、首を背後に回す。

「良いものを食うておるなぁ。ちと訊くが………」


 どこからか、ぐるぐると獣が唸るような音がした。

 音を辿った先は岩棚の上。腹を鳴らした裸の男が、着古して擦り切れた腰巻をなびかせて、こちらを仁王立ちに見下ろしている。

「……おぬしが『隠者』でおうておるのかな? 」

 暁の空のような紫紺の瞳を真ん丸に見開いた少年の手から、ぽろりと包みが落っこちて、波の飛沫の中に吸い込まれていった。



 ✡



「どうぞ」


 彼がそう言う間に、胡坐をかいた褌男は、少年が買い足してきたサンドイッチを差し出すや縋りつくようにひったくって紙を剥き、手のひらほどのそれを三口で口に押し込んでしまっていた。

 噛むのも惜しいとばかりにに夢中でむさぼった褌男は、高らかな海鳥の声に隣にいる少年の存在を思い出したのか、少年の手に握られたままの、手つかずのサンドイッチを見止めてか――――はっとして申し訳なさそうに首を垂れる。


「すみませぬ! いくら詫びても足りませぬ!『隠者』どのの昼飯を海に流してしまったばかりか、この愚か者にも恵んでくださるとは……」

「いいえ。腹が減っては何とやらといいますからね。空腹では、冷静にお話もできませんでしょう」

「……すみませぬ。恵んでいただいた身で……」

「いや、そう固くならないでください。おれは美味しくご飯をいただく人を咎めたりしません。ここまでずいぶんな道中だったのでしょう。見ればわかりますから」


 褌男は、さらに恐縮して頭を下げ、少年が食べ終わるのを待つと、居住まいを正して名乗った。


「吾輩は、ビナーより参ったクロシュカ・エラバンドと申すもの。地質学者をして長く旅をしておったのであるが……今は、はぐれた父を探してござる」

「これはこれは。ご丁寧に……アズマとお呼びください」


 少年は、丁寧な名乗りに丁寧なお辞儀で返しながら「ふむ」と頭の中を切り替えた。

少年は旅の玄人であった。それは、ケツルの民が何世代にもわたる旅路で波と風を読むように、アズマと名乗ったこの少年の中で培われた一種の経験則。

勘と呼ばれるものである。


 いわく……『トラブルと急展開は、いつもキャラが濃い人が持ってくる』


 それは、ほんとうに瞬きの間の思案であった。しかし、アズマの気が一瞬途切れたのも事実である。

 そのとき、いたずらに強い海風が吹いた。アズマの額にかかっていた布を背中にさらい、艶やかな黒髪が潮風にめくられる。少女のような面立ちに、その顔に刻まれた生々しいまでの傷に、隻眼に、クロシュカは目を剥いて何度か瞬きをする。



「『隠者』どの……いえ、アズマどのは、ひどく目に麗しい美童であるな」

 穏やかにさっぱりと口にされたその言葉に、アズマは気付かれない程度に驚き、目を伏せた。


「傷物の貌です」

「いいえ。それがあるから、貴殿の今があるのでしょう」

 真実、左目蓋や頬を大きく奔る古傷など、クロシュカにはいささかも気にならなかったのだろう。アズマははにかんで、フードをかぶると、少し残念そうな吐息を漏らす。


 経験からそれがポーズではないと感じたアズマは、内心「へぇ」と、感心するような気持ちで、この褌男に対する印象の一部を上方修正する。

(とことん第一印象を裏切る人だなぁ)



 アズマは、この傷ができるよりずっと前から、容姿を褒められることには慣れている。この姿になってからは、それが少し変わって『可哀想に』という意味の言葉が強く香るようになった。

 心配してもらうのは一向にかまわないのだけれど、「いえいえ。自分は気にしていませんよ」と返すことに些か疲れ始めているのも確かである。


 そもそもアズマは、本当に気にしていないのだ。

傷は、文字通り『男の勲章』といってもいい経緯で得た傷だったので、いっそ茶化されるほうがずっと気持ちが良い。

 クロシュカの対応は今までにない、ありのまま傷のあるアズマを『美しい』と称したわけだが、それが素直に嬉しかった。



「吾輩も、見ての通りのどすのきいた身の上でござるが、けして恥じるような傷は持ちませぬ」

 言って、クロシュカは太い首にかけられたを両手で握って見せもする。


 そう、この褌男の『異様な風体』は、その体だけでは無い。

 裸の体にかかった首枷は、うなじを通って額と鼻、顎までを覆い、小さな目孔と口元だけが露わになった鉄仮面になっている。頭のてっぺんあたりに、仮面の内側へ沿って潜っていく窪みがあり、そこに液体か何かを流して囚人を苦しめるのだろう。

 汚らしい腰巻を巻いただけの姿と言い、クロシュカ・エラバントという男は、どの角度から見ても『学者』には見えない。見るからに虜囚以外の何物でもなかった。


 きゅわーと、空で海鳥が鳴く。

 空の雲の化身のように白い羽の綺麗な鳥なのに、存外俗っぽい鳴き声である。アズマはちょっと微笑んだ。


「……お父上は、何をしていらっしゃるのですか? その身なりに関係が? 」

「ふむ! そうなのでござる! 」

 クロシュカは、いかにも憤慨したように胸を反らして気炎を吐いた。


「父も同じく学者でござる! 星見が専門でありましてな、吾輩は地面、父は空の観測のために、各地を父子二人で旅をしてござった。共同の研究をしてもう三十年以上となります。有り難いことに、我ら父子の研究結果はそれなりに実を結びましてな、ほんの半年前までは、それなりに懐具合も余裕のある旅であったのです! それが―――――」


 話は五ヶ月も前に遡るという。

 エラバント親子は、ひとつの海層に時に数か月から数年かけて、地質調査と星の並びの観測し、そのデータを比較して、『実は世界は一つだった』という近年わかった説を補強するための研究をしている学者だった。


 つまり、二十もの海層に散らばった大地のどことどこが一続きの大陸であったのかだとか、それぞれの海層自体がどんな角度で並んでいるのだとか、そういうものを大地と空の観点から観測している。

 拠点もなく放浪し続ける三十年は、もはやただのフィールドワークというよりも、世界の真理を求めるという意味では果てしない巡礼の旅のようだったことだろう。


 そんな彼らは、五か月前に、はじめての大陸に足を踏み入れた。

 その16海層アクゼリュスには、過去数度観測に訪れたが、第16海層は、大中小の三つの大陸と、いくつかの島群で構成されている。

国家は小国が三十もひしめき、細かく国境が定められていて、入国出国の手続きにやたらと手間がかかる海層のうえ、この数百年の飛鯨船の発展で『上層』から入植してきた人種と、原住民と呼ばれている人種との間で、小競り合いの絶えない土地でもある。



「それでも第ニ次大戦のころは、連合国家として一丸となって上層と戦った歴史もあったのでありますが、戦が終わるや昨日の友は敵とばかりに角を向けるという、入り組んだ事情が絡まった土地なのでござる。とうぜんであるが、富裕層と貧困層の差も激しく、いまだに文字を持たぬ民族もおりました。吾輩たちが観測したかったのは、そんな民族がいる大陸の一つでしてな。そこにある標高の高い山が観測に最適と見て、現地民に交渉を試みたのでござるが………」


「まさか、侵入者として捕まったのですが? 」


「……いいや。逆でござった。我らは大歓迎で、部族の貴賓として迎えられたのだ。……最初のうちは」



 父子が学者と名乗ったのが良い方に利いた。それも星見というのが気に入られたようであった。

 部族のシャーマンもまた星を見る。父親のほうのエラバント博士は、異文化ながらも高位の僧侶であると認識されたのだ。

 父子は部族のものと親しみ、最初の二週間ほどは楽しく過ごせた。部族のものたちも、積極的にフィールドワークに協力してくれた。長年の経験から、父子も彼らの文化を出来る限り尊重するよう心掛けていた。……しかし。



「……でもまさか、あんなことで」

 クロシュカ博士はカチャカチャと、鉄仮面を鳴らして首を振る。悲しげな声だった。



「……父は、高僧として説教を頼まれることも多かった。それつまり、まあ、寝物語のような、『外』のお話ですな。父は短気ではありますが、もとより知識を求める者には優しくなる気質なのです。その晩、部落には葬式がありました。珍しいことではありませぬ。何せ、厳しい自然と寄り添って生きておられたので、その少年も、山の崖を踏み外してしまったのだそうです。冠婚葬祭の大切さは変わりませぬ。

そんな通夜の夜、高僧たるわが父は、慰みに物語を求められ。そこで……ぽろりと、説教に『外』の常識を交えて話をしてしまったのがいけなかった……」


 ふむふむと聞いていた部族のシャーマンが最初に顔色を変えた。

『それはどういうことだ。撤回しろ! 』とエラバント博士に迫った。

エラバント博士は、今や世の常識となった『世界は一つだった』という話を、自らの研究資料に基づいて話をしただけだった。


「彼らは驚くことに、『多重海層』という概念を知らなかったのです。彼らが信ずる世界は最初から一つのボウル状であり、大地は弧を描いて丸いと信じられていた。すべての命は大地に張り付くようにできているから、大地が球体でも気が付かない。神は遠く空の星であり、大地に張り付いた人間はけして届かない。神々の雲の手で、球体の世界はクルクル回っているのだと。『世界が盆の上にあるなんて信じない! ましてやそんな世界がいくつも重なっているなんて! 』シャーマンはそう主張したのです」



 エラバント博士は高名な学者ではあるのだが、根っから短気な気質であった。

その短気具合は、子供っぽいというのが正しい。

自信の常識を真っ向から否定され、あげく『おまえは邪神の使いか』とまで言われて、その掌の返し具合にカチンときてしまった。


 横で見ていたクロシュカ博士は、父が気を悪くしたことにも、次に何を言うのかも、手に取るように分かっていた。

その口を塞ごうにももう間に合わない。祈るような気持ちで、父の次の言葉を待ったが、出てきたのは怒涛の『上層の常識』と持説の展開だった。


 クロシュカは頭を抱えた。



「吾輩たちは邪神の使い、悪魔が憑りついた者として投獄されました……。学者として、その土地で育まれた文化を否定したくは無いのではあるが……いや、あれこそ、蛮族というのが正しいのではないかと思ってしまう。吾輩はどうにかして父を逃がすことには成功したのでございますが、自身はこの有様です」



 饒舌に尽くしがたい扱いだったのは、クロシュカの裸体を見ればすぐわかることだった。その経験も、そう昔のことではないことも見てわかる。

 深く息を吐き、アズマはゆるやかに首を振った。


「……よくぞご無事でしたね。でも、どうやってお逃げになったのです? 」

「それが不可思議なことがこの身に起こりましてな! 」



 一転して、声を弾ませてクロシュカは逞しい腕を広げた。



「あれは、吾輩の処刑の日のことでござった! ついひと月前でござる! 信じて下さるか分からぬが、白く目映く光る鯨の夢を見ましてな。その神々しい大鯨様が、吾輩は『節制』なるお役目を拝命したとおっしゃった! 」


 アズマは「やはり」という内心に隠した意味もこめて、大きく頷いて見せた。



「大鯨の神さまなぞ、吾輩存じませぬが……いざ処刑となったとき――――いや、斬首であったのでござるが、いくらたっても首が落ちぬ気配に『はて? 』と思いましたらば、処刑人が真っ青になって、折れた刀を握って御座った。……その次の日、こんどは鋸で首を落とそうとなさったが駄目で、そのまた次の日には猛毒をジョッキ三杯飲み干しても駄目で、水を満たした樽に一晩漬物にされても吾輩は生きておりました! ので! 吾輩は大鯨どのは神さまで会ったのだなぁと思いましたのですよ! 」


「はぁあ……」


「吾輩は手を変え品を変え処刑を試されたのでござる。しかし死なぬ。なぜか? ひと月たったころ、再び大鯨どのがお告げに現れ申した。『あなたは『節制』。選ばれ、世界を変える宿世のもの。人類を救いなさい。手始めに、この場所におわす『隠者』を訪ねよ』と――――――これは正しく世にきいたお告げに違いないと、すぐに看守に申し上げましたらば、部族ではそろそろ吾輩を地中奥深くに生き埋めにして封印するか、外の世界へ解き放つかという話になっておりましたそうです。しかし、吾輩はどうやら、とんでもない力を持った魔王の化身であるとされていたようですね。『こんな大地の毒になるような輩を、神聖な大地に埋めるのは好ましくない』と――――いえ、本音を申せば、こんな化け物の埋まった上では暮らしたくないと、そういうことでございましょうね。そうして吾輩は自由の身となりまして、本日、大鯨様の言葉に従って『隠者』どのをお訪ねしたということでございます! 」



 ふんすふんすと、クロシュカは鼻息も荒く、拳を握って、アズマの言葉を待った。


「えーと……ちなみに、解放されたのはいつ? 」

「五日前でござる! 」

「五日前!?」アズマは声を裏返して叫ぶ。

「どうやって、16海層の秘境から、五日で第7海層まで登ってこられるっていうんです!? 」


「幸運にも、無一文でも貨物扱いで乗せてくれる船を手配できましてな! 」

 がははとクロシュカは笑った。「食わずとも死なぬ体なのは先刻承知のことでござる故! 」

「貨物……まさか、最後に食事をしたのは……ははあ」

「毒の盃は食事に入りまするか? 」

「はぁ……いや、それはそれは。ほんとうにお疲れ様でした」



『隠者』は額を拭うと、溜息と共についに苦笑した。明らかになんらかの事情を含んだ苦さを、その細めたまなじりにもっている。


 事実、隠者ことアズマは、ほとんどのことを理解している。


 つまりこのクロシュカという男は、隠者・アズマと同じく『選ばれしもの』であるということだ。


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