6-1 モニカ・アーレ
「お逃げください……」
モニカ・アーレの前にそれが現れたのは、
つまり、彼女が婚約者であるフェルヴィンの第一皇子、グウィン・アトラスと引き離されてから十日ということでもある。明後日は新年を祝う祭の日であり、グウィンとの婚姻を正式に公表する喜ばしい日になるはずだった。
モニカ・アーレとグウィン皇子の出会いは、遠く遥か上層、第5海層にある国『ゲブラー』の国立大学でのことだった。
グウィンは二十七歳の博士課程の学生、モニカは二十二の女子大生。大国であるゲブラーの国立大学、その図書館といえば、世界中の学問書を網羅せんとする大図書館だ。
司法科の二回生だったモニカは、土曜日の午後にだけアルバイトでそこに通っていた。
ゲブラーでも、語り部が記してきたフェルヴィン王家の伝記は、ひとつのジャンルの読み物としての地位を確立している。
『語り部』は脚色はしても、嘘は書かない。フェルヴィンは閉ざされた国ではあるが、ということはつまり、古代の神話や風習が、そのまま継承され続けている可能性があるということでもある。
娯楽としてだけではなく、風俗を知る一資料としても実に興味深く、多くの人々が魅了され続けてきた。
その図書館でも関連書籍が一角を占めており、モニカにとってこの最下層にある20海層フェルヴィン皇国は、幼いころから親しんだおとぎの国であった。堅実で平凡な未来を予想していたあの頃の自分が、今のこの映画のような状況を知ったら何て言うのだろう。
絨毯から染み出るように現れたのは、小柄なモニカよりも、もっと小さな人影だ。きっちりと着こんだ詰襟の黒衣。やや眠たげな金眼に、蝋のように白い肌。おとぎ話の中にいる魔人。
「貴方は……そう、確か、グウィンの弟の……」
「末のアルヴィン殿下付き語り部のミケにございます」
『語り部』。
田舎町の農場で育ったモニカには、『魔人』といえば、下層からやってくる労働用の自動人形のことだった。人のように話さないし、姿かたちも人間とはかけ離れていて、思考は単純。おつかいは出来ても、お店の人と世間話なんかできない。
しかしモニカは、グウィンと出会って本物の魔人というものを知った。
三千五百年前に製造された、思考し意志ある忠義の
✡
「私が城下へ誘導いたします。手配した飛鯨船に乗って、国外へお逃げ下さい」
ミケの言葉にモニカは動揺した。
「で、でも、グウィンは……! 」
魔人はその先を言わせない。
「――――貴方様はグウィン様の大切な御方!」
それは当たり前に大切な人のことを一心に考える人間そのものの必死さだ。
「……この国は、下層世界全てをのみ込むほどの
「下層がのみ込まれる……? 何が起きるっていうの?」
「選定です。神々と魔女が確約した、いずれ起こるという
「……それは物語、でしょう? 」
「我が主は、この王城地下に拘束されております。おそれながら、あなた様ならこの場で嘘が申せますのですか? 」
「……言えないわ」
子供の姿をした魔人は、大きな目でゆっくりと瞬きをし、慎ましい薄い唇から小さく息をついた。
「国の人々はどうするの」
「何も知らせるな、との皇帝陛下のご指示です。90万の人間を、明日までに移動させる手段はございません。いたずらに混乱を招くだけならば、民は何も気付かせないまま、審判を無事に終わらせることに注視せよとのおおせです」
「でも、私には逃げろと言うの。90万の人間を見捨てて」
「見捨てるなどとんでもございません。あなた様には大切なお役目がございます。グウィン殿下に選ばれたモニカ様にしかないお役目が! あなた様が生き延び、生き証人となってくだされば、それこそが我が国の希望の灯火の一つとなりましょう。お願いしたいこともございます。モニカ様には、この国で起こることを上層世界へ警告していただきたい。もし、神話で伝聞される通りなら……これから各地で、二十二人の『選ばれしもの』が現れるのです」
モニカはとっさに突っぱねた。
「選ばれし二十二人なんて、おとぎ話だわ。起こるはずがない」
「そう遠くないうちに、おとぎ話でないことが証明されますでしょう。しかし、そのときでは遅いのです。『皇帝』のさだめ持つ選ばれしものは、フェルヴィン皇帝が兼任いたします。皇太子であるグウィン殿下が御即位されれば、殿下はこの国のみならず、この世界の一端を担うこととなるのです。そのときグウィン様には、モニカ様の存在が必ず活力となるはず……いいえ、なります! それが人というものだと、わたしは深く理解しております! 」
「それこそグウィンを置いてわたしだけ逃げられない! 」
「わたしのアルヴィン様が命を
悲鳴のような声だった。
「アルヴィン様が『自分は死んでもいい』とおっしゃったのです! 誰も救われなかったなどと、そんな結末を、わたしは書けません! 」
泣き叫ぶようにミケは言った。
「……わかりました」
モニカは深く頷いた。
「ありがとうございます」
「私が信じるのはグウィンです。私、まだグウィンの妻ではないわ。でも、その覚悟があるからこのお城に来たつもり。皇太子の妻なんてだいそれた身分、身の丈にあわないことは十分理解してるし実感もない。私はただの小市民よ。でもあの優しい
そう口にしたのが、もうずっと前のことのようだった。
✡
城からの脱出は、早朝に決行された。城を知り尽くした魔人の導きにより、モニカは誰とも顔を合わさずに、地下の水道跡から簡単に抜け出すことができた。
昼前には指定された喫茶店で、ミケが言った通りの壮年の私服兵士が、まるで実の父親かのような態度でモニカを迎えに来た。
驚くほど城に近い店だったが、あの不気味な集団は、追いかけてはこなかった。
「これから別働で脱出したヴェロニカ様と合流いたします」
壮年の兵士が囁き、モニカは頷く。
グウィンの妹、義妹となるヴェロニカとの再会は、深夜をとっくに回った時刻になった。
「ちょっと! 何なのこれは! こんなのが自分の国の皇女にする扱いなの!? 」
「でも、こうでもしないと、お城に戻ろうとなさるんです……」
ぐったりとした若い兵士が、屈強な体を丸めて言う。厳めしい顔には疲労がにじみ、かわいそうなくらいだ。
けれど見過ごせるはずもない。毛布の上から、芋虫のように鎖で縛られた皇女は、猿轡を今にも噛み千切らんという有様だった。上層では一般的な程度に小柄なモニカとヴェロニカでは、大人と幼児ほども身長差があったし、年齢も皇女のほうが三つ年上だ。しかしモニカの眼に映る彼女はグウィンの妹で、物語のお姫様そのものの姿をしていた。
実に十一日ぶり、たおやかで溌溂とした美女であるヴェロニカの変貌と言っていい憔悴に、モニカは心を痛めた。猿轡のはずれたヴェロニカの口からは、あのミケという語り部の名前が出た。
「ミケは死んでしまったわ」
淡い水色の目から大粒の涙を流してヴェロニカは言った。
「語り部は誰かの運命を変えると死んでしまうのよ……」
「なぜ!? 私たちを助けたから死んでしまったっていうの!? 」
「魔人とは、意志ある魔法なの。魔法は、ルールに従うことを代償にして奇跡を起こすんですって。語り部に一番優先されるルールは、『傍観者であること』。それを代償にして起こす奇跡というのが、語り部自身の命なの。彼らはどんなことが起こっても傍観者であることを代償にして生きている。ミケはそのルールを自分で侵したわ。あの子はもういない。語り部を喪った弟も、王位継承資格を失った。語り部がいない弟の安否も、わたくしにはもう分からない」
「アルヴィン様は生きているかもしれないわ」
「お父様は殺されてしまったわ。ダイアナに聞いたの。お父様の語り部は、役目を終えて本棚に戻った。……つまり、主人が命を終えたということよ」
「グウィンは……」
「お兄様はまだ生きてる。そうでしょう、ダイアナ」
老女の姿をした語り部は、こっくりと頷いた。
「アルヴィン様を除いた殿下たちのお命は、語り部の存在の有無で確認が取れております」
淡々と事実を述べる語り部は、まるで故郷で見た魔人たちのようだった。
夜明けを待たずに、一行は一度街の外へ出た。移動は、もはや上層世界では前時代的になった馬車だった。
どこからでも見えるあの時計塔から逃げるように、外側から大きく迂回をして、商館や、外国からの貿易商人が逗留する宿が並んだ商業区へと足を踏み入れる。ヴェロニカはまだ、手足を縛られたままだ。
職人たちの朝は早いが、商人たちの夜は長い。祭の前夜ならばなおさらだ。いくつもの建物が灯りを消さない中、路地を抜けた先にあるその倉庫街は、シンと静まり返っていた。
「……飛鯨船を収めている格納庫です。あそこに我々が手配した航海士がいます」
「人がいるようには思えないけれど……」
「……用心を重ねてトーマが先行して様子を見てきますので、お二人はコナンとしばしお待ちください」
そう告げて、トーマと呼ばれた壮年の方の兵士が入口へと歩み寄っていく。そのときだった。
「ヴェロニカ様! 」
若い方の兵士が叫ぶ。
モニカは農場の娘である。闘牛用の牛が暴れて、鋼鉄の鎖から逃れたところを見たことがある。
そのとき、モニカは生まれて初めて、人間が純粋な腕力だけで鎖を引きちぎるのを見た。
盛大に弾け飛んだ、いくつもの鉄輪が降り注ぐ。
「ごめんなさい! わたくし、やっぱり何もせずに逃げられません! 」
「ヴェロニカ様ァアアッ! 」
ヴェロニカ皇女は美しい金の髪を振り乱し、一息で隣の倉庫へ続く塀を腕を使わずに飛び越えた。
あとから聞いた話だが。
ヴェロニカ・アトラスは、身の丈221㎝従軍経験もある皇太子グウィンと兄弟でただ一人、喧嘩で拮抗するのだそうだ。
混血が進んだフェルヴィン人の中でも珍しく、先祖の龍の血が濃く出たために、たいへんな怪力なのだという。それを活かして習得した護身用の武術は免許皆伝の腕で、国内には彼女に勝つことができる女性選手はいないのだという。
「ヴェロニカ様ァァァァアアアッッッ!!!」
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