14-2 アイリーン・クロックフォード

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 アイリーンのうなじで縛った黒髪が尾のようにのたうった。身体を預ける炎蛇の舌先が、アイリーンの頬を撫でる。

 鎌首を持ち上げた炎蛇の尾が、黒煙を巻き上げながら大波のようにうねって視界をうめつくす怪物に迫る。アポリュオンは、コウモリのような翼で素早く旋回して炎から逃れたが、炎蛇の長大な体はらせんを描いてしつこく追撃した。

 アポリュオンは高く咆哮を上げた。

 瞳に宿るどす黒い殺意を、醜い顔に迸らせる。


「いいぞ! やる気になったな! 」

 アイリーンは裂けるように笑った。その白い頬の横を毒の飛沫がかすめ、頬から、右の上腕と肩から、太腿から、一瞬にして裂けたあちこちの肌から、血の粒がくうへと散る。

 血の色に彩られながらも、女の笑顔は曇らない。炎蛇は大きくあぎとを開いて怪物に向かって急降下する。アイリーンは、迫る怪物に向かって大きく腕を広げた。それは抱擁を求めるようにも、翼を広げて獲物に迫らんとする猛禽の姿にも思える。

 魔女の両の五指から、銀の光が稲妻のように迸る。怪物の手前で炎蛇は身をくねらせ、その頭に構えるアイリーンの腕に握られた銀色も、大きくしなりながら、しかし確実に、怪物の青黒い頸と肩のさかいをなぞる。

 アポリュオンは、しかし銀色をかわした。体をくるんだコウモリの翼が、毒の風をともなって炎蛇の腹ともどもアイリーンの杖を弾いたのだ。

 怪物のカギ爪の生えた青黒い腕が、炎蛇の腹をとらえる。

 アポリュオンは、しっかりと両手で炎蛇を掴み、しぼりながら引いた。黄金の火花が散る。炎蛇は牙を剥き出しにして声なき断末魔をあげて身をくねらせるも、あっけなく怪物の両腕に両断された。炎蛇はひとすじの黄金色の滝になって、青い縦穴を落ちていく。そこにアイリーンの姿は無い。


 消し炭になったのか? 否……!アポリュオンは激しく翼を羽ばたかせる。


「―――――どこだ! 影の王! どこにいった! 」


 炎蛇を失った縦穴は、最下部から吹き上がる冥界の炎で、青く染まっている。

 行き場を失くした翼から滴る毒を持て余しながら、アポリュオンは耳をそばだたせ、しつこく視線を巡らせた。

 ―――――ふと、頭上から風が吹き下ろす。

 地鳴りに似た音が、ゴォォオ……みるみる近づいてくる。

 アポリュオンは、左右に三つついた目で慌てて逃れる横穴を探した。アトラスの皇子たちが去っていった横穴は、ずいぶん下のほうにある。他に横穴は無い。

 アポリュオンは脅威を確認するために縦穴を見上げ―――――すでに遅いことを知った。


 ―――—漆黒の影が落ちて来る。


 闇そのものが、縦穴に蓋をしにやってくる。

 闇の奥で、きらきらと光の粒が―――――時空蛇がのみ込んだ『時』の粒が、無数に光っていた。

 アポリュオンは自身が多くの失態を犯したことを自覚する。

 奈落の王アポリュオンなど、すべてを生み出した時空蛇の壮大さに比べれば、あまりにちっぽけだと自覚する。

 そして、アイリーンが「対抗する術がないとは言っていないぞ」と口にしたことを思い出す。せせら笑うその顔すら、稲妻のように脳裏で再生され焼き付いた。


(しま――――――ッ )


 咄嗟に出た「しまった」という言葉は、振り下ろされた時空蛇の尾で埋められる。



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 ―――――なぜ『教皇』になるのをためらったんだ?

 笑いを含んだ声が聴こえた気がして、サリヴァンは伏せていた顔を上げた。

 耳の奥がキーンとする。耳鳴りの向こうで、アイリーンが軽いため息交じりに言った。—————まあ、おまえの考えていることなど分かっているけどね。


 めまいと耳鳴りが遠ざかると、サリヴァンは自分が誰かに背負われていることに気が付いた。

「眼が覚めたか? 」

 グウィン帝が、サリヴァンの顔を覗き込んで言う。


「ここは……? 」

「上へ脱出する途中だ。歩けるか? 」

 立ち上がると、足は自分が思っているよりも、しっかりと岩でできた床を踏みしめた。サリヴァンは頷き、小走りに歩き出す。


 歩きながら、サリヴァンの脳裏には、仕える主人であり、慕う師である女の背中が浮かんでいた。

 主ではなく、育ての親であり師であるアイリーン・クロックフォードのことを想う。


(おまえの考えていることなど分かっている、か……)

 苦笑が浮かぶ。実の両親より長く時を共にした師だ。年月がそれだけの信頼を築いている。

 サリヴァンは、自分が師を一片も疑っていないことを自覚した。アイリーンという魔女は、無意味な嘘をつかないことを知っているから。


(師匠……ご無事で)

 サリヴァンは、まだアイリーンが『魔法使いの国』の自身の工房にいると思ってはいたが―――――子が母を想うように、祈らずにはいられなかった。



 ✡



 アイリーンは縦穴を落ちていく。

 冥界の青い光を背に受けながら、空に黒髪を散らしてまっさかさまに落ちていく。

「……くくく」

 アイリーンは喉を鳴らした。


「ははは……はははははは!!! 」

 虚空に身を委ねながら、アイリーンは笑った。


「待っていろサリヴァン! 師は―――――とっておきの手土産を持って、地上へ戻ろうぞ!! 」


 アイリーンは落ちていく。



 ――――――地の底のへと。

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