13-3 Braver

 また、あの星空だ。


 サリヴァンは裸足に感じるぬるい水の感触に、あたりを見渡した。

 そこにあの屋敷のポーチは無い。

 あるのは、足元の水と星の海だけである。

 空の隙間を埋めるほど無数に散らばった星々は極彩色。

 くるぶしまでしか無い浅い水が、水平線まで果てしなく続いている。


 おれは、ふと、かたわらに慣れた気配を感じて、その名前を呼んだ。


「……ジジ? 」


「なぁに? サリー」


 星のネオンをさえぎって、黒いコートがひるがえる。サリヴァンの肩に手を置いて浮かんでいる相棒の魔人は、大きく瞬きをして、夜空を見上げた。

「……ここって、どこさ? 」

「わからん」

「ふうん……なんか、変な場所」

 ジジは居心地が悪そうに、肩をもぞもぞと動かした。

「空気が澄んでるね……悪いところって感じはしないかも。むしろ……ちょっと懐かしい――――――」

 遠くを見つめるジジの瞳が、ハッと見開かれた。


「……ねえ、今ボク、懐かしいって言った? 」

「言った」

「懐かしい……? このボクが? そんなの、覚えてる限り初めてのことだ……やっぱりボクは、この国で製造されたのかも……」

 ジジは口元を拳で押さえ、瞳を揺らした。

 サリーは動揺するジジの二の腕を軽く叩く。

「……何か思い出したのか? 」

「うう~……いいや。何か、こう……感覚に触れるものはあるんだけどなぁ! 」

 ジジは大きく首を振る。いつになく悔しそうに顰められた顔で、夜空を睨み上げる視線もどこか弱弱しい。


「……ここを出よう。まごまごしてたって、どうせボクの記憶は戻らないと思う」

「そうだな。……お前がいて助かったよ」

「そうでしょう? ボクほどピンチに心強い魔人はいないさ」

 ジジはいつものように、皮肉気に唇の端を持ち上げて笑う。


「って言ってもどこに―――――」

「迷う必要は無いかもしれないよ」

「ほら」と、ジジが星空を指した。

 導かれるまま目を向けたその先にあるものに、おれは間抜けに口を開ける。ジジは馬鹿にしたように片方のめをすがめた。


「あれは――――――どうなってんだ? 」

「ここは幻想世界ファンタジーってことさ。行こう」


 おれの腕を取って、ジジは虚空へ踏み出す。

 正真正銘何もない、おれのすねの高さの空中を踏む。

 ジジの足はしっかりと何もない空中を踏みしめ、階段を上るようにしてずんずん前へ進んでいった。

「ちょ、ちょっと待てよ。おれはお前みたいには―――――」

「ここでは関係ない。黄金船に乗る時は平気だったじゃない。大丈夫だから早くして」

「馬鹿みたいなパントマイムになるんじゃねーだろうな……」


 恐る恐るジジの足があったところを踏む。

「さっさと行く! 時間がもったいない! 」

 叱咤され、なかばヤケクソになって駆け上がった。


 ここは天地の境の見えない星の海。

 いや、もしかしたらここには、天地という概念すら無かったのか。

 おれたちが地と思っていた湖面を踏みしめていたように、『彼(女?)』もまた、そこにいたというだけだった。

 子供がベットでシーツにもぐるみたいに大きなローブを巻きつけて、星空にうずくまる小さな人影。


「……まさか、こんなに早く会えるとは思っていなかったよ」


 もうおれたちには、その人物の予想がついている。ジジの唇は笑っていた。

 一心不乱に前を行くジジの背中から、剥き出しの好奇心が立ち昇るように漂っている。


 いつしか天が地に反転し、おれたちはその人影の前に立っていた。

 相棒の肩は強張り、緊張している。瞳がぎらぎらと燃えるように輝きを増し、もうその顔が見たくてうずうずしているのがわかる。

 ジジの第一声は、緊張に掠れていた。


「……はじめまして。ボクはジジ。この魔法使いの魔人さ。――――――キミが『宇宙』のえらばれしもの? 」

 肩が揺れる。うつむいた顔に垂れた髪の間からゆっくりと、金色の瞳が顕れる。

 頼りなげに薄く開いた唇は、涙の余韻に震えていた。


「それとも、『ミケ』って呼んだほうがいい? 」

「はい……わたしはミケ……。アルヴィン様の語り部の、ミケ……――――――」

 消え入るような声が言う。

 その魔人は、今にも消えてしまいそうなほど儚い姿をしていた。対するジジのほうは、獲物を前にした猫のように、相対する相手の顔を穴が開くほど見つめている。

 相違点は目につく。


 それでもこの二人は、体格も、声も、顔も……すっかり同じ姿をしていた。



 ✡




 熱が脳を蕩けさせる。

 乾いた眼球は景色を歪め、纏わりつく熱気はねばついて離れない。

 すべてが蜃気楼のように薄っぺらで頼りなく、ここがどこかも分からなかった。それでも体を動かせるのは、胸の内に、何よりも熱い激情の嵐が吹き荒れているからだ。


 強い怒りと喪失感。

 体の奥にぽっかりと空いた穴は、焼け爛れてひりひりと痛み、掻きむしりたくなる疼きをもって苛む。

 さまざまなことを忘れていることを、アルヴィン自身も分かっていたが、それすらも意識しないと忘れてしまう。


 この穴を埋めたい。


 ここにもともと在ったもの。奪われたものを取り戻したい。


 そうすれば、自分はもっと楽になれるはずだ。


 蕩けた脳みそから膿のように染み出る渇望が、アルヴィンの肉体を闘争へと駆り立てる。



『あれ』は『それ』を持っていると思った。あの『青い騎士』と、目の前の『青い老人』。どちらも一目見たときから記憶を叩く存在だった。


『青い騎士』はほとんど口を開かなかったが、『青い老人』は違った。

 自分の叫び声(と、その金属音をアルヴィンは認識した)で、とっくに何も聞こえないが、大きく口を開いて何かを言っていたのは、肌と朧げな視界で理解できた。

 アルヴィンが振り上げた拳は、ことごとく金属の兵士たちに遮られるが、問題はない。

 この拳はもっと熱く、突きは鋼鉄の鎧を溶かしながら穴をあける。


 合間に、『青い騎士』が剣を振り上げて肉薄した。

 刃が、突き出した腕の表面を火花を散らしながら滑る。ひじを掬い上げるようにして刃先をそらし、拳を打ち込んだ。


 ―――――動きも、こちらのほうがずっと早い。

 その確信が、アルヴィンの動きを、よりなめらかにする。

 弓は少し怖いが、突進するしかない楯や剣などは簡単に避けられる。

 青い騎士にいたっては論外だ。柱のように巨体の兵士たちが動き回る中で騎乗していることは、馬の巨体を持て余していてデメリットでしかない。剣戟は、灼銅の鎧に覆われた体には一撃が軽く、ひどく遅く見えた。


『青い老人』は、この黒鉄の兵士たちの『王』であるようだった。

『王』――――――その単語に至ったとき、ちくりと胸を刺すものがあったような気もしたが。まあ、どうでもいい。


『青い王』を斃せば終わり。『青い騎士』は、驚異ではない。


 兵たちが『青い王』の前で円陣を組む。意図に気が付いたのだ。

 兵士どもは肩を組んで、自らの身体を防壁にして青い王を囲い込んだ。

 その前には重歩兵どもが楯を構えて陣取る。

 兵士で造ったドームの上には、仁王立ちの弓兵が油断なく弓を構えた。

 アルヴィンは一度壁際まで下がり、十分な距離を取る。

 壁を蹴って床と並行に跳ぶ。

 足首の骨が砕ける音がした。

 この身に纏う灼熱の泥は、壊れた箇所を修復する。かまわず、アルヴィンはひと筋の焼けた砲弾となって突進する。


 弓を構えたままの弓兵は立ち尽くしたまま何もできず、足場の円陣が崩れたことで手放した矢が弧を描いて飛んでいった。

 砕けた足を仮面から滴った銅が覆って補強するのを待って、アルヴィンは兵士たちの残骸の中、立ち上がる。

 ……仕留めたと思ったのに。


 踏み出そうとして、足が持ち上がらないことに気が付いた。

 見れば、溶け、砕けた黒鉄の兵士の残骸が、アルヴィンの足を縫いとめている。

 もう一度溶かしてやろうと叩いた腕も、黒鉄に掴まれた。


 膝。腰。肩。首―――――兵士の残骸が、冷たい黒鉄が、アルヴィンの身体に這い上がって飲み込んでいく。

 もがいても、溶かしても、次から次へと、圧倒的な質量が覆いかぶさる。


 もがきけばもがくほど、鉄はアルヴィンの体に巻き付いていく。

 逃げられない。

 怖い。

『青い騎士』が『青い王』に向かって何かを言い、空へと飛び去った。


 怒りが冷えていく。

 渇望が塗り替えられる。

 衝動が萎えていく。


 怖い。怖い。怖い――――。


 『青い王』が、アルヴィンへ歩み寄ってまた何かを言ったが、分からない。

 近くで見た『青い王』は、どこか疲れて、ひどく悲しげだった。

 アルヴィンの仮面を暴こうとでもしたのか、手を伸ばして触れた瞬間、驚いて飛びのく。


『青い王』は、また何かを言った。

 何も聞こえない。

 何も分からない。


 ああ、×と×さ×。僕はもう駄目みたいです。


 ――――――――僕にはもう、何も……分からない……。

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