幕間:邪神狂騒曲3

 

(……いけないいけない。この惚けた人のペースに引きずられちゃ駄目だ。『隠者』らしくしないと……)

 息を整え、微笑の下に、どうにか威厳ある顔を取り繕う。


 海風の方向へ微笑みを向け、蒼穹を背負った『隠者』の横顔を見つめ、『節制』は一転して、じっと指図を待つ猟犬のように次の言葉を待った。アズマは頭をひねって、どうにかこの奇抜な同志に言葉をかけた。


「なるほど。事情は承知いたしました。おれは杖と剣の道しか持たぬ流浪の身の上。『隠者』と呼ばれるのは、いささか面映ゆいものですから、どうぞ名前でお呼びください」

「はい……『隠者』どの――――いえ、アズマどの」

 クロシュカは、きれいな礼を見せた。


「吾輩を、その旅に同行させてはいただけませぬか。あなた様と共に旅すれば、必ず父に会えるはずなのです」



 真摯なお辞儀だった。

 クロシュカの鍛え上げられた肉体は、けっして戦うものではない。アズマは経験から、動きや筋肉の付き方でわかる。

 クロシュカの肌にはいくつもの傷跡が奔っていたが、それはアズマのものと比べると、ずいぶん真新しいものである。

 皮膚の表面はくっついたけれど、まだその下は疼くことだろう『傷跡になったばかり』といったふうなものだ。

 五日前どころか、ここひと月の傷というには、治りの速さに少し無理があるにしろ、ここ最近のものだった。傷の形からしても、拷問跡であることは疑いようもない。

 肉体自体は、例えば山岳の民や、このマールセン公国の海の民のように、自然と寄り添った営みの中で受け継がれて鍛えられた溌溂はつらつとした体である。

 この肉体こそ、彼の地質学者という身分を証明するものであるのかもしれない。


 悪びれなく純粋で、目の前の目的に一直線。

 それが虜囚の男の本質であるのだろうとアズマは判断し、そして海風を浴びながらゆっくりと立ち上がり、真摯な眼差しを仮面の奥から向けて来るクロシュカを見下ろし、一転、心を鬼に、笑顔を脱ぎ捨てて言った。


「嫌です」


 氷ほどにも冷えた美貌のまなざしが、クロシュカを射抜く。

「なんと! いけませぬか! 」


 クロシュカは鉄仮面の奥で目を剥いて前のめりに食い下がった。

 アズマは、「はい。お断りします」ときっちりと折り目正しいお辞儀をして(クロシュカには、会釈の仕草は異文化の謝罪の仕草だということしかわからなかったが)こんどは体ごとクロシュカに向かい合うようにして、すとんと腰を下ろした。


「いけませぬに決まっています。無一文の……しかも裸のおじさんと一緒に旅をするのは、おれとしても、ちょっと憚れるものがあります。それにその仮面、呪いがかかってますね? 」


「ぬうぅ……やはりそこか……! 呪いは確かに! 『鎧除けの呪い』だとかなんとか! 鎧のみならず、身にまとうものすべて、しばらくすれば吹き飛ぶ呪いでござる。褌はギリせぇふ! しかし、下履きは駄目という有様! 尻を出さねばならぬ風体が問題だというならば……」


「お尻がどうとかは、まあ、三番目くらいの問題です。いちばんの問題なのは、あなたがおれの旅の邪魔になるということです」


「なんとかなりませぬか。路銀の問題はあとできっちりお返しいたします。吾輩、これでも大学講師をしていた時代にそれなりに稼いでおり、預金が下せさえすればいかようにもなるのです! それまでは肉体労働でもなんでも……」


「結構です。これでも一通りこなせます。それにその預金、今現在はクロシュカさんの自由にはならないんですよね? 凍結されてたりするんですよね? たった今、クロシュカさんはサンドイッチ一個買うお金も無いんですよね? 別に、これで一生会わないつもりじゃあ無いんです。でも、今は嫌だって言っています。今おれは、無一文のおじさんを養いながら、旅をする余裕はありません」


 アズマは、きっぱりと言い放った。

 そう、悲劇的な身の上話に流されてはいけない。

 安全で快適な旅に大切なのは『過去』ではない。『現状』と『先行き』だ。

 アズマは長年の旅の経験から、それを痛感している。


「し、しかし、そうであるが……そうではあるのだが……大鯨様は、アズマどのについていけと……さすれば道は拓かれると申されたのに……」


 その言葉に、待ってましたとばかりにアズマはにっこりと笑顔になった。


「そういわれると、おれとしてはむしろ安心してあなたをここで置いて行けるんですよねぇ。だって、あなたも『選ばれしもの』ですから、こんなところで行き倒れて死んじゃうようなことにはなりません。だいじょうぶですよ。大鯨は言いませんでした? 今のクロシュカさんは不死の身体だって」


「た、確かに、五回目の処刑で飲まず食わず十日ときたころに、首をくくられて生き延びた時には、『なるほどこういうことか』とついに感慨深く……いえ、いや! いやしかし! 」


「それに、お互い『選ばれしもの』ですから、いずれ嫌でも合流しますよ。遅いか早いかです」


「それなら今合流しても良いのでは!? 早くて良いのでは!!? 」




 裏返った声で、クロシュカはほとんど叫んだが、アズマは控えめに正論を述べる。


「いやでも、だって。おれたち初対面ですし。共通の知人がいるわけでもないでしょう? あなたの人格がまだ判断できる仲でも無いですし。それにおれ、確かに『隠者』ではありますが、けして聖人ではありませんし、『選ばれしもの』に、人格はあんまり評価されてないって知っているんで……」


『悪びれなく純粋』と判断した先からぺらぺらと理屈を並べ立てるアズマに、大汗をかいてなおも言いつのろうと唸っていたクロシュカは、ついに「む、無念……」と一言うなだれた。


「おれは今から、第18海層『魔法使いの国』を目指します。付いて来れるなら、どうぞ。ついてきてください。別にこの第7海層で待っていても、いずれは会えると思いますが。そのときは今度こそ、旅の同行者として考えましょう」


「む、むむう……うむ……了承した。手を尽くして追いかけてみることにする……忠告、感謝する」


「はい。では、またお会いしましょう」


『隠者』アズマは、にっこりと晴れ晴れしく言って立ち上がった。


「では、おれはこれで」

 もう一度、今度は別れの挨拶として会釈をして、アズマは懐に右手を入れた。

 クロシュカが、その指先に紙片のような四角い白いものが摘ままれているのを目で追った次の瞬間である。

 紺碧にこれでもかと目立つ黒装束が目の前から煙のように立ち消えた。


「なぬっ!? 」


 まさしく瞬きの間の消失。

 クロシュカは声も失くして狐につままれた気分のまま、しばらくその場を離れることができなかった。


 ✡




「……困ったなぁ。久々に」

 数日後。

 昼食の場所から数十キロ離れた海沿いの白い小道を、アズマはトコトコと歩みながら腕を組んでいた。


「いやほんと……ほんとうに困った」


 しみじみと呟く声色はため息交じりで、クロシュカと相対した時のどこか飄々とした態度からは打って変わり、本心からの風情である。

 唇は真一文字に結ばれて、紫の袋をかけただけの細い肩を重そうに寄せている。『肩の荷が重い』とはこういうことだというようだった。


 思案にふけるアズマは、「よし」と拳を握って目線を海に向ける。手の中でぐしゃりと紙切れが潰れた。紙切れには三十を超える船の名前がつづられては、横線で消されている。


 そこは港だった。

 いかりを水面に落とした大小いくつもの飛鯨船ひげいせんが、糸のついた風船のようにプカプカと停泊している。

 すでにアズマは、そこにあるほとんどの船に乗船の申し入れをして断られている。ほぼ共通しているのが『ケツルの民が飛ぼうとしないから』という理由だ。

 この翼の民の言葉は、船乗りにとってはひどく重い。その助言を守るのは、もはや不文律、暗黙の了解というやつだ。ケツルの言葉を重んじない船乗りなんぞは、難破したって同情されない。

 アズマのよく知る船長の船ではケツルを乗せていなかったが、若い彼女もまたケツルの民の存在を非常にありがたがっていた。

 船乗りたちのそのスタンスは、一種の信仰そのものだ。

 そんな船乗りたちが、ケツルが「駄目だ」と言い放った進路へ舵を取るわけがない。


 しかしアズマは、ひとつだけ、ケツルの民の言葉に左右されない船を知っていた。

 そして知っていてもなお、避けていた船でもあった。


 信仰深くないわけではない。むしろ……その真逆なのだ。


 ✡



 船体に大きな目の模様を描く『航海無事のゲン担ぎ』は、ケツルの民への信仰の次くらいに浸透したおまじないである。

 しかしその船は、目玉は目玉でも『蛇の目』と呼ばれる二重丸の絵図を、それこそ鱗のようにびっちりと、流線形をした船体の上から下まで覆った派手なデザインだった。

 珊瑚色の地に、奇抜な光沢のあるターコイズブルーの二重丸なので、すでにこれだけでも派手派手しい。

 さらにはその鱗の上から、勢いのある筆さばきで、ばっくりと口を開いた龍の横顔がでかでかと炎を吐いている。


 たくさんの飛鯨船がある中でも眼に痛いほど目立っているこの船の名を、『ポルキュス号』。

 高さ三十二m、体長二百二十二m、『超大型』に分類される飛鯨船である。

 これが『表向きは』貨物船だといわれているのだから、豪快な益荒男ますらおぞろいの船乗りたちも、曖昧に苦笑いするという一種のふだ付きだった。


 そんなポルキュス号を見上げ、アズマは確認するように、外套にいくつもある内ポケットから封を切った手紙を取り出した。

 薄紫で金箔が散らされた、女性の薫香がいやでも漂う上品な封筒である。

 光沢のある銀鼠の便箋にも、端に紫の小花が散らされている。ほとんど黒に近い藍色のインクで『拝啓、父上様』から始まる『彼女』の言葉が綴られていた。



『拝啓、父上様。


 旅の御様子は如何なものでございましょうか。どうせ死んではいないとは思っておりますが、せっかくですので、大事在りませんようと申し上げておきます。

 こちらは何事もなく、厚くも寒くも無い場所でただ穏やかに日々を過ごし、時の移ろいを眺めるばかりです。

 はっきり申しまして、暇で仕方がありません。

 故郷の大事と、最初は簡単に引き受けたことでしたが、いつしか私は、あの張り詰めた戦いと安寧を繰り返す日々のほうがすっかり性にあってしまったのだと痛感して、旅をしている貴方様が羨ましく思っております。

「恋の一つでもすれば生活と肌に張りが出て良いのでは」などと言われましたが、煩わしさが増すばかりで、張りが出るより、ため息の数が増えるだけだと分かりました。

 いわゆる『良いとこの坊ちゃん』どもは、まったくぺらぺらに薄く、腰が入って無くていけません。


 さて、時候の挨拶と近況報告はこれくらいでよろしいでしょうか。本題に入ります。

 先日、貴方の麗しの姫君よりお手紙が届きました。

 いわく、貴方の行方がわからぬため、伝言を頼みたいとのことでした。

 彼女も忙しいというのに、じつに孝行娘です。


 伝言というのは他でもない、『ケトー号』の兄妹船、母艦である『ポルキュス号』についてです。

 先日のフェルヴィンでの一件で、ケトー号の船長はポルキュス号との別行動を決定いたしました。


 ポルキュス号は、『牡山羊の君』を仮の船長とし、『無貌の君』と『スレイプニルの母君』とともに、有事に備えて上層世界で待機することにしたそうです。

 貴方なら、これでお分かりになりますね?


 冬の間は、第7海層ネツァフに停泊すると思われます。

 なにぶん目立つ船とのことでしたので、ネツァフのどの港にいるのかは、御自分でお確かめください。すぐに見つかるはずです。

 船長からの紹介状も同封いたしますので、どうぞご活用くださいませ。


 貴方の最初の娘より』


 封筒を逆さにすると、言葉通りに細く折られた紙が入っていた。

 端を、お菓子の名前が刻まれた金色のラベルシールで止めてある。紙自体も洗濯屋のチラシの裏である。

 どうやら船長はテーブルにあった適当なもので紹介状をあつらえたらしいと知れて、アズマはこの紹介状が有効に作用するのかどうか一抹の不安を感じた。


 粘着力が著しく落ちたシールを剥がして、中身を広げてみる。

 そこには一言きれいな字で、『このチビは私の父親です。』と、大きく二段に別れて書かれていた。端に小さく署名がされているのがせめてもの救いかもしれない。


「……マジかよ」


 アズマは眉間を揉んで目をつむる。


 目を開けてもう一度見ても、



『このチビは

  私の父親です。』



 としか、無い。



(これを、その方たちに出せと……!? )


 想像するだけでひやりと冷たい汗が流れる。アズマは手紙を手に戦慄いた。

 つまりだ。

 このポルキュス号の住人たちの正体と、その意味を知っていて乗り込むということは、燃え盛る炎の中に油を被って入っていったり、深海で潜水艦から生身のまま飛び出したり、高度1000㎞からパラシュート無しでスカイダイビングしたりして、『きっとなんとかなるよ』とうそぶくレベルの、狂った脳みそが必要なのである。


 アズマはそれを知っているから、時にはそういう頭のおかしい決断が必要だということも分かっている。

 頭痛がする。


(おれ、うまくいかないと死ぬんじゃあないか? )


 アズマの心は臆病な鼠のように震えているが、しかしそこのあたりは、長年染みついた経験がものをいった。

 訓練を重ねた体は、必要だと(すくなくとも思考の上では)理解すれば、理性と本能が仲良く首を振って悲鳴を上げていようとも、動くようになっている。

 港の職員に連絡はしてあるので、桟橋はいつでも使えた。アズマは傍目にはちっとも動揺を見せず、ほんの数十歩、二十二段ある桟橋の階段を踏みしめ、ポルキュス号を訪ねた。


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