幕間:フェルヴィン皇国歴史列伝「王に捧げる鎮魂歌」
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レイバーン・アトラスが母と会うことができたのは、まだ十一歳のときであった。
レイバーンは、皇帝オーガスタスの八人いた息子のうちの、六番目である。宮中をくまなく侵した病によって、他の兄弟はすでに亡かった。
オーガスタスには、妻のほかに愛妾が二人いて、レイバーンは妃であるメリッサの四番目の息子だった。レイバーンは生まれつき体が弱く、病が流行るよりずっと前から、療養のために湯治のできる田舎へ送られていたことで生き延びたのである。
レイバーンは、母の顔を知らなかった。産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなったと知らされていた。
父親のことも、肖像画以外の姿はよく知らない。もうずっと体が悪く、寝込んでいるということだった。
レイバーンに母のことが知らされたのは、もうずいぶん体力がついて、長旅に耐えられるようになったと主治医が判断したためらしい。
緑深い森の中の館は、五つのときから暮らしていれば、もはや暮らすべき家となっていた。馴染み深い森から離れ、山間を抜け、寂しい道ばかりを選んで馬足は向かう。
母の住処は、それはそれは寂しい場所だった。周囲にあるのは寒村と呼ばれる寸前の集落だけ。誰も近寄らない荒れた藪のようなところに崩れかけた石塀があり、その石塀の向こうには、素っ気ない崩れかけの塔があった。その塔がかろうじて城の体裁を保っている。そんな廃れたところだった。
そこは、古い城を改装して使った修道院だった。
母はもうずいぶんと悪いという。老いた修道女は、「何度も手紙を送ったのに」と憤っていた。どうやら母とその息子の来歴は知らないらしい。ただ単に、親子を引き離した何者かに憤っている。『なぜ』引き離されたのかも知らないで。
せめてまだ口が利けるうちにと思っていた。ほんに良かった、来てくれて感謝いたします。と、老婆は少年の小さな白い手を握って額に押し当て泣いていた。
「さあ」とうながされ、押し込められるように入った部屋は、独特の臭気が満ちていた。レイバーンは自身も病弱なので、その臭いの意味にすぐに察しがついた。
誰が
レイバーンはその日、はじめて実の母を見た。幼い少年に大きな傷を残す再会となった。
父、オーガスタス皇帝崩御の知らせが首都を駆け巡るのは、奇しくも再会から十日後。レイバーンの耳に届くのは、さらに三か月も後のことである。
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オーガスタスは『語り部』がいたから皇帝になることが出来たと記したが、オーガスタスの世代には、正確には三人の『皇帝候補』が存在していた。
一人は現皇帝の弟ディアス、もう一人は前前皇帝から派生した血筋の遠縁にあたるクレメンスという役人。
二人とも五十路と三十路で脂の乗った男ぶりで、それぞれ支持者も多かった。三人目のオーガスタスは、若すぎる事はもちろん身体的なこともあって、数にすら登らなかった。
しかしそれも、
下手人はただちに縛され、黒幕の貴族一派も罪に処された。
こうしてオーガスタスは、10代と若くして次期皇帝候補筆頭へと躍り出た。
運命に導かれて玉座に座ったというのなら、その運命は女の形をしていたのだろう。
オーガスタスにとっての運命の女神は、前髪だけしかない
美貌と、知恵と、情熱と、毒をあわせ持った運命の女神だ。
オーガスタスには、姉と語り部以外には何もなかった。顔の火傷、太った体、内気な心。しかし語り部は、ユリアではなく、オーガスタスを選んだ。
当時の皇帝ダミアンは、その事実をことさら重視した。
皇帝候補者の立て続けの死。そこに、オーガスタスを祀り上げようとする意図があることは誰もが分かっていることだった。
しかし、オーガスタスを廃嫡するなどは許されない。皇帝はユリアの夫の父、当時の宰相から、花嫁が孕んだものの真実を知ったときも、その腹の子に『語り部』がいる可能性を重視し、堕胎を許さないばかりか、ユリアを宰相宅から引き取り、厳重に保護した。
生まれたのは双子の男の子であった。名はジーンとコネリウス。それぞれに付いた語り部は、ダイアナとルナ。
語り部とその主には相性がある。語り部の経歴を見れば、どんな人物を『主』に選ぶのかという『好み』があるとわかる。
ダイアナの過去の主は、聡明で知られたものがよく見られ、ルナの主は名の知れた将軍だった。皇帝は、この禁忌を背負って生まれた双子におおいに期待し、ユリアと『隔離』することこそ、最善であると判断した。
皇帝は、嫌がるユリアのもとから有無をいわさずに孫二人を王宮へ取り上げ、みずからの養子とし、皇子として取り立てた。
「……語り部は、その者が生まれ持った王の器ではなく、運命に惹かれて付く」ダミアン帝は言った。
「激しく浮き沈みのある人生を歩むもの。あるいは、栄光ある道を歩むもの。あるいは、稀代の愚か者として名を残す器をもったもの……。
語り部とは、蜜に誘われる甲虫のように、そういったものを好むのだ。
ダイアナは、知恵あるものが栄光を築く物語を好むのだろう。ルナは、逞しいものが覇道を築く物語を書きたいのだ。
……『語り部』とは、そういうものだ。そうだろう……なあ、フィガロ」
ダミアン帝の語り部は、にっこりとして言った。
「……ではわたくしは、激動の時代を生きた、とある苦労人の皇帝の物語を好むということですね? 」
「―――――ふん。面白がりおって。そういうところだぞ。そういうところが、語り部は悪趣味だというのだ」
ダミアン帝の語り部フィガロは、方眼鏡をかけた、ひょろりとした痩躯の若者の姿である。丁寧に撫でつけられた艶のある黒髪と、色白で端正な顔立ちは、性別を超越した美術品のような魅力があった。
「……トゥルーズは、どういうものを好む語り部だ? 家系図を見ても、トゥルーズの主人となったものは、どうもパッとしない者ばかりだ」
皇帝の問いに、フィガロのぽってりとした赤い唇が弧を描く。
「あれは好き者です」
「なんだと? 」
「トゥルーズは、我々の中でも極端な感覚派です。言うなれば、とびきりのグルメですよ。ただ賢く強いだけの主なんぞは好みじゃあない」
「……おまえの見立てでは、あの愚息に見込みがある、と? 」
「それはわたくしには何とも? しかし、あの皇子はまだ十三歳。愚か者かどうかを判断するには、まだまだ青すぎるのではないでしょうか。トゥルーズはただの愚か者に付くような語り部ではございません。げてもの好きではあるかもしれませんが。フフフ……」
「おまえは、もう少しハッキリとした物言いはできんのか? 」
「そんなことをしたら、わたくしは誓約に触れて消えてしまいますよ。
……あのですねぇ、我が王よ。語り部はね、そんなに薄情なものではありませんよ? 語り部は、主に生涯の愛を誓うのです。どんな主であっても、どんなふうに扱われても、語り部は御主人様を嫌ったりはいたしません」
ダミアン帝は片眉を上げて、かたわらの語り部を見た。
「もちろん、わたくしだって例外では無いのです。フフ……ウフフフフ……フフフフフフ……」
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細い喉笛に親指が食い込んだ。
空気の通る管が、いびつな楕円に潰れる感触がする。
組み敷いた体は細く小さい。脂肪で風船のように膨らんだ自分の身体と違って、骨と皮ばかりのような感触がした。
語り部はもがきもしなかった。ただ、両腕をだらんと体の横に置いたまま、オーガスタスの好きなようにさせている。
「……苦しくないのか? 」
指の力を強くして問うと、右腕が持ち上がり、オーガスタスの手の甲を軽く叩いた。
しぶしぶ手を放してやると、語り部はゆっくりと起き上がり、ぺたりとシーツの上で足を広げて座り込んだ。トゥルーズの細い首に毒々しい赤黒い痕がついているのが、弱視のぼやけた目にもわかる。しかしトゥルーズの手が調子をみるように首を撫であげると、それはサッパリと消え去った。
「苦しいかっていえば、苦しいですけど」トゥルーズは、困った顔をしているようだった。
「でもガス、あのね。トゥルーズは魔人なんです」トゥルーズは小首をかしげて、オーガスタスの顔の前に指を立てた。
「トゥルーズは人間っぽく見えますけど、人間っぽく作られたイキモノなんです。なので、ほんとうは息をしなくてもいいのだけれど、人間っぽくするために、わざわざ呼吸をしているのですね」
「そうか……じゃあ、トゥルーズは首を絞めても苦しいだけなんだ」
「はい。そうなんです」トゥルーズはこっくりと、満足げに頷いた。
「じゃあ、どうすればお前は死ぬの? 」
「はぁ……どうすれば、といいますとぉ。あれ? ガスくんは自分の語り部を殺したいのですか? なぜ? 」
「なぜっておまえ。だって皇帝になんてなりたくなもの。失敗するに決まってるじゃあないか。おまえがいなけりゃ、ぼくは皇帝にならなくていいんだ」
「ハア、なるほどぉ」
トゥルーズは、もういちど大きく鷹揚に頷いた。「確かに、語り部が先に死んでしまうと、その持ち主は皇帝になれません。でもトゥルーズは死にたくないと思います」
その言葉にオーガスタスは悲しくなる。
「どうして? ぼくは、語り部に伝記なんてものを書かれるのも辛抱ならないんだ。だっておまえ、嘘を書いてはくれないんだろ。ぼくは絶対、後の世で馬鹿にされる。ぼくは目が悪いから文字なんてろくに読めないのに、ぼくが読めないものをおまえが書くのも我慢ならない」
「でも……それがトゥルーズのお仕事ですもの」
「いやだいやだ。だって、おまえは姉上のことも書くんだろう。そうしたら姉上まで悪く言われてしまうじゃあないか! 」オーガスタスは、目蓋を横に奔る火傷の痕をばりばりと掻きむしる。
いつになく強く、語り部に向かってオーガスタスは声を張り上げた。「そんなのは駄目なんだよ! 」
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「……そんなのは駄目なんだ」
トゥルーズは、ぼんやりと昔のことを思い出していた。過去の主はすっかり大きくなって、トゥルーズを見下ろしている。
「ああ……いつしか大きくなられましたねぇ」
「おまえは小さいままだ……忌々しい。おまえのその幼い姿が、わしの器の小ささを象徴しているように思える」
「確かにトゥルーズの姿はあるじの心が作用いたしますが、それは器の大きい小さいとは関係ありませんよ」
「知っている。知っているともさ。しかし……それも駄目なんだ。おまえの全てが、わしにとっては許しがたい……」
オーガスタスは、歯の音が軋むほど奥歯を噛み締めた。
「……後世に姉上の醜聞を広めることは看破できぬ。おまえの筆が我々の栄光を破滅させるのだ……死んでくれ、トゥルーズ」
白く濁った両眼がトゥルーズを見下ろしている。大きな下膨れの白い顔に張り付くようにして、姉と同じ金髪が乱れていた。汗はとどまることを知らず、水をかぶったように濡れている。
トゥルーズは静かに、その光を失った瞳を見返した。
かつて色彩だけはかろうじて分かった眼は、年を重ねるにつれ、身体の体積が増えるにつれ、すっかり見えなくなっていった。
皇帝となってから、オーガスタスは地下に造らせた『涼しい部屋』にこもりきり、一日のほとんどを大好きな音楽についやしている。反面、嫌いなのが絵物語のたぐいで、文字が読めないという事は彼の大きなコンプレックスになっていた。
主人が地下にこもりきりのトゥルーズには、この部屋より上がどうなっているのか、いまいち分からない。
地上の人々は―――――皇帝の庇護する民たちの姿は、もうとっくに遠い海の向こうの出来事と同じであった。
オーガスタスは定期的に、こうした発作を起こす。トゥルーズを叱咤し、その存在を嫌悪している旨を叫び続けるのである。暴力が出ることもとうぜんあるが、『語り部』の身体はただの人間の拳では死ぬことも壊れることもない。
だから、いいのだ。
トゥルーズはそう思う。トゥルーズは、オーガスタスのことが好きだった。彼の中では、小さかったころの癇癪となんら変わりはない。
やがて、暗い部屋の隅ですすり泣き始めた主人のもとへ、トゥルーズは必殺の道具をたずさえて近寄っていった。
「ねえ、ガスくん。トゥルーズは今から音楽をしますよ」
楽器を奏で始めると、オーガスタスのすすり泣きは段々と小さくなっていく。トゥルーズはそれを十分知っていた。
目が見えない主人のために楽器を触るうち、かなりの腕になったと自負もある。主人の涙を止められるのなら、それは物語を紡ぐよりも素晴らしいことだ。
「ねえガスくん。トゥルーズはね、ガスくんが嫌がるから、ガスくんの伝記は書かないことにしようと思います。そのかわり、ガスくんの曲をつくりましょう。それなら『読む』ことはいりません。『聴く』だけでいいのです。ねえ、ガスくんどうでしょう? いい案だと思いませんか。トゥルーズは、ガスくんの語り部ですから、ガスくんが嫌がることは何もしたくないんですよ」
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