15-4 絶望の紅い花②


 空が暗い。

 空気が生温い。

 砂ぼこりで空気が淀んでいる。


 キンッ―――――甲高い金属音の悲鳴を上げて、ジーンの腕の中にある剣の切っ先がついに折れた。

 一息つく間もなく、灼熱に赤く染まった脚が迫る。腕が、頭が、ジーンを狙う。


 ジーンの戦闘技術は、さして高くない。生前、体の弱かったジーンは、そうしたものは丈夫な弟に丸投げしていた。

 身に着けたのは、最低限の身のこなし。剣の振り方の基礎の基礎。


 しかし死者の身体とは不思議なもので、生前あんなに思うように動かなかった脆い身体が、ひどく軽く、思うがままに動かすことができる。

 今のジーンは、過去に本で読んだ理論と、記憶にある猛者の動きを再現して、なんとか灼銅の怪物アルヴィンの攻撃をかわしていたのだった。


 ジーンの卓越した観察と、冷静な判断力がなければできない所業。

 ————も、生者のままのジーンなら、難しかっただろうと、彼は思う。

 死者ゆえの、痛みには動じないこの身体があってこそ、ジーンは冷静に体を動かすことに専念できる。



 空気が淀んでいる。

 ――――血肉が焼ける、いやな匂いがする。


 ――――ここにこの怪物を引き留めておかなくては。


 ジーン・アトラスは、なんとしてでも、臣民をアルヴィンの前にさらしたくは無かった。

 理性を失くした腕が、フェルヴィンの民に振り下ろされるということは、この幼い皇子の未来を決定的に閉ざすことになると確信していた。


 武器を失くしたジーンを守るため、レイバーンの……『皇帝』の持つ権能、スート兵と呼ぶ鉄人の兵たちも、主人の采配によってジーンを援護している。

 折れた剣を投げ捨てると、迫るアルヴィンの前へと体をねじこんできた『女王(クイーン)』の鉄人兵にあとを任せ、ジーンは鉄人兵の間を縫ってレイバーンのもとまで下がった。


 黒光りする巨体の群れを抜けると、青い炎にほの明るく照らされた強張った貌の老人が、揺れる眼をジーンに下ろす。

 喘ぐように、もはや年上になった甥は―――――血縁上の弟は、ジーンに言った。


「まだ……まだ、あの子を苦しめねばならぬのですか……! 」

「ここに足止めするんだ! 城下に行けば、この子はたやすく命を奪う。そうしたら……せっかく体がもとに戻っても、この子の心は大きく傷つくことになるだろう! 」

「アルヴィン、なぜ! あの子は虫も殺さない性格だった! 格闘技なんて、ひとつも知らないはずなのに……! 」


 ジーンは喉の奥で唸る。


「格闘技の経験がない……? それはおかしいぞ、レイ」

「しかし真(まこと)のことです。アルヴィンは体が小さく、喘息持ちで、身体を動かすことには向いていなかった。本人も勝負事には消極的で――――」

「ならば、あれはなんだ!? 鉄人兵たちを12体相手取る、あの動きは!? ああ……しまった。外側に騙されて、わたしたちは大変な勘違いをしていたのかもしれない! 」

「ジーン叔父上! しかしあれは、確かにアルヴィンです! 」


 青く燃える瞳が、レイバーンを鋭く射貫く。

「……父親が言うのだからそうだろうとも。外側は、な」

「外側……? 」

のいくらかは違うかもしれん」

「魂ということですか」

「そうだ。いや……単に操られているのか……? 今のままでは、ひとつも分からぬことばかりだ」

 ジーンは頷いた。


「すべて仮説だ。確証はない……。レイバーンよ。俺はそれを確かめるぞ。それには、ここを離れなければならない。おまえはどうする? 」

 ごくりと老人の痩せた喉が鳴った。瞳が、より深い悲しみに染まる。


「……わたしが、息子を封じましょう」


 擦れた声を振り絞り、レイバーンは言った。



 ✡





 怪物と化した少年の、その小さな身体を、鉄人兵たちの体が呑み込んでいく。

 長く長く、天井の大穴をつたって空にまで轟きそうな、甲高い金属音に似た悲鳴は、やがてぷっつりと途絶えてしまった。


 あとに残ったそれは、悪夢のようなオブジェだった。

 レイバーンはひとり、その前に跪いている。


 空が暗い。

 すべてが昏(くら)い。


 レイバーンの胸の内も、我が子たちの未来も、この国の生く末も―――――。


 破壊されつくした地下の大聖堂を支配しているのは、静寂と黒。


 黒鉄でできた無数の腕足が、溶けて絡まり合いながら溶接されている。

 天井に触れるほどにまで膨れ上がった歪な黒いドームは、奇怪なものを宿す卵のようでもあった。

 その中に飲み込まれた我が子を想(おも)い……。

 死者となってしまった自分を、想い……。


 腹がすくことも無ければ、眠くなるということも無い。

 一日か、二日か……。

 レイバーンは、時を忘れたように、ずいぶんと長く、黒鉄でできた悪夢の前にへたりこんでいた。




 ……音が聞こえたのは、そんなときだ。



 ✡



 ヒューゴは唾を飲む。

 今、再び、この講堂へと足を踏み入れようとしている。あれが遠い昔のようだ。

 荘厳なあの石の扉は、片方が外れて横たわっていた。

 扉に刻まれた巨神アトラスも倒れ伏している。踏み越え、暗闇と静寂に包まれた地下の講堂へ、サリヴァンを先頭にして、グウィン、ヒューゴと踏み入れる。

 魔人たちは、それぞれの主の影へと消えている。影の中からようすを伺っているだろう。


 すでに講堂は見る影もなかった。天空を描いていた天井には大きな穴が空いて半分が崩落し、あの白く磨かれた美しい床は、砕かれ斑に残るのみ。

 柱は倒れ、アトラスの巨像も打ち倒されて、三つに砕けている。


 しかし、三人が動揺したのはそのありさまにではない。

 中央に鎮座する禍々しい黒鉄の奇像と、その前に座り込む、老人の亡霊の姿にだ。

 背を向け、奇像を見上げている姿は、拝礼のようすにも似ている。

 しかしここは、もはや神聖な場所では無く、悲劇のあとの残骸になってしまった。


 その奇像は、黒鉄でできた無数の手が、足が、胴が、頭が、絡み合い、溶けあって、ひとつの大きな塊になってできている。

 あまりに醜悪。

 埋め込まれた顔たちが、穏やかにも見える無表情だというのが、逆に異様さを際立たせている。


 サリヴァンがグウィンと視線を交し、頷いた。……亡霊と対話を試みても良い、という合図だ。


「父上……? ここで何が――――――」

『—————あらまあ、なんてことなの』


 父に向かって踏み出し始めたグウィンのすぐ横を、一人の亡霊が追い越していく。

 レイバーンに向かって歩みを止めない後ろ姿に、グウィンは一瞬あっけに取られて次に出す言葉を呑み込んだ。


「―――――ユリアどの! 儀式の後にお帰りになったはずでは! 」

 グウィンを遮るようにして、サリヴァンが前に出て叫ぶ。ユリアはくるりと振り返り、薄暗く笑って見せた。


『……あらまあ。ようやくちゃんと言葉を交わせましたね。コネリウスの曾孫の……サリヴァン……だったかしら? 大丈夫。あなたはキチンと、手抜かりなく儀式を終わらせました。……けれど、ここで大人しく導かれるまま冥界へと帰るのは……そう、あまりにも。。そうでしょう? 』


 悔し気にサリヴァンは呻く。


(ここは今、限りなく冥界に近づいた場所……! 利用したつもりが、呼び出した亡霊に利用されるなんて……! )


「ユ……ユリア、伯母上……? 」

 ぎくしゃくと、レイバーンが立ち上がった。

 ユリアはレイバーンの方を向き、目を細めて微笑んでいる。その腕に抱かれている頭蓋骨を目にして、レイバーンは瞬時に、その意味を悟り、強張った顏をさらに引き攣らせた。


「あ……あなたまで現世へ呼び戻されるとは……! 」

『あらレイバーン……わたくしにそんなに会いたくなかったの? 』


「…………」

 レイバーンは言葉を失くした。

 レイバーンにとっては、実父を堕落させた女であり、母を修道院送りになるよう仕向けた黒幕である。すべてを知ったとき、レイバーンは幼すぎ、ユリアはすでに病床の身であった。

 しかし反面、堕落しきっていた宮廷の手綱を握り、第一次世界大戦で混沌とする上層からの圧力から国を守り抜いた、政治家としてのユリアの実力は審議するべくも無く高潔だったと、レイバーンは思っている。

 ジーン・アトラスは英雄だったが、その素質は、まぎれもなくユリアから由来されるのだ。


 そしてその血は、この目の前の少年にも――――――。


「……複雑ですな。しかし光栄です。あなたが築いた歴史がなければ、今のこの国は無かった」

 穏やかにレイバーンは言った。


『あらそう……。ふうん、つまらない答えだこと。拍子抜けしたわ。あなた、あまりオーガスタスには似ないまま大きくなったのね。そういう張り合いの無いところ、あなたの母親そっくり』

「そうですか……」

『ええ、そうよ』

「……しかし不思議なことに、わたしはあなたを恨んではおらぬのです。恐ろしいあなたは、わたしが恐ろしいと思ったときには、もうおりませんでした。わたし自身には何事も無く育ち、それなりの幸福を得ました』

 レイバーンの目が、ユリアと、サリヴァンより向こうで息を潜める、二人の皇子たちを見る。苦いものを含んだように、息子たちは奥歯を強く噛み締めた。


「……わたしにとって、あなたは過去の偉人でしかないのです」

『そう、なの……? 』ユリアは、腑に落ちないというように首を傾げている。

「わたしも驚きましたが、どうやらそのようですな。……わたしはあなたを恨んでいない」


 穏やかに頷くレイバーンの前に光の粒が集まり、語り部ダッチェスの姿を取った。

 ユリアから守るように立ったダッチェスは、透き通って金色に輝いている。


「……ユリアさま。あなた、あたしの主(あるじ)を、わざわざ冥界から苛めに来たの? 」


 ユリアの目が丸くなった。ユリアは、あたりをゆっくりと見渡す。

 その目に、崩落した講堂と、瓦礫の中で見つめる生者たちの姿が映った。

『……ふふ、あはは! 』


 ユリアは大きく口を開けて笑った。

『あははははははは! わたくしが、過去の人ですって! 時は流れるものなのねェ! おっかしいの! ちょっとした好奇心だったけれど、この様子じゃ、これ以上面白いものは無さそうね! ねえ、オーガスタス! あなたもそう思うでしょう? 良いわ、大人しく帰りますとも! みなさんさようなら! うふふ……はははははははは、はははははは――――――』


 青い炎をまとい、ユリアの亡霊は灰色に透き通って暗闇に消えてしまった。

 甲高い笑い声の残響も消えてしまうと、レイバーンは疲れたようすで首を振り、今度こそ、近寄る息子たちに向き合う。


「……すまなかったな。サリヴァン、きみも……」

「いいえ、陛下。巻きこんだと思われたのなら、それは違います。おれはきっと、爺さんの代わりでもあったんです」

「ありがとう。……今更だが、きみに会えてとても嬉しい。息子たちを助けてくれてありがとう」

「お約束は、果たせましたか」

「ああ……。確かに果たしてくれた」

 レイバーンは目を閉じて頷いた。



「……グウィン、ヒューゴ」

 そして目を開けた時、レイバーンの青い瞳は、冷徹な皇帝の瞳に戻っている。



「―――――よくぞ無事に戻った。話すことがある」

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