12-4 終末王の戴冠①
『かち……かち……かち……かち……かち……―――――』
真っ白な文字盤にある一本きりの金色の針だけが、規則正しく働いている。その時計の時を刻む針は、不思議なことに、秒針一本しか存在していなかった。
懐中時計を握る女が座すのは、漆黒をした棺に似た『なにか』の屋根である。
細身で引き締まった、長い手足を持つ女だった。
女はその『何か』が、船であることを知っていた。眼下にマグマのように沸騰している冥界の炎を望み、底の浅い歩きやすそうな革靴を履いた足裏を、虚空にぶらぶらと揺らしている。
冥界からの青い光に照らされて、いっそう白い顔のまわりを、縁取る黒髪がさらさらと流れていた。
その表情は『無』である。
感情による歪みも、経年により備わるはずの、筋肉の使い方の違いから顕れる皺などの個性も、女の肌にはいっさい無い。なめらかな白い肌は、しかし無機質なそれではなく、どちらかといえば、爬虫類や魚を思わせる『そういうもの』とした印象があった。
女は小さく――――男性的にも見える外見からはギャップのある、横笛のような柔らかい声で―――――囁いた。
「影の王として【認証】。宣誓する。
『私は未来を終わらせない』。
”命ある限り夢に馳せよう”
”なぜならこの意志は、青薔薇の魔女と寄り添うものだから”
”
”我が恋はいま”
”おまえの観た未来へと委ねた”
―――――これにより、影の王アイリーン・クロックフォード……『女教皇』を担うわたしの、世界への宣誓とする……」
文字盤に落とす目は、赤みの強い茶色である。
あたたかな紅茶色の瞳だけが、女に色彩を与えている。
宣誓を終え、しばし。女の相貌に、はじめて感情が顕れた。
優しげな、慈愛に満ちたその微笑みは、なおも手中の時計に落されている。屋根の淵でぶらぶらと揺れていた足を引き上げ、女は膝を抱いて頬を預けると、紅茶色の瞳を閉じた。
「……我が弟子よ。おまえの望みはなんだろう? 」
応えの無い問いかけは、冥界へ繋がる虚空へ消える。
「……サリヴァン。どうか、おまえの心望むままに……」
✡
ソファと安楽椅子とテーブルを移動し、広くなった『書斎』で、ダッチェスは中心に立ち、うんと腰を伸ばした。
「いよいよ始めるわよ。……準備はいい? 」
「いつでも」
相対するグウィンは微笑んで頷く。隣に立つおれもまた頷いた。女語り部の微笑みはなりを潜め、スッと雰囲気が変わる。
「独立端末、語り部のダッチェスが【フレイアの黄金船】へ要請。【フェルヴィン皇帝の戴冠】モード起動」
《 ピッ 【語り部】からの要請を確認しました。【フェルヴィン皇帝の戴冠】モード起動を受諾。》
《 【デウス・エクス・マキナ】シナリオが起動されています。》
《 ピッ 条件を達成しました。 》《【ホルスの目】より指示。》
《 これより【終末王の戴冠】シナリオを起動します…… 》
ヴヴン……と部屋全体が唸りを上げる。
《 起動を確認。オールグリーン 》
「これより、前任レイバーン・アース・フェルヴィン・アトラス皇帝の代理として、製造番号
《 認証。エラー。前任レイバーン・アース・フェルヴィン・アトラス皇帝の魂魄を確認。条件を満たしていません。完全な継承を行うには、前任者からの継承の儀を推奨します。 》
「それが出来ないから言っているのよ。代理として、製造番号
《 ピッ 要請を確認。継承権限の一部を、番号
《 ピッ インストール開始。82%起動成功 》
《 継承の儀を開始します 》
「……殿下、レイバーンの魂がまだこの世に縛られている以上、あたしでは完全な継承の儀にはできません。ただし、その問題は、レイバーンを冥界へ送ることができれば自動的に解決します。死者の冥界落ちという大いなる神々が定めたシステムには、どんな外法も対抗できません。その時点でレイバーンの魂は『魔術師』から自動的に解放されるはずです」
「……不正に交わされた契約には、正当なる契約で対抗するしかない。先にぼくが不完全でも正式に『皇帝』を継承していれば、形勢は引っ繰り返せるということか」
『そのとおり』というようにダッチェスが頷く。
「やろう」
みんなが息をひそめ、じっと彼女を見つめた。
「―――――『皇帝』代理。語り部ダッチェスが告げる」
「”これは大樹の根の一角を統べるもの”
”原初の巨人の踵”
”祖は地を支えしもの”
”女神に言祝がれしもの”
”罪科の魔境アトランティス”
”あるいは堕ちた光の国アルフフレイム”
”あるいは、神話に新しき再生の島、フェルヴィン”
”我があるじ、レイバーンの代理人として、
異論あるものはいるか? 」
《 受諾 》
「よろしい。
……”我が名はダッチェス”
”屍に寄り添うもの”」
そこから始まる文言は、『語り部』のみならず『魔人』なら必ず持っている、存在をあらわすための呪文……魔術の詩歌だ。
この詩歌は、魔人それぞれの個人を確定する。主にすら迂闊にはさらせない、存在に関わる重要なものだった。
「”硝子の靴を履き”
”葬列の末尾を踊ろう”
”涙を真珠に変えて撒き”
”野ばらの戦士の旅路を飾ろう”
”言祝ぐ
”硝子の棺は光なき場所へ収められる”
”しかしその上には永遠を誓う野ばらが茂り”
”わたしが共に横たわる”
”数多の言葉を墓標としよう”
”わたしは屍に寄り添うもの”
”
”
”死も時も、わたしとあなたを別たない”
”わたしはあなたに寄り添うもの”
”あなたを永遠に変えるもの”
”わたしの名は、語り部ダッチェス”
”あなたの葬列を言祝ぐもの”
古き王から新しき王へ。わが主、レイバーン・アトラスに変わり、ここに『皇帝』の宣誓を返上する。
『わたしは―――――』」
そのとき、『船』が大きく揺れた。
✡
「……来たな」
女は黄金船の屋根の上に立ち上がり、『それ』と対峙していた。
まとわりつく風が女の―――――『影の王』の、肩に届くほどの黒髪を舞い上げる。右へ左へ大きく揺れる足場にも関わらず、足裏を張り付かせたように影の王アイリーンは仁王立ちし、神聖な継承の儀の邪魔をする
冥界と地上を穿つ長大な縦穴が、黒煙を吸い上げていく。互いの姿を認識したのは同時であった。
「……あれまぁ、影の王じきじきの
馬に似た、されどあまりに醜悪な頭。油光りする頭から背にかけての黒い皮膚と、膿んだような黄色い腹、まとわりつく硫黄の臭気―――――背中の皮膜は大きく広がり、羽ばたくたびに空気を掻き混ぜる。
象と蟻のような体格差だった。
アイリーンは乱れる髪を掻き上げ、その怪物を見据えた。瞳が火種を得たように赤みを増し、真紅へと染まっていく。
「……アポリュオン。奈落の王か」
昆虫のそれに似た歯列の奥で、アポリュオンは低く哂った。
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