7-1 true blue 前編

 ヴェロニカ・アトラスは困惑していた。


 語り部ダイアナと、主人であるヴェロニカの精神は、糸のようなもので繋がっている。

 ヴェロニカにもうまく説明はできないが、イメージするのは透明な管である。やり取りをするのは、思考、感情。時には、口に出せない会話を楽しんだりすることもできる。

 それら心の動きの大半を、『語り部』は管を通して読み取り、記録する。もちろん執筆の材料にするためだ。


 ヴェロニカはずっと、このやり取りは一方的なものだと思っていた。

 主人のほうが語り部の動向を知ることができても、彼らの仕事に何の役にもたたないし、そもそも語り部はあまり自己主張をしないものだ。少なくともダイアナはそうだった。


 『管』からダイアナの大きな動揺が流れ込んできたとき、思わずヴェロニカは悲鳴をあげそうになった。身に覚えのない『恐怖』『悲哀』『悔恨』が、深い共感性をともなって、皇女の精神に注がれたのである。

 ダイアナに何かがあったのは、すぐに理解ができた。

 語り部は主が呼べばすぐに姿を現すものだ。だから語り部は、ずっと主人の近くにいるものだと思っていた。その認識が崩れたのは記憶に新しい。

 もしかしたら、語り部たちと繋がっているから近くにいるように思っていただけで、本来語り部というものは王城の地下にあるという大図書館『本の墓場』で、ひっそりと過ごしているのかもしれない。主のもとに現れる彼らは、『本の墓場』にいる彼らの影のようなものなのかもしれない。

 あの窓のない部屋に閉じ込められていた間に、ヴェロニカには語り部というものが分からなくなっていた。

 そして今、また彼女の常識を揺るがすことが起こっている。


 動揺の瞬間、胸の内で呼んだ声に、ダイアナは応え、ヴェロニカの影から姿を見せた。

 はたして彼女は、ヴェロニカの認識以上に狂乱していた。

 ヴェロニカは、泣き叫ぶどころか涙をこぼすダイアナすら、一度も見たことが無い。

 何か、彼女を大きく動揺させることが起こったのだ。語り部としての彼女の根底を揺るがすような何かが。

 そしてそれは、おそらく王城に立ち昇る青い炎と無関係ではない。


(……嗚呼っ―――――! どうして、どうして! こんなときにグウィンお兄様はいないの―――――ッ! )


 皇太子の不在。それも、今や生死の行方すら危うい。ダイアナがこんな調子では、確かめるすべもない。ヴェロニカにとって、年子の兄は、公務のことも家族のことも二人三脚で乗り越えてきた戦友だ。弟たちでも替えのきかないものを、互いに共有している。半身といってもいい。父を喪い、そのうえ兄まで喪えば、ヴェロニカは糸が切れた凧になるしかないだろう。


 さっきの地震はいつになく大きかった。ヴェロニカの混乱は止まらない。

(被害状況は? 消防機関の動きは? どうやって確かめる? 王城があんな状況なのに? 復興までの対応は誰に任せるの? 街の人々にどう説明できる? そもそも、こんな状況で、? )


 ヴェロニカには分かっていた。

 王城陥落には、手引きした者がいる。そしてそれは、王族一家に近い、国家中枢を担う誰かである。街の人々が何も知らずに祭の準備をしていたところからして、それは間違いない。

 ヴェロニカは誰も信用してはいけなかった。伝統ある語り部の在り方すら疑っていた。弟ですら疑っていた。

 そして父なき今、皇太子である兄を疑うことはできない。兄が犯人なら、この国は本当に終わりだから。

 あらゆる状況が、皇女ヴェロニカを追い詰める。

 国を支えている屋台骨に、ひびが入る音が聞こえてくるようだった。


 ――――――そして今、ヴェロニカ・アトラスは途方にくれている。


 ✡


(――――――いっそここで死んでしまいたい)

 本心かもしれなかったし、そうではないかもしれない。彼女自身にもわからない。けれど胸に僅かな安堵を覚えたのは事実だ。とりあえず、懸念だった市民たちのパニックは先送りになった――――――伝承通りなら。


「―――――あなた達。わたくしに詳しく説明なさい」

 皇女は考えることをやめた。

 顔を上げた彼女の眼には、乾いた殺意すら浮かんでいる。

 サリヴァンはただの通行人だと思っていた彼女から立ち昇る貴族的なものに気が付き、表情を変えた。


「≪『最後の審判』が始まった≫、と。そう言いましたね。この状況は、そのことで全て説明がつくのですか。打開策は。市民をもとに戻す方法は。知っていることを全てつまびらかに教えなさい」

「……あなた様はいったい」

「ヴェロニカ・ルカ・サーヴァンス・アトラス。アトラス皇帝の第二子。わたくしはこの国の皇女です」


 ✡


 サリヴァンは顔を覆いたくなった。

 たまたま居合わせ、たまたま石にならなかった通行人が、実は皇女様であった―――――。

 ―――――そんなことが果たしてあるのか? あるのである。

(……師匠。わが主よ。この采配は腹をくくれということか? )


「わたくしが尋ねることに答えなさい。嘘をつくことは赦しません。身分を明かし、協力なさい」


 燃え上がる皇女の瞳を前に、サリヴァンは偽る心も、持たなかった。

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