15-8 シリウス④

 その物語は、一人の男の回顧録の形式で綴られていた。


 未熟児で生まれたこと。病気がちの身体への不安、恐怖。病床にこなれてきて、ベッドの中でいろんな遊びを考えたこと。両親のこと。姉のような語り部のこと。いつも一緒にいてくれたメイドのこと。二人の叔父のこと。両親の死を知った日のこと。部屋を出ていく叔父たちの背中。手紙。


 ある日、ベットから立ち上がって語り部の背を越しているのに気が付いたこと。


 湖を散歩したこと。ある女性と出会ったこと。皇帝ジーンのこと。結婚したこと。子供が生まれたこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。



 すべては語り部ダッチェスが、レイバーンの目を通して見てきたことだ。


「……ほんとうは、もっと改稿を重ねて丁寧に組み上げたかった。ごめんなさい……ほんとうに時間が無かったの」


 語り部は、暗闇に向かって呟いた。


「……あたしは、たくさんの人に仕え、たくさんの最期を描いた。

 長い時、さいあくの時代にさいあくの最期を迎えた主人もいた。悪人も英雄も、言葉を話せないうちに死んでしまった子もいた。たくさんの物語を書いた。

 語り部だもの。どの物語が特別ということは無いけれど……。あなたが愛したもの。あなたが夢みたもの。あなたが許せなかったもの。あなたが守りたかったもの。あなたが遺したもの……それを想ったら、こんなものが出来上がったのよ。

 ふふ。こんなの初めてよ。あたしは、あなたの人生を悲劇にしたくなったのね。

 だって見て。この字の汚いこと! 溢れて止まらなかったの!

 あたし、分かったの。あなたが好きよ。あなたを愛しているわ。ほら、いつも泣いてしまうの。

 語り部にとって、主はもう一人の自分だもの。

 でも、ねえ、内緒よ……。

 あたしはあなたほど、可愛い主はいなかった。

 あなたほど誇らしい人はいなかった。

 あなたは英雄でも、最高の父親でもなかったけれど、あなたはあたしの、最高の主でいてくれた。

 あたしはあなたの人生をえがけることが、こんなに誇らしい」


 インクが染まった指先が紙を撫でる。赤ん坊の髪を撫でるように。


「でも、ほんとうは、少しミケがうらやましいの……ああやって、まっすぐに主を想うことが出来ることがうらやましい……。

 主のために先にいなくなる語り部なんて、本末転倒だわ。憤死ものよ。でも、あたしだって、あなたのためにそうしたかったのに。それなのに、あなたが泣くから。あの子たちを想って泣くから。

 迷うあたしに「さようなら」を言うから。

 子供たちに、ばかなあなたの見えづらい優しさを届けられるのは、語り部のあたしだけだったから……。レイがあたしの、最期のひとだったから……。


 レイが好きよ。大好きよ。あたしの九番目のあるじ。あたしの最期のひと。

 こんなに愛おしい人間はいなかった。

 もし、語り部もあの世へ行けるのなら、約束通り、今度こそあなたと旅がしたいの。

 さようなら。さようなら。レイ、あなたを愛しています。レイバーン・アトラス。あたしの主人」


 ベルトに挟んでいた手袋を取った。

 すべてを描き切った今、これを再び脱ぐことはない。

 両の指をそろえ、目を閉じる。

 明かりなんてない暗闇だ。それでも、語り部は胸の内に祈るものを持っている。


「……どうか、この物語がハッピーエンドになりますように――――」



 ✡



 ―――—不吉な音がした。


「よくぞ無事に戻った。話すことがある」

 そう言って、レイバーンが息子たちに片腕を広げて歩み寄ろうとした、そのときだった。


 カツ―――――――――――――――――ン……。


 その音は、広間にやけに大きく響いた。


 カツ―――――――――――――――――ン……カツ―――――――――――――――――ン……カツ―――――――――――――――――ン……。


 その場の誰もが息を殺し、『それ』を見た。


 悪趣味な、歪な黒い卵のようなオブジェが、小刻みに揺れている。音は、オブジェが動くことで、石畳を瓦礫が叩く音だった。

 空気が漏れる音が、そこから漏れている。

 フゥ―――――――――……と、溜息や、寝息にも思える音が。

 ズッ、と、黒い卵は身じろぎした。少しだけ、石畳をこすって卵は前進する。

 ズズッ……目を見張る一行の目の前で、それはまた少し、歩を進めた。

 黒光りする表面に、うすく赤い光が漏れる。

 鼓動にも似た、赤い点滅。


 高い天井に届くほどに大きなそれの――――――


 崩壊は一瞬だった。黒い卵は前のめりに倒れ、瓦礫の上に横倒しになった。その瞬間、ほんとうに卵の殻が割れるようにあっけなく、


「レイッ! 危ない!!! 」


 レイバーンは、ダッチェスの腕が、突き飛ばすように自分に伸ばされるのを見た。

 生前ならば、ダッチェスは絶対にレイバーンに手を伸ばすなんてことはしなかっただろう。ダッチェスの中で変わった何かが、レイバーンを助けようと、とっさに身体を動かしたのだ。

 レイバーンの青白い輪郭に伸ばされた小さな手は、しかしその魂の中心を突き抜けるだけだった。ダッチェスの金色の瞳が、レイバーンの右目の横で大きく見開かれる。

 金色の燐光をまとった彼女は、しかし、まだ実体を保っていた。

(……あたしの、ばか……っ! )


 その黒衣の腹を、爛れたように赤く焼けた棘が、刺し貫いている。



「―――――ダッチェス……ッ!!! 」


 卵から伸びたそれは、ダッチェスを貫いたまま巻き戻っていく。躍り出たのは長剣を構えたサリヴァンだった。刃が弾かれる。

 左手に『銀蛇』を振りかざし、右腕を伸ばしながら、胸からダッチェスにぶつかっていく。黒衣の矮躯を抱え込んだサリヴァンは、棘に引きずられながらもダッチェスを離さなかった。ズルズルと少女の体の中を通過した棘は、名残惜し気に殻の中へと戻っていく。

「ダッチェス! 」

 皇子たちが語り部に駆け寄った。

「ダッチェス……! おまえ、なぜ……!」

 レイバーンは顔を歪め、石畳を叩く。


 黒い卵の中で驚くほど小さな人影が、緩慢に立ち上がったのを、視線の端に捉えた。


「広間の外に! 」

 グウィンが叫ぶ。瓦礫を飛び越え、一行は瓦礫の向こうへと駆け出した。

 背後から破壊の音が響いている。地下にいるのは危ない。ようやく立ち止まったのは、サリヴァンがジジとともに巨人のスート兵を斃した、あの玄関ホールだった。

 開け放たれた大扉の外では、いつしか雨が降っている。


 サリヴァンがレイバーンの元へとダッチェスを運ぶと、ダッチェスはうすく瞼を開き、「……あたしって、莫迦ばかね」と、小さく自嘲した。白い額を、冷や汗が濡らしている。


「き……消えかけの、くせして……死んだ主を、守ろうとするなんて……なんってバカなの」

「ダッチェス、なぜこんなことを! 」

「わっかんないわよ、あたしにだって。あたしは、あたしのことが、いちばん分かんないんだから……」

 ダッチェスは顔を歪めながら笑った。


「大丈夫。もう少しは消えないわ。語り部はね、長生きするほど魔力を蓄えンのよ。年取ると無駄なことをしたくなるの。こんな傷、たいしたことないわ。王様でしょ……エンディングまで泣くんじゃない」

「……おまえ」

 ダッチェスの額から流れる汗をぬぐおうと手を伸ばしたレイバーンは、その手が彼女に触れられないことに気が付き、こぶしに固めて床に下ろした。

 ダッチェスはその手を引き寄せるように促し、自分の手と重ねて、頬に当て、苦し気に息をつくと、まぶたを閉じる。


「……あたしね、今ほど、子供の姿を恨んだことないわ」

「……なぜだ? 」

「絵にならないでしょ……女心が分かってないわね……ふふ」

「なぜ笑う? 」

「笑うしかないでしょ。……あ~あ。バカね。あんたもあたしも、二人とも。……いや、もうあんたは、あたしの主じゃあ無いのよね」

「………」

「ねえ……後悔があるなら、それを捨てる努力をすべきよ。レイバーン・アトラス。あたしはそうしたわ。したから、ここにいるの。今の状況は、貴方にとってチャンスだと考えるべきだわ。貴方には、やり直す猶予が与えられたのだから……」


 それきり、ダッチェスは目を閉じて黙った。

 やがて小さな寝息が、血の気を失った唇から漏れ出す。

 その身体には、絶えず金色の燐光が纏わりついていたが、彼女が言うようにまだ消えるには猶予がありそうだった。


「……少し、彼女を見ていてくれるかい」

「はい」

 サリヴァンが頷くと、レイバーンは立ち上がり、息子たちのほうへと歩いていった。

 レイバーンと息子たちが、連れだって大扉の外の雨を眺めに行くと、サリヴァンの腰の下から伸びた影からジジが言った。


「……上手な狸寝入りだね。語り部が眠るわけないじゃない」

「あら、あたし、空気が読める女だもの」

 ダッチェスは身を起こし、背後にあった大扉の残骸に背中を預けて座った。ジジもその隣へ腰を下ろす。

 サリヴァンは無言で、火をおこし、温かい飲み物を作った。



「ねえ、魔法使いさん。アルヴィンさまを助ける策はあるのかしら? 」

 ダッチェスは微笑みながら、そう口火を切った。

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