15-3 シリウス②



 ひたり、ひたり、ひたり――――――。

 真っ暗などこかを歩いている。


 とつぜん自分の裸足が地面を踏んでいることを自覚して、少年は戸惑った。

 ここはどこだろう? と、今まで疑問にも思わなかったことを考える。

 ―———考えて、『考える』ということを、今の今まで忘れていたことに気が付いて、また、戸惑った。

 困惑する。————困惑するということを思い出す。

 足を止め、あたりを見渡せど、そこは闇が広がるばかりだ。


(ここはどこだろう)

『自分』は、どうして『ここ』にいるのだろう。

(『自分』……は……—————? )


『何』、いや……『誰』だ?


 よろよろと後ずさる。足裏は確かに、固く乾いた土を踏み、肌には生温い空気を感じている。

 けれど、何も聞こえない。……何も見えない。匂いもしない。こんなに土が近いのに。

 そこで、ふと。(自分は『土』を知っているのだ)、と気が付いた。

 同時に、草の薫りや雨の日のにおい、明かりに灯った火の薪のにおいを思い出す。


 ―――――『明かり』『家』『絨毯』『壁』『テーブル』『ティーカップ』『本』『ペン』……。

 記憶の断片は、水が溢れるように流れだした。

 ―――――『ベッド』『地下室』『ランプ』『花』『リリオペ』……『姉さん』。


『きょうだい』。


(ああ……僕は……死んだのか)

『きょうだい』の顔は思い出せない。けれど、悪いものではわかったように思う。仲が良かったのだろう。

 頭の中にぽっかりと空いた穴が、現実感の無い、鈍い痛みを訴えている。

 何かをしなければ、と思っていた気がするが、それが何かも分からない。


(……とりあえず、進もう)

 ぼんやりとしたまま、彼は歩き出した。

 水のように隙間なく満ちた闇が、少年を再び迎え入れた。



 ✡



 ボウ、と、冷たい青い火が灯る。

 満ちた闇が炎の周りだけ退き、不毛の大地が照らし出される。


 まだ世界が丸く一つだったころ、とある三柱の兄弟は、王たる父から奪取した領地を、天空、海、そして冥界との三つに分けて、それぞれが統治することにしたという。

 長兄は天空という最も広い領地を、次兄は海原という命の源を。

 そして末の子は、不毛の冥界を。


 末の子は貧乏くじを引いたなどと云われるが、それは考えようによっては違う。

 世界の底たる冥界は、この世界と同じだけ広大である。

 植物はひとつも育たない不毛の地ではあるが、かわりに、あらゆる貴金属はこの冥界から生み出される。

 冥界の主になるということは、世界一の富豪になるということだ。

 地上の人々が有難がるあらゆる金属は、冥界を統べる者たちから借りているにすぎない。


 点々と道なりに青い炎が灯る。照らされた地には、そこかしこに大ぶりの石が転がっている。

 そのどれもが、地上では目玉が飛び出るほどの値が付く石ころだ。


 アイリーンは、やがて川岸へとついた。

 枯れ木のように地面から突き出た石のオブジェの下で、粗末な船と、人影がある。

 人影は、今にも揺らめいて消えてしまいそうなほど濃淡が無く、深く被った布の下の顔は闇に落ち込んで分からなかった。

 煙のようなその人物は、アイリーンが目の前に立つと、僅かに視線を上げる仕草をした。


「ここで何があった? 」

 〈立ち去れ。生者はここに来るべきではない〉

「私はここのことをよく知っている。死者がいないぞ。いつもなら満員御礼じゃあないか。どうした。教えてくれ」

 〈告げるべき言葉は一つだ。生者は戻れ。ここは死者だけが通る道。冥界は冥府の秩序によって守られている。生者に与える法は無いものと知れ〉

「分かっているともさ。しかし、生憎あいにくとまだ死ぬわけにはいかなくてね。

 こちらにも事情があるのさ。唯人ただびとが、こんなところに来られるわけがないだろう?

 どうか忖度して考えておくれ。

 ―――――なあ、四辻の神よ。旅人の守護神。冥府の渡し船の船頭よ」

 〈……………〉


 船頭は沈黙し、穏やかな紅茶色に戻ったアイリーンの瞳を、フードの下からじっと見つめている。

 〈……反乱が起きたのだ〉

 長い静寂ののち、船頭は口を開いた。


 〈……『審判』のため、我らが冥王は準備を行った―――――〉



 ✡




『冥王は『審判』のため、ひとりの霊を遣わせることにしたのです』

 ユリアは言った。


『わたくしも、始めて知ることでございました……。そも『審判』とは、神々が人類を試す最後の機会だと知ってはいましたが……その具体的な内容は、人々の誰もが知らなかった。

『最後の審判』とは……。

 神々が与える、12の試練。

『選ばれしもの』はその試練を乗り越え、天空の先にある神々の庭へと辿り着かなければならない。

 第一の試練『石の試練』は、冥王たちが与える試練。

 生者は石に。死者が蘇る。

 しかし、冥府は、その存在が在ってから一度も破られたことがない厳粛な秩序の国。その秩序を、この世の生末を定めるためとはいえ、一時歪めることとなるのです。

 ……そこで、冥王たちは、、滞りなく審判を終わらせなければならないと、ひとりの霊に、その管理を任せました―――――』




 ✡




 〈……その【女】は、の霊だった。生前は力の強い魔術師だったそうだが、その力を発揮するより先に命を落とし、身寄りがないために冥界ですら寄る辺なく、ひとりぼっちだったところを、冥王の一人に拾われ、書記官として働いていた。

 しかし力も弱く、幼く死んだので赤ん坊のように無垢で、他の霊と同じように、生前の記憶がなかった。

 。少なくとも、冥王がお命じになるまではだった――――――〉




 ✡




『詳細は、嗚呼……いいえ。存じませんわ。ただの亡霊の一人であったわたくしには、知る術がありません……。しかし、その霊が冥王に呼ばれて玉座へと行った、と知らされてすぐ、霊たちが騒ぎ始めました。

 その亡霊が、他の亡霊たちを集めて地上へ攻め入るのだと。生前の罪に縛られた悪しき霊も、その責め苦から解放され、その軍隊へと徴兵されていると……』



 ✡



 〈……霊たちにも意志がある。

 記憶をなくし、目的を忘れても、魂というものは忌々しくも意志がある。何もかも忘れているのに、すでに訪れている死を恐れ、戻りたいと渇望するものは数多い。

『審判』には多くの霊が必要だった。

 頭数を揃える”建前”として、冥王は、女がすることを黙認した。数はあっというまに膨れ上がり、『その日』がやってきた〉


「審判の日か」


 〈どうやったのかは知らない。この境界を守る私を、女がどうやって欺けたのかも分からない。しかし女は、その日よりもずっと前から地上へ行って準備を進めていたのだろう。そうとしか考えられない。

 その日、冥府を奈落の王アポリュオンの軍勢が襲った―――――〉



 ✡



『アポリュオンの蝗たちの好物をご存じ? それは地上にある、新鮮な命たち。文明が築いた、生命、装飾、道具、家畜たち。剥き出しの魂は食べられないのです。彼らは命あるものが好きだから、外側だけを食べて、中身は冥府へ戻っていくだけ。

 冥王は、アポリュオンを地上に上げるつもりは無かったと聞いています。彼らの役割は、『審判』が人類の敗訴で終わった後のこと。いよいよ人類を滅ぼすというときにだけ、アポリュオンの軍勢は地上へと出るはずだった。

 しかし、その女は、いつのまにか奈落の王たるアポリュオンを味方につけ、地上の者に手引きさせ、同時に混乱を起こしました』



 ✡



 〈冥王は、女に命じるとき、望む褒美を取らせると仰せでした。すると女は、言ったのです。

『その褒美、先にいただいてもよろしいでしょうか? 』

 思えば―――――うつろだった女の瞳に意志が宿ったのは、その言葉を発したときだったかもしれない……〉



 ✡



『何か、大切なものが、冥府の宝物庫から盗まれたと聞きました。それによって、冥王は女に手出しできなくなったとか……。

 そうして混乱のなか、霊の軍勢は地上へと侵攻を始め……ずいぶん多くの霊が便乗して地上へと付いていきました。

 冥界の神々も痛手を負って力を失い、姿を消したそうですわ』




 ✡




「なるほど。わかった。では、冥王どもはどこにいる? 連れて行ってくれ」

 〈……話を聞いていたのか? 冥界の神々は姿を消している。貴様がまみえるはずもない……〉

「そんなことはなかろうさ」

 アイリーンは、けろりと小首をかしげて言った。

「だって船頭、おまえはまだここにいるではないか。おまえも『冥界の神々』の一人だろうに」


 〈わたしはここにいたから混乱から逃れただけだ〉

「それでも、病んだ神々がどこに行くかくらいは知っているはずだろう。連れて行ってくれ」

 〈分からない……貴様、何者だ? なにゆえ生者がそのように大きな態度で……〉


 船頭は、はあ、と呆れと困惑を交えた溜息を吐いた。アイリーンは片眉を上げ、「連れて行ってくれないのか? 」とにやついている。


 〈……恐れは無いのか貴様〉

「そんなものは不要だ。こと、わたしにとっては、生きずらくするだけだからな」

 〈豪胆だな。呆れ返る。恐れこそ原初の本能だ。恐れを忘れたものから滅んでいく〉

「思い切りも大切だろう。決断することが多い立場なんだよ、わたしは」

 〈……決断か。久しくしていないな。そこまで言うなら、いいだろう。おまえの度胸に免じて不問に付す。……ついてこい〉


 船頭は外套をひるがえして歩き出した。

 いつしか煙のように頼りない人影はなく、アイリーンの前を歩くのは一人の旅人になっている。腰に下げた短刀の鞘と薬袋が揺れ、フードはつばの広い帽子に変わり、顔に影を落としていた。

 右手にたずさえた杖もいらないほど軽快な足取りで、旅人は先導する。

 川は消え、一本の街道がある。未知の端には、青い炎を灯した街灯が、等間隔にまっすぐ伸びていた。


「……ああ、そうだ。四辻の神よ。尋ねたいことがある」

 〈まだ何かあるのか? 〉

「男の子の亡霊が通らなかっただろうか? とても小さくて……手負いの少年の亡霊だ」

 〈……いいや。それらしきものは見ていない。それは? 〉

「まだかすかだが、たしかに輝く希望の【星】さ。……見つけて連れて帰ってやらなくてはな」

 アイリーンは、細いため息を吐いた。



「……それが、せめてもの贖罪だ」


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