11-1 白鯨
楕円の流線形シルエット。横腹から突き出たコウモリのようなぎざぎざの翼。尾びれのようにお尻に突き出た突起物。
飛鯨船とは、およそ三百六十年前に発明された、『混沌の夜』以降、二十に切り分けられた海層を繋ぐ『雲海』を渡航するための乗り物である。
『船』とついていても、ただの船のように海面を進むだけではない。
それぞれの海層の空にある、『雲の海』の真空世界も、さらにその先にある、次の海層の『深海』も、つつがなく浮上―――――あるいは、下降――――――することが可能という空・大気圏・水・深海に適合された多機能マシンなのである。
この多重海層に生きている限り、飛鯨船を取り上げられては、もはや人類はこれ以上の発展の道を断たれることとなるだろう。
飛鯨船には、大きく分けて三つのランクがある。
定員四名以下、10㎡以内までが小型。定員四名以上、十名以下で12.3㎡以内が中型。それ以上が大型となる。数度あった大戦で、軍事利用を目的として大きく発展した飛鯨船であるが、昨今は様々なものを運ぶ目的をして、人を運ぶに留まらない機体も多く開発されている。
日夜、世界中の技師が競うように研究が進める飛鯨船開発であるが、中でもケトー号は特別製である。
高さ3.5m、幅2.9m、長さ9,6m。突き出た二対の『ひれ』まで漆黒の機体に、腹に描かれた大きな藍色の瞳のペイント。これは邪気除けを意味する船乗り伝統のまじない紋様である。
小型飛鯨船に分類されるケトー号は、知るものが見れば二十年は遅れた旧型で、スタミナの無い身軽さだけが売りのロートルだ。しかしヒースに改造された『彼女』は、内部にこそ真価がある。
ケトー号の最大の特徴は、内部のその広さ、定員50名という大容量にある。
額にあるハッチを開けるとまず目に入るのが、落ち着いたブラウンの色彩の、三階建てぶんの吹き抜けだ。レモンを横に切ったような楕円の中に、真鍮の手すりがついたキャットウォークと呼ばれる廊下が張り付いており、それぞれの階はハンモックのような丈夫そうな網が梯子のかわりにかかっている。キャビンは二階と三階に分けて十部屋。一階には食堂を兼ねたホール、トイレ、リネン室などの水回り、食糧庫や、商品を入れる格納庫、ついでに操縦室と直結した船長室などがあるが、これは完全にヒースのプライベートルームである。
この空間を維持しているのは、『拡張』と『軽量化』の魔法。
『魔法使いの国』の技術のすいを注ぎこんだケトー号の腹の中身は、じゅうぶん生活の場が整えられた『動くアパート』だった。
もちろん、飛鯨船である以上、安全性のために、食堂に並ぶ椅子はどれもシートベルト付きで床に固定された重量感あるソファであるし、リネン室は使えるときのほうが少ないに違いない。水は貴重であるからして。
ヒース・クロックフォードの職業は、フリーの航海士である。『フリーの航海士』というだけでは正確な職務内容は想像の範疇を出ないだろうが、あえて定義するのなら、飛鯨船版の『雇われ運転手』といったところだ。
十四歳で国を飛び出し、とある商船で修業を積んだヒース・クロックフォードは、十七歳で航海士として独立し、ケトー号に乗って大海原へと飛び出した。
彼のおもな仕事は、航海士の手が足りない船に雇われ、かわりに目的地まで飛ばすことである。
海は様々。腕の立つ航海士は絶対数が少ないうえに、田舎では物資運送業務の緊急性が高いわりに船が来ないという矛盾した現実もある。
ヒースの相棒こそ小型船だが、大型船の操縦もできたので、『どんな船でも乗りこなせる天才航海士』として、この事業で若干十九歳ながらそれなりの成果を出して名を売っている。
そんなヒースでも、『魔の海』相手では、やりきる自信が無かった。
『魔の海を飛ぶのに、頭から尻尾まで必要なのは、ただ一つ経験ってやつだけなのさ。ネーロ』
ヒースを『
『魔の海はヒトを選ぶ。文字通り、
運も必要なんですね、と言った弟子に、バカァ言っちゃいけねェ! と師匠は片目を見開いた。
『運なんてモン信じちゃならねえぞ。あの海はとにかくイヤらしい。魔の海の踏破に必要なのは、どんな風にも対応できる応用力。つまり経験だ。いいか? チビのネーロ。あの海は五十年やってきた航海士でも堕ちるときゃ堕とされる。世界中、隅々まで、すべての空を飛んだと思って初めて、あの海は胸襟を開くんだ。間違っても飛ぼうとするんじゃあねえぞ。そンときゃア……それこそ運しか味方しねえ。そんな不義理は船にしちゃアいけねえ……』
その時ヒースは『ハイ』と頷いた。その時は確かに、心から師匠の言葉を胸に刻んで、みずからの船に誓ったのだ。
それなのに、まさかこんなことになるなんて。
ヒースは操縦桿から指の一本も剥がせなかった。
離陸し、雲海を突破してからこの調子だ。人差し指一本でも、数センチずらせば天地がひっくり返る自信がある。ガラス越しに見えるものは塗りこめたように真っ黒で、時おり、様々な色の紫電が血管のように奔って闇が脈打ち、乗客を怯えさせる。毛細血管の先でも触れてしまえば、この船はお陀仏だ。
―――――この海は生きている。
この船はいにしえの怪物の腹の中にいるのだと、ヒースは飲み込んだ。
同じ体勢を維持し続けて、首から背中、肩や腕もぱんぱんに張っている。血が下がりきって、爪先の感覚が無い。いつもなら片手間に飲み物を口に運ぶことも出来るのに、そんなことすらままならない。
(……経験が足りない僕には、もはや運しかない)
そう思ってはいても、ただ祈ることはしなかった。ヒースの頭から全身の筋肉が記憶をたどり、あらゆる経験を総動員する。
ヒースの縋る『運』とは、この土壇場での自身の成長であった。
糸口は見えている。針孔から見える先っぽでしかないが、これをうまく引き出せば、ずるずると今のヒースに必要なものたちが顔を出すかもしれない。
操縦室のドアを隔てた向こう、ベッドと小さなクローゼットだけの狭い船長室に、乗客たちは息をひそめて目的地へ着くことを祈っている。どんなに大きく船が揺れようとも、ヒースの集中を乱さないよう悲鳴ひとつ漏らさない。乗客の中には控えの航海士として連れて来たペロー中尉がいるが、とても操縦桿を任せる気にはならなかった。愛機の運命を預けるような航海は、進むにしろ落ちるにしろ、この航海はヒース自身の手で行うべきなのだ。
痙攣する船体をなだめながら、ヒースは舌先でちろりと唇を撫でた。
これは挑戦だ。
たった十九歳の航海士が挑むにはあまりに悪烈な海である。無謀だったと誰もが云うだろう。そして『愚かな若造がいたもんだ』と無責任にも悲しみを込めて首を振って、次の航海には忘れてしまう。
しかしヒースの感覚では違う。これは不可能な挑戦ではない。
―――――でも『もう少し』だけ、届かない。
つたない経験の中にある、砂粒のような正解を探している。時間さえ許されれば掴めるであろう感覚だ。それでも時間が許さない。ヒースは『今』、その正解が―――――打開までの一歩がほしい。
それが
(できないなんて僕は言わないし、お前にも言わせないぞ。なあ、相棒―――――! )
紫電が奔る。今まででいちばん大きい。直撃だ。避ける動作が間に合わない。
かちりと脳裏で音がする。闇の中で白く光る穴が見えた気がした。カチリカチリと何かがハマっていく。
ぴったりと隙間なく、あるべき場所へ、あるべき形へ。
『正解』がとつぜん、ヒースの目の前へと
全身になめらかに血が流れだす。指が導かれるように『正解』の動きをなぞり、目はすでに三手先の操作確認を行っている。脳幹がしびれ、鼓膜は勝手に音を遮断している。
万能感などない。
ただ、どこからか与えられた『正解』が体を動かしていた。
我に返ったとき、ヒースの目の前ではすべてが終わっていた。
細い風の音が聴こえてくる。『魔の海』は凪いでいた。暗闇はそのままに、驚くほど静かな風がケトー号を揺さぶっている。
「……僕ってすごい」
ヒースはしばし余韻に震えた。
同じことをやれと言われても、しばらくは御免だとため息をつく。この凪もいつまで保つか分からないが、とりあえず最初の壁は超えられたのだという達成感に酔う。モチベーションをたっぷりと蓄えなければ、こんな旅はやってられない。
ふと、凪いだ闇の向こうに、何かが見えた。
ヒースは操縦席からわずかに腰を上げる。ひらひらと白い風船のようなものが、爪先より小さく見えた気がした。
やがてそれは、気のせいでは片付けられない位置にまでやってくる。
ヒースは再び操縦桿を握りなおした。
こんな『海』を飛んでいるものなど、ろくなものではない。新たな脅威にそなえ、ジリジリとそれが視認できるまでの接近を待つ。進路を確認次第、回避行動だ。
―――――しかし、その警戒は無駄となった。
純白の巨体は滑らかな流線形をしている。魔の海の闇の中、それは明らかに目映く輝いていた。
ケトー号が停泊できそうなほど広い、ヒレとも翼ともつかないものが体の横に突き出て、優雅に海をかいている。
ケトー号とすれ違う際、そのつぶらな青い片目が、横切る黒鯨型の船を横目で見て
≪どうも。良い旅を≫
神秘の白鯨が、ケトー号から遠ざかっていく。尾びれから天の川のように光の粒でできた帯が敷かれていった。
「―――――なんだったんだ、アレ…………」
その後、ケトー号は大きなトラブルもなく、予定の航海より10倍も早く第十八海層へと到達した。
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