12-5 終末王の戴冠②

 真紅の瞳は、炎のそれというよりも、滴る生き血の色だった。アポリュオンの瞳は、さらにそれよりも数段濁った赤をしている。

 アポリュオンは、あの地下講堂でアルヴィンと対峙したときよりも、比べるべくもないほど巨体に膨れていた。


 それもそのはず。アポリュオンは奈落の王。

 冥界が冥界として整地されるよりも以前の深淵に巣食った怪物を母とし、太陽神の血を受け、人類終焉のおりには、配下とともに人類世界の文明を食らう役目を担われた、『黙示録の天使』の一人にして、今もなお冥界より深い場所の王として君臨している。

 こうして直接冥界の火の粉を浴びるなどは、奈落の王にとって産湯を浴びるに等しい。そこから来る自信は、小山ほどもの巨躯から収まり切れずに溢れていた。


 対する『影の王』。その本性たる時空蛇は、そのアポリュオンよりもさらに古い、世界創造そのものに関わるの存在である。


「―――――しかし、いくら時空蛇の化身といえど、『影の王』たる貴様は人間にすぎなかろう。……我の相手をするには、その矮小な姿では荷が重いのではないか? 」

 そう、アポリュオンは含み笑った。

「…………」

 アイリーンは僅かに眉を上げるのみで黙し、手の中の懐中時計をズボンのポケットへしまうと、シャツの襟を正して、崩れた袖を肘まで捲り上げる。視線すら相手を見ていない。火傷のあとのある、女にしては逞しい腕をいくらか露出させると、細いため息を吐いた。


「……その姿でも変わらぬ。何を考えているのか。何を求めるのか。そもそも貴様に何かを求める意志はあるのか。海の底で寝そべるだけの、いにしえの怪物には、渇望する願いなど無いのだろうと思っていた。しかし貴様は『混沌の夜』において、『魔女』に加担した。……なぜ? 」

「簡単なことだ。時空蛇にも渇望はあった」

「その渇望を、あの魔女が埋めたというのか? ただの人間が? 」

「彼女はわたしに未来を示した。わたしは彼女の示す未来に恋をしたのだ」

「恋? 恋だと!? 混沌の兄弟たる時空蛇の口から、よりにもよって『恋』―――――!? 」

「……なにを驚く。神々も色恋にうつつを抜かしてきたではないか。そもそもあらゆる物事は、『混沌』より生まれし兄弟、我が子、孫たちだろう」

「それは屁理屈というものだ。時空蛇よ。金の矢に右往左往する神々と貴様では、おおいに違うであろうよ」

「アポリュオンよ。このわたしは時空蛇ではない。影の王、アイリーン・クロックフォードという、ただの人間……。夫の帰りを待つ、一児の母さ」


 アイリーンの顔に、滲むように微笑みが浮かぶ。柔らかく緩んだ目元とわずかに差した頬の血色に、アポリュオンは「なぜ……? 」と困惑を隠せなかった。

 醜い馬頭が、ゆっくりと振られる。やけに人間くさい仕草だった。


「――――アポリュオンよ。わからぬなら退け。今の貴様は、ああ、確かに。わたしを捻り潰すには容易いだろうさ。わたしは人間。貴様は奈落の王アポリュオンだ。

 ……しかし、わたしは愛のために戦っているのだ。この足の下には、加護する愛弟子たちがいる。愛をかかげて戦う以上、どんな敵であっても退しりぞく気は無く、どんな手を使ってでも、この船を守らねばならない。この船は、我が親友、かの魔女の棺でもあるのだからな」

「……影の王よ。これまでの無礼を許せ。貴様は、このアポリュオンが知る中で、最も尊敬すべき人間となった。しかしな……影の王よ。人間とは、まことに純真から『愛のため』などで戦うことは無いのだと、このアポリュオンは知っているのだ。人間の王よ……哀れな古老の化身よ。……『愛のもとに』戦うというあなた様は、その動機を持ち出せる貴方は、『人間』ではない……怪物の心を捨てきれない、ただの成り損ないだ」


「ふん」アイリーンは鼻で笑った。

「理解しているとも。人はもっと複雑だ。『愛』などという不確かな報酬では、全力を出せない欲深さを持っている。……しかし忘れたか? わたしは時空蛇の化身であるぞ? 」


 アイリーンは首をそらして尊大にアポリュオンを見下ろした。唇が吊り上がり、赤く濡れた咥内で舌が踊る。真紅の瞳はらんらんと輝き、髪はゆらゆらと逆立った。


「……想像してみるがいい若造! 虚無より生まれ、もの言わぬ混沌と相対し、それを教育するという途方もない事態を! 時すら飲み込み、自らが整地した世界が滅ぶ未来を予見する。そのおぞましさを、貴様に想像できるのか? 絶望のなかで眠りに落ちたそんなわたしに、我がともは語り掛け、わたしが見えぬ未来を示した。すべてを変える鍵を! 異なる世界からいずれ訪れるという、一人の男の存在を、朋はわたしに教えてくれた!

 この体は、あの男を手に入れるために創り上げたものだ。アポリュオンよ……! 順番が逆なのだよ!

 時空蛇にも渇望はあったのだ。忘れていただけで!

 わたしは、あの男の創る未来を渇望した!

 その未来に恋をした!

 彼を夫とし、子を成し、そして今!


 わたしはが数億年求めた『わたしの知らない未来』を手に入れようとしている……! 時を呑み込んだあの時から、満たされることがなかった渇望を忘れるときが、今そこに来ているかもしれない、というそんな時に!

 アポリュオンよ! 理解は及んだか! わたしの『愛』とはいかなるものか!

 わたしは『人間ではない』? 上等だ。時が歩み始めたと同じだけの時間、わたしは苦しんだのだぞ。そんな時を知っている『人間』がどこにいる? 今もなお不安を抱え、怯えているのだ。

 しかし『未来への不安』という一点の感情においては、わたしはあらゆる人間と感情を共有している! これは神々では抱かぬ感情だぞ! 人間は何代も、この渇望に耐えているのだ!

 どうだ、貴様にこの人間を弑することができるか! 彼らは貴様らがとうてい知りえぬことを知り、それに耐えるすべを知っているのだ!

 アイリーン・クロックフォードは人間であるぞ!

 さあ、アポリュオンよ! 退くか! 殺すか! 貴様にその覚悟があるというのか! 」


 アポリュオンは沈黙した。人の心は彼の者には及びもつかない。いずれ、配下とともに食らうものと定められている生物の在り方など、アポリュオンは見下すだけ見下し、深く知らなかった。

 相対するこの人間の女は、ただの人間の女ではない。

 時空蛇の化身―――――いや、それ以上だ。

 ともすれば、時空蛇はこの、自身の分身だけでも生き永らえることを望むのだろう。

 だって、時空蛇本体のままでは、望む『未来』とやらを歩めないのだ。この矮小な人間の肉体は、かの時空蛇の(『人間』流にいうところの)『夢』を託されている。


 胸の内に、悲壮な焦りが芽吹いていた。アポリュオンが一度しか知らない味をした感情だ。―――――人はこれを、『不安』と呼ぶ。


 はたして『夢』破れた時空蛇の怒りを、アポリュオン自分は受け止めきれるのか―――――?

 相手は混沌の片割れ。時を呑み込み、大地を成した原初の怪物。深淵の底で生まれ出でた母よりも古く、強大な力を持ち、しかしそれを使わずに蓄えてきた存在。


 そんなアポリュオンに、時空蛇の化身は優しく促した。

「……退きなさい。アポリュオン。いまここで、わたしと戦う利は貴様には無いとわかったはずだ。強大な力だけで打ち据えようとも、次に待つのは、強大な『意志』のみによる行使だと、もう理解しただろう。世界わたしはまだ人間に味方している。この世はまだ滅ぶべきときではないのだ。わたしが『愛』を掲げて戦うことが、まだ出来る世界なのだから! 」



 ✡



 大きな揺れだった。『様子を見てくるか』というジジの眼差しによる問いかけを、おれは首を横に振って制した。

 船が襲撃されているのだということは、『船』自身の感情の無い声で告げられていた。不安そうに視線を交す語り部や皇子たちへも、おれは儀式を強行することを薦める。ダッチェスもまた、同じ意見だった。


「……船は頑丈ですわ。そう簡単には落ちません。それよりも最悪なのは、継承の儀が行われないままでいることです。『審判』に正式な『皇帝』の椅子が空く……そんなことは許されません」


 ✡


「……古き王から新しき王へ。わが主、レイバーン・アトラスに変わり、ここに『皇帝』の宣誓を返上する。

『わたしは安寧の礎となる。』

 ”愚かにも身内が争う国にはもうしない” ”わたしに栄光も名誉も不要” ”ただ、幼子が何ものにも裏切られない世界を” ”兄弟が互いに手を取る未来を” ”異なるものを虐げない人々を”

 皇帝レイバーンは、この宣誓を返上し、次代の『皇帝』へと継承する。

 立会人コネリウス・サリヴァン・アトラス・ライト」

 おれは、なるべく意識を集中して杖を抜いた。ゆるく三日月を描く銀色のダガーは、おれに一番しっくりくる『杖』の形態だ。それを差し出すようにして、『王』と『代理人』の間に跪き、「受諾いたします」と言葉にする。


 《 宣誓の返上を受諾 》


 おれの手の中の杖が、とたんに熱をもった。

 熱せられたようにとろけだし、無数のすじになって手のひらから零れていく。液状に見えるそれは、雫のように粒にはならず、長い幾本もの紐のようにおれの手からこぼれ、うねり、『銀蛇』の名の通りの形を成した。

 目を剥く観衆の目の前で、無数の銀の蛇がおれのまわりを渦を巻くようにして行進を始める。渦はどんどん速くなり、蛇たちの体は細分化されていき、おれと皇太子を閉じ込めて、銀色をした小さな竜巻の様相を成した。


「魔女の与えた魔法が蛇の形をしているというのは、本当だったんだな」

 額の影になった瞳をきらきらさせて、皇太子はおれに囁いた。少し子供のようなところのある人だ。兄妹だからだろう。どこかあのヴェロニカ皇女に感じたものと似ている。


「殿下!? 続けますわよ! 」

 竜巻の向こうから、ダッチェスの声がした。

(……あ、揺れが止まっている)

 船の襲撃は、収まったのだろうか。

 ふと気になったが、今はそれはそれ、これはこれだ。ふう、と息を吸って吐く。


「”告げる”

 ”祖は女神の友、青き魔女” ”王の選定者” ”すべての勇者を慰撫せしもの”

 ”我が名は黒き瞳をあらわす。銀蛇の担い手である”

 ”告げる”

 ”天秤は傾いた”

 ”告げる”

 ”フェルヴィンの新たなる王基を継承せし者は、ここに”

 かの者の名は、グウィン・ランスロー・サーヴァンス・アトラス」


 《 継承者を認証。グウィン・ランスロー・サーヴァンス・アトラス 認識。受諾。》

 《 継承者の証明レガリアを承認。製造番号15ヒトゴー独立端末ベルリオズ 》

 《 ベルリオズ。詩歌の登録を行って下さい 》


 寡黙な老爺は、ずっと主の斜め後ろで跪き、首を垂れていた。儀式が始まって、はじめて顔を上げた語り部は、ゆっくりと、よく通る声で、自らを司る言葉を口にする。


「”我が名、ベルリオズ” ……この言葉をもって誓います」


 ”黒檀の靴を履き、あなたは処女雪の丘を行く”

 ”真白が四辻を隠し”

 ”やがてあなたは、眠りの森で立ち止まる”

 ”あなたの歩みの芽吹きから”

 ”あまたの小さきものたちが背伸びをして”

 ”春の歩みはすぐそこに”


 ”泉のほとり”

 ”夜伽の鳥がしるべに立つ”

 ”夜告げの声に導かれ”

 ”星はあなたを旅立って”

 ”暁の訪れに夢は泡沫へ”


 ”恐れることは何もない”

 ”やがて雲は晴れるもの”

 ”やがて木々は芽吹くもの”

 ”やがて星は還るもの”

 ”森の夜告げはそこにいる”

 ”ここは芽吹のほとり”

 ”始まりの泉”

 ”喉を潤し、また歩きましょう”


「”我が名こそはベルリオズ” 

 ”あなたの歩みを助ける杖とならん”――――――」


 《 証明レガリアを承認。登録。 これより継承者の死亡まで、語り部ベルリオズの詩歌は保全されます。ピッ 》

「……はっ! 承知いたしました」

 ベルリオズが下がると、ついにグウィン皇太子が前に進み出た。『船』が告げる。


 《 ピッ 継承者グウィン。『皇帝』の宣誓を 》



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