15-終 絶望の紅い花/シリウス
城は、かろうじて城の形を保っていた。
瓦礫に変わった玄関ホール。地下講堂からまっすぐ天に向かって撃ち抜かれた城の中心部には、玉座の置かれた大広間もあった。
「……でも、アデラの応接室は、きっと無事だと思う。あの部屋は南の端にあったから」
ヒューゴが言った。
「そうか……それならいい。あの部屋は特別だ。きっとみんな喜ぶ」
瓦礫に腰掛け、空を眺めているレイバーンが言った。
グウィンは黙って、弟と父親のそんな姿を見守っていた。
雨上がりに、風が山から呼んできた霧が、空と地上の境を曇らせつつある。
誰からというわけでもなく、三人は空に背を向け、崩れかけの城門の中へと戻ることにした。
✡
レイバーンは、ダッチェスの訃報に「そうか」と一言、呟いた。
古びて黒ずんだ銅板の端には、真新しい断面の欠けがある。グウィンの指が、なめらかな飴色の断面を撫で、小さく祈りの言葉をつぶやいた。
「……あれは誇り高い
レイバーンはそう言って、微笑んだ。憑き物が落ちたような笑顔だった。
「……グウィン。そろそろいこうと思うのだ。いいだろうか。あとは任せても」
「早く迎えに行くべきですよ。父さん」
「待ってる女が三人もいるんだからな」
レイバーンはふと、微笑みを引き締め、まっすぐに瓦礫を眺めた。
「……最期におまえたちと話せて良かった」
「……それは本心からか? 」
「本心だとも。後悔は山ほどあるさ。けれど死人が遺せるのは、言葉だけだから」
グウィンの低い声が、銅板の文字を読み上げる。
本来なら、語り部自身が主の葬儀で口にする言葉だった。
「”硝子の靴を履き、葬列の末尾を踊ろう”
”涙を真珠に変えて撒き、野ばらの戦士の旅路を飾ろう”
”言祝ぐ
”硝子の棺は光なき場所へ収められる”
”しかし、その上には永遠を誓う野ばらが茂り、わたしが共に横たわる”」
言葉が音になるたび、銅板の文字が魔法の残滓で金色に輝く。
「”数多の言葉を墓標としよう。わたしは屍に寄り添うもの”
”
”死も、時も、わたしとあなたを別たない”
”わたしはあなたに寄り添うもの。あなたを永遠に変えるもの”」
瓦礫の城でひっそりと、城の
「―――――”わたしは、あなたの葬列を言祝ぐもの”」
銅版が煌めいた。その光がグウィンを照らし、風が光をまとって巻く。
新たな王の生誕を祝福した銅板は沈黙し、あとには、古い王がいなくなっただけだった。
……地響きが聴こえる。
グウィンの背後で、門の向こうが急速に赤く染まった。
サリヴァンが足早に門の外へと駆け出す。城の全景を視界に入れ、サリヴァンは黒い目を大きく見開いた。
その目に映ったのは――――――。
「―――――なんだ、あれは……っ! 」
ぐらぐらと揺れる地面に抗いながら、全員が城を出た。そして、頭上を覆うものに驚愕する。
ヒューゴの顔が悲しみと絶望に歪んだ。
「アルヴィン……! もう間に合わないのか……? 」
――――――それは、さながら空に咲いた『
燃え盛る業火の花が、今にも落ちてきそうに空に咲いている。
固く結ばれた蕾の先は、いまにもほころびそうに、炎を吹いて揺れている。
その炎の先に、黄金に輝く人影がある。
全身からダッチェスを貫いた赤く焼け爛れた
火炎の
「―――――『
グウィンの低い声が、一行を正気に戻した。
紅い影に塗れながら、瓦礫がガラガラと音を立てる。最初は手。次に腕、肩、頭――――――。
数は一そろいで十二。
『王』を守る近衛兵たちは、サリヴァンには見上げるほど大きな皇帝グウィンよりも、さらに二回りは大きい。
まばゆいほどの白金の体を持った体は、レイバーンのそれよりも洗練され、曲線的な線を描いている。
露出した口元は優し気で、女性的である。兜の奥では、柔らかな赤い光が、大きく一つ灯った。
ガツン! と、グウィンの背後に立った『剣の
扇状に展開した兵たちもまた、盾を打ち鳴らす。
―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!
―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!
―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!
―――――ガン! ガガン! ガン! ガガン!
『
「行くぞ。僕らで護るんだ」
鬨の声が上がった。
✡
「キヤ――――――――――――――――――――――――――――ッ!!!! 」
『魔術師』は甲高い歓声を上げた。
「なんッて、なんと、ああ……! 素晴らしい……! 」
冥界の黒い泉のほとり。裸になって沐浴をしていた魔術師は飛び上がり、手を打ち鳴らして狂喜した。
彼女の目には、泉に映る紅い花が見えているに違いない。うっとりと両の手指を絡ませ、情熱的な吐息を吐き出す。
黒い瞳の奥が、赤く輝いた。
魔術師が飲み込んだ銅板を鍛造した鍛冶神の炉に灯っていたのは、人類を創り出した『叡智の炎』であった。その炎は、すべての生命の源である『混沌の泥』から生まれ出でる。
その、銅板にこめられた小さな種火を呑み込んだ魔術師は、今や瑞々しい少女の肉体を持っていた。
大きく開けた口の奥でも、腹の内で燃え盛る炎の光が漏れる。
命すら生み出す聖なる火の力を用いて、こうして冥界と地上で、二つの
……否。もう、蘇ったのだ。
「もうすぐ……もうすぐお会いできますね。我が王、我が主になる御方……」
いそいそと、『魔術師』は泉から上がるとローブを羽織る。
褐色の肌には、目尻の垂れた、愛らしい大きな黒い瞳の
艶やかな黒髪は地を掃くほど長かったが、彼女の手は手慣れたようすでそれを二つの束に分け、耳の後ろで編むと、胸の前に垂らしてまた一本に編みこんだ。
ローブにあわせた銀色の靴を履き、青い帯を肩から背に垂らす。華奢な肩にはやや幅が広く、ずり落ちそうになるそれを、五芒星を
額を彩る麦の穂を模した冠は、やはり、
「その真紅の花……このわたしくしの胸にくださいませ」
少女の肌の上で、茨の刺青が、
アルヴィンはその光景を、じっと、石の木立の中で見ていた。
光を失った視界の中で、彼女と泉だけが、くっきりと浮かび上がっている。何かに招かれるようにして、この泉に迷い込んだアルヴィンは、ふやけたような理性の中で、ぼうっと、彼女の身支度を見ていた。
やがて、魔術師は翼を広げ、暗黒の空へと飛び去る。
地上へ向かうのだと、アルヴィンにはなぜか分かった。
魔術師の中にある銅板のかけらが、アルヴィンに何かを告げようとしていたが、今のアルヴィンには、それを感じ取るだけのものを持っていなかった。
誰もいなくなった黒い泉へと、アルヴィンは、導かれるまま踏み出す。
覗き込むと、青い炎がぽっちりと一つ、浮かんでいるのが映った。
ゆっくりと、見えない何かに手を引かれるように、身を浸していく。
泉の中で、アルヴィンははじめて『温かさ』を感じた。
今のアルヴィンのスカスカの体には、小さな魂の炎が一つだけ。その青い光を包むように泉の水はアルヴィンに浸食し、ひとつの短い夢を見せる。
もはや懐かしくなった感覚だった。
「アルヴィン様」
主と語り部だけに届く、お互いの声。
「わたしは、わたしだけにしか出来ないことをします」
微笑んでいるような声だった。
「あなたも、あなたにしか出来ないことをして」
無い首を振る。(そんなの出来ないよ)と言ったつもりだった。炎が消極的に小さくなった。
「いいえ。わたし、アルヴィン様がいるから頑張れるんです。あなたがいないと、わたしは―――――」
ごぼごぼと、泡の音で声が掻き消される。
(待って――――――)
無い腕を伸ばす。炎が少しだけ燃え上がる。
(いかないで――――――)
「――――わたし……」
(ミケ―――――――!)
「わたし、待ってます。あなたがわたしを、見つけるまで。いつまでも――――」
(きみはどこにいるの――――――)
「ミケは、ずっと、待ってます―――――! 」
(ぼくは、ここにいるよ―――――! )
「探して! あなたはわたしの『星』! いつか、こんどはあなたが、わたしを見つけて――――――! 」
目の前を無数の泡が横切る。白いそれは、いや、泡ではない―――――無数の光の粒。星屑だ。
漆黒の天蓋に、どこまでも広がる海原に、色とりどりの数多の星屑が輝いている。
天も地もない孤独な星々の虚空に、穿たれた小さな光のように、追い求めた人が見える。
――――――視線が確かに交差した。
変わらない金色の瞳が、アルヴィンを見つめて潤んでいる。
伸ばす手が無い。遠ざかっていくその人を、追いかける足も無い。
呼びかけるための口も喉も舌もなく、触れて届けたい温もりも、失っている。
あるのは裸になった魂の炎だけ。
遠ざかる。――――――どうしようもないほど、遠くへ。
あの孤独な星の海で、ミケはひとり取り残される。
(僕はそれを忘れてもいいのか? )
小さな疑問が浮かぶ。
忘れたいばかりの記憶の中で、拠り所だったのは何か。忘れられないと常に思っていたのは、何だったのか。
『語り部』は、アトラスの民の誇りだと、誰かが言った。
『語り部がいるから、アトラスの王族は、彼らに誇れる人間になろうとする』のだと。
語り部がいると、『先祖に誇れる人間になりなさい』と言われているようで嫌だった。
けれど。……でも。
どんな目に遭っても、語り部は、語り部だけは、主の真実を知っている。
それが、心の拠り所だったのだ。
それこそが、語り部の存在だけが、アルヴィンという人間に残った誇りの形だったのだ。
(僕は――――――)
伸ばす手も無い。進む足も無い。声すら上げられない。誇りはどこに行った? (僕の語り部は、どこに行った? )
疑問は意志となり、意志は誇りとなり、誇りは望みとなり、望みは願いになり、願いは祈りとなった。
黒い泉は、アルヴィンに問いかける。
―――――おまえは何を望む?
―――――おまえは何を願う? 祈る?
ああ、この泉はこういうものなのだ、とアルヴィンはようやく理解する。
問いかけ、願いを引きずり出す。そうして目の前に見せつけるのだ。
(僕は――――――! )
泉は、それだけのもの。『見せる』だけ。
では、あのミケは幻? いいや、違う。あれは、ミケが泉を利用して届けたメッセージだ。
ミケは、自分を待っている。
(置いていくことなんて、できない――――――)
足がいる。腕がいる。舌が、喉が、口が。
疑問は意志となり、意志は誇りとなり、誇りは望みとなり、望みは願いになり、願いは祈りとなる。
―――――おまえは何を望む?
そして祈りは、渇望へと変わる。
✡
冥界に星が灯った。
ジーンは、冥界の一面の闇に灯ったその光を、信じられない想いで見上げていた。
「あれは……! 」
ああ、戻らねば。あの星を追いかけねば。そう、そうだ。
しかし、その首にかけられた縄が、それを許さない。
「……いやあ、よかった。やはり自分から冥界へ降りて来たな。そろそろ自由の時間は終わりだぞ。ジーン・アトラス」
ギリリと奥歯を噛む。見上げるような赤毛の馬にまたがる男もまた、巨馬に劣らぬ体躯の持ち主だった。山脈のように起伏にとんだ体躯に戦装束をまとう男は、亡者だというのに快活に歯を見せて笑う。
「おまえのここでの最初の役目は終わったのだ。よくぞ『星』を目覚めさせた! 地上で我らが死者の王がお待ちだぞ。『白の騎士』よ、この『赤の騎士』が、貴様を軍勢へお連れしようではないか! 」
男が馬上から、犬でも引くように、ジーンの首に繋がる縄を引いた。
成すすべも無く引きずられながらも、ジーンは遠ざかる星に思いを馳せ、目蓋をきつく閉じて祈っていた。
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