12-1 奇妙な小部屋

「身を守るために、口をつぐみなさい」

 いつか師が言った。


 まだその肩にも背が届かなかったころ。「どうして家族と暮らしてはいけないのか」という疑問をぶつけたとき、師はゆっくりと、幼いおれに説明し、そう締めくくった。

 師の手が肩を撫でる。

 かがんでおれの顔をのぞきこむ彼女の顔を、おれは見ることができなかった。


「いいですか。サリヴァン。あなたが本当は誰なのか、誰の息子であるのか。誰の血を引いているのか。それだけはぜったいに、誰にも言ってはいけません」

「……ぼくは、父さんと母さんの子じゃあないの」

「いいえ。あなたは、フランクとミイの子で、ヴァイオレットの兄。でもそれは、隠さないとならないの」

「どうして」

「家族を守るために。あなた自身を守るために。

 もう、薄々は気付いているんでしょう? なぜそうしなければならないのか。なぜ、あなたがここにいるのか」

「………」

「分かっているはず。だからあなたは、今日までわたしに弱音を吐かなかった。

 いい、サリヴァン。コネリウス二世ではなくて、サリヴァン・ライトとして、この『銀蛇』で普通の魔法使いのふりをするのです。

 今はつらいかもしれない。でも、少しの間だけ忘れなさい。

 いつか、あなたが大人になった時。

 本当のあなたを、誰もが知るときが来るでしょう」


 師はまっすぐに、おれを見ていた。




 ✡




 はいつ目を閉じたんだろう。


 目を開けて最初に考えたのはそれだった。ひどく静かだ。おれの記憶では、ほんの一秒か二秒前まで目を開いてこの手にを握っていたはずなのに。


 奇妙だ。――――奇妙だが……おれの中に浮かぶ疑問はひどく小さい。身を包む違和感、認識に決定的な齟齬がある感覚。しかし直感が囁く。『ここは危険ではない』と。


 静かな場所だった。

 そのまま寝転べそうな、清潔で柔らかい絨毯。青い蔓薔薇の壁紙。夜風に揺れる菫の柄のカーテン。オレンジ色の明かりを降り注ぐシャンデリア。火が落された暖炉は、夏場の様相だ。使い込まれた木製のロッキングチェアと、そこに陣取る白いうさぎのぬいぐるみ――――。

 そして、童話でいっぱいの本棚。


 大きな部屋ではない。

 おれの眼は、自然と出口を探す。金色のドアノブの木の扉が、暖炉に向かい合うようにあった。しかしおれの足は、揺れる菫のカーテンの向こうへ吸い寄せられる。


 こじんまりとしたテラスがあった。そしてその先には、はてしない星の海が広がっていた。


 天の川どころか、緑や紫の星雲すら鮮やかだった。それでいて、星々のひとつひとつが、どんなに小さくてもクッキリと丸く浮かび上がっている。


 ……まただ。

 カーテンが揺れていたのに無風の外気も、この星の海も、『奇妙だ』と頭で理解はしていても、危機感というものはいっこうに浸透していかない。


 気が付けば、一歩、また一歩と、テラスの淵へと近づいていく。白く塗られたテラスの床と続く、地面があるはずのその場所にも、境なく星がみっしりと散らばり、じっと見ていると眩暈のような浮遊感が身を包む。

 ゆっくりと、おれの視界が星に埋もれていく。


 そのとき、凪いだ無音のなかに声が聴こえた。永遠にも思えた静謐せいひつの中に、波紋のようにその声が響く。


 《 時はきたれり 》


 ハッと我に返る。と同時に、ずるりと体が滑り、テラスの柵の上に折っていた上半身を慌てて上へ跳ね上げた。あの、よくわからない空間へと身を投げようとしていた自分がいたことに、始めてゾッとしながら顔を上げる。

 そこには、今度はその声の主が現れていた。


 星の海を回遊する巨体は、星々を従えるように白く、真珠のように輝いている。おれのいるテラスを円を描きながら羽ばたく白鯨の、金色の瞳がおれを射抜き、また言った。


 《 時はきたれり 》

 白鯨は金眼をすがめておれを見つめた。まるで『この言葉の意味がわかるでしょう? 』というように。

 鯨がひときわ大きく羽ばたいた。叩きつけるような風が吹き、とっさに顔を腕でかばって足を踏みしめるも、ずるりと靴底が滑る。

 甲高い風の音とともに、おれは菫のカーテンの向こうへと背中から転がった。すぐに跳ね起きたが、そこにあったはずの菫のカーテンは綺麗さっぱり消えている。


 窓はまったくの別の位置に移動していた。それもテラスへと続くような大窓ではなく、ずっと小さな出窓としてだ。菫のカーテンは隙間なく閉じ、その前では部屋を睥睨するように青いリボンを首に巻いた白いうさぎのぬいぐるみが座っている。


 テラスのかわりに現れていたのは、別の場所にあったはずの本棚だ。

 おれは本棚に引き寄せられる。赤い背表紙の絵本がある。

 この見知らぬ部屋の中で、その背表紙だけが、どこか見覚えがあった。……すくなくとも今のおれは、そう感じていた。

 金色の印字を読もうとした瞬間だ。

 どん、と背中が押された。たしかに気配はなかった。まるで突然、その存在が質量をもって背後に現れたかのように。

 この体を突き飛ばした小さな手のひら。おれの背中にぴったりと張り付く体温を生々しく感じながら、おれは、その『誰か』とともに前のめりにあの赤い背表紙へ向かって倒れていく。

 傾く耳に温かい吐息がかかって、馴染みのいい声が、後ろからおれに囁いた。


「……さあ行って。あなたはもう、どこにだって行けるんだから! 」


 踏ん張ろうとした足が絨毯を蹴らないまま、おれの体は本棚にぶつかることなく突き抜け、はてしない暗闇を落下していく――――――。


 暗転。

 衝撃。


「いってっ」

 おれの落下は、何かにしこたま脳天をぶつかって止まった。その障害物たる人物が、モゾモゾ蠢いて体を起こし、おれは暗闇のなかを手探りで冷たい石畳の上に尻をつける。手が思わず耳の後ろに伸びた。うしろ髪についた小さな雫で、指がかすかに濡れている。

 やはり危機感や恐怖は浮かばず、疑問だけが浮かぶ。


 あの人は、どうして泣いていたんだろう。


「……そこにいるのはサリー? 」

「ジジか? 」

 おれがジジの顔を見て言えたのは、その金色の瞳が暗闇に輝いていたからだ。


「うん……本物? 」

 変なことを訊く。そんなことは、アイツならすぐに分かるだろうに。

「他の何に見えるんだっての」

「ああ、そう……うん……そうだよね。うん。キミはサリーだね。うん」

「……何があった? 」

「わかんない……」

 困惑した声色が応える。


「おれは、変なものを見た」

「ボクも……」

「……ここはどこだろう? 壁がある。えらく、狭っくるしい……」

「図書館です」


 現れた三つ目の声が、足音も無くこちらへ歩いてくる気配がする。今度こそは確実だ。

 手にしたランプの明かりが丸く空間を切り取り、なるほど、おれたちを囲んでいる壁は、うず高くそびえる本棚だと知れた。


「ここはフェルヴィン建国すら見届けてきた世界最古の図書館。あらゆる物語の終着点。『本の墓場』と呼ばれる場所……あなたたち、どうやってここに来たの? 」


 首をかしげると、頭の横に重たげに垂れた黒髪が傾いた。生意気そうな眼差しの金色はジジと同じ色をしている。

 少女魔人はインクで爪の間まで染まった手を、座り込んだジジへ向かって手を伸ばした。


「……あなた、見慣れない魔人ね? いったいどこの子? 皇子たちのお迎えかしら? それなら歓迎。あなたは魔法使い? そう。魔法使いならもっと大歓迎。さあ、おいでなさいな。お茶があるのよ。みんなお待ちだわ」


 ランプを掲げて先導する彼女は、ほんの三歩進んだところで、思い出したように足を止めて振り向いた。

「……ああ。そうだ。あたしはダッチェス。オバケじゃないから安心して」

 軽やかな少女魔人の足取りと、「どうしたの? 」とおれを振り返って尋ねるジジおれの魔法の姿に、おれは、いやがおうにも先ほどの奇妙な空間を思い出す。

 やがて暗闇の先から音楽が聴こえてきた。疎いおれでも知っている。タイトルは……そう、『王へ捧げる鎮魂歌レクイエム』。昔のフェルヴィン皇帝へ、その語り部が捧げた一曲だ。



 あの白鯨は、魔人と同じ金色の瞳をしていた。

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