幕間:邪神狂騒曲1


「困ったなぁ」

 それは麗らかな南国の青空の下、海辺をのぞむ白い街道の道端で呟かれた言葉であった。

「困った……」


 そう呟いた少年は――――少年と思われるその人は、ぽりぽりとこめかみを掻いて、しきりに首をひねりながら、フードの陰でしげしげと港の共同掲示板の前で何度も文字を見返している。白く塗られた木版でできた掲示板には、『しばらく欠航』の文字があった。



 一般論から見ると、彼は少し不思議な風体をしている旅行者だった。


 体つきは明らかに小ぶりであった。150㎝も無いだろう。

 この陽気に、鮮やかな真紅が裏打ちされた真っ黒な外套を頭から被っている。

 下に着ているのは、襟の高いインナーの上に、外套よりやや柔らかい質感の黒い長着、光沢のある銀灰色の糸でごく小さく、繊細な唐草紋様が並んだ帯を腰に締め、そこに裾を上げて端折った……いわゆるところの、中層文化的な――――東洋的裁断の、ボタンなどの金具ではなく、帯で締めるタイプの……民族衣装である。

 裾をかなり長く帯に差し込んでいるので、太ももまで丸見えだが、足元は薄手の麻のズボンに、底がしっかりとした、履き古したブーツが覆っている。

 黒づくめといっていい恰好の中で、ひときわ目を引くのが、その背中に背負っているものであった。


 少年は、これといって荷物らしい荷物を持っていなかった。


 財布は身に着けるにしても、着替えや身だしなみを整える道具など、旅に必需品といえる手荷物はどうしても目につくものだ。しかしこの少年は、背中に身の丈ほどもある長物を包んだ紫色の布袋を斜めにかけただけで、およそ荷物らしい荷物が無い。


 これが普通に観光をしていたのなら、応対する店の店員などは必ず首をかしげるはずである。

 外国から来た風変わりな観光客と見るにしても、あきらかに年は若すぎるし、旅慣れているけれど、やっぱり一人旅には幼すぎるように思う。

 さらに、目深にかぶったフードの下、僅かに見える肌といえば口元であるが、その可憐とも称せる幼気な唇の右端には、上下の唇をぱっくりと深く断つ、白い古傷が見え、前述の通りの荷物の少なさが、よけいに『訳あり』っぽく見せる。

 すわ家出少年か。それとも、どこぞのお嬢さんの男装お忍び道中か。……いやいや、あれはこの世のものではないなどという戯言も、まじまじと見れば見るほどなんとなくシックリきてしまうほど、浮足立った夜闇の雰囲気がその少年には滲んでいた。


 しかし今この場所では、そんな少年のことは誰も気にしてはいなかった。いや、気にするどころではないのである。


 あたりには、同じように困り果てた山盛りの船乗りや旅行者が、海岸線を望むように一段高くつくられた街道から溢れんばかりに右往左往していた。

 彼らの言葉を盗み聞くには、この第七海層ネツァフにある無数の島国の一つ、マールセン公国の大港はもちろんのこと、『上層』の港はどこも、同じようなようすらしい。


 それというのも……。

 少年は人ごみの一角で上げられた怒声に、烏合の衆にならって視線を向けた。


 いかにも南国の船乗りというかんじに肌の焼けた若い男が、「話が違うじゃねえか! 」と、同じく船乗りだろう相手に食ってかかっている。

 そちらは淡雪をまぶしたように白い細かな毛皮のある顔をまったくの無表情にして、「そうは言われてもねえ……」と、むしろ迷惑そうに体を斜めにして男と相対していた。

 その詰問されているほうの人物は、首元を襟巻のようにふさふさとした羽毛が覆っている。猫を思わせる長い胴の上に、鮮やかな朱と翠の前掛けと蜻蛉玉とんぼだまのついた房飾フリンジがついた腰巻を身に着け、陽光に艶々と輝く漆黒の翼を小さく縮めて、肩をすくめるような仕草をする。


「あたしには、むしろあんたの言う事がわかりませんね。ヒトの存亡も危ういこんな時に、ノンキに船を出すだなんて……あたしにゃア恐ろしくって、できやしませんよ」

 その言葉に船乗りの方は怯んだと見え、しかし次の瞬間には威勢を取り戻すそうとするように必要以上に声を張り上げた。

「そ――――そんなの、『審判』が始まっただの、眉唾どころじゃねえおとぎばなしじゃあねえか! 験担ぎもたいがいにしやがれやい! 契約金はとっくに払ってんだ! あんたが出来ねえってんなら、ほかの航海士を用意だてすんのが筋ってもんだろう! 」

 しかし、翼の人のほうは柳に風のようすである。

「ですからねえ。あっしら『ケツル』が飛べねえって言ってんのに、飛ぶ航海士がいるわけが無いじゃあありませんか。ここは諦めなさいよ。無理に飛んだところで、あんた、死神の懐に飛び込むようなものですよ」


 声色から察するに、この『ケツルの民』の航海士は、どうやらかなりの熟練であるようだった。犬や猫の年齢がいまいちピンとこないように、ケツルの、家猫よりも鼻ずらの長い山猫顔の年齢も『ヒト』の目にはあまり判別がつかないのだ。


 ケツルの民特有の黄金の目が、頭二つも高い場所にある船乗りの顔を駄々をこねる子供を眺めるように見つめ、船乗りは今度こそたじろいで唇を引き結んだ。

「それにねえ、おとぎ噺と侮るといけませんやね……。あんたもいっぱしの船乗りなら、こういうときは不吉を嗅ぎ分ける鼻をお持ちなさいな。無理に下層へ落ちるのなら、いっそここに留まるか、あっしと一緒に上層に行くのをおすすめいたしますよ……」


 ケツルの航海士のたしなめる声を背にしながら、少年はため息交じりに、そそくさと人ごみを後にした。

 ぎっちりと掲示板に群がる人の群れの中を、少年の体は一枚の紙が風に乗るように、するりするりと服の裾も触れることなく泳いでいく。人々の中には彼の風体を見止め、慌てて道をゆずる者もいる。


「……なんだあ、ありゃあ」

 中にはその背に向かって、口さがなくそう呟く者もいた。それらを歯がにもかけず、少年はあっというまに群衆から姿を消す。



『ネツルの民』は、いわゆる巡礼の民に部類される人種である。

 約60年前に終戦した世界大戦より以前、古代といわれる時代から、世界中を飛び回ってきた翼の民だ。『飛鯨船』による航海が一般的になるよりずっと前から、身一つ命がけで『雲海越え』をしてきた彼らは、今の時代、生まれながらに優れた航海士であることと、非常に信心深いことで知られている。

 彼らの旅は、生活のための旅であると同時に、非常に過酷な修行と巡礼の旅でもあるのだ。


 長年の厳しい巡礼の旅で培われた、ケツルの民の『風読み』『波読み』は、およそ他の人種では真似できない技術として確立していた。

 それはまだ飛鯨船が今の形になるより前、古代と呼ばれる時代から、多くの船がこぞってケツルを航海士として雇い入れていることからあきらかである。


 ケツルの翼を借りた飛鯨船は、『羽根付き』と呼ばれて有難がると同時に、船乗りたちにとっては信頼に足るあかしともなる。今の時代、ケツルの側も、こうした仕事は高い給金と屋根付き移動による安全をもらえるとあって、ウィンウィンの関係が築かれているというわけだ。

 大きな船団ともなると、用心を重ねて四人も五人もケツルの民を迎えて入れているもので、航海中、その一声は船長の発言ほどにも尊重される。


 そんなケツルの民が、ある日から世界各地で口を揃えて『飛べない』と主張し、契約を楯に無理に船に乗せようものならば『今後一切ヒトの社会には関わりませんよ』とまで言い放って、ストライキの姿勢を取っているのだ。


 こんなものは前代未聞。生活のほとんどを航海に捧げている船乗りたちにとっては、まさしく天変地異の前触れに等しいが、船乗りたちにも、月刻み、年刻みの生活の予定があるのだから、そうも言ってはいられない。各地の港はたいへんな騒ぎになっていることだろう。




「ちょっと動き出すのが遅すぎたかなぁ……」

 これは実に困ったなぁ。と、あまり困っていなさそうな、ひどくのんびりした口調で、少年は頬をぽりぽり掻いた。


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