3-3 ミケ

 

 その場に現れた四人の男は、まるで息を吹き返したように、背中を丸めて咳き込んでいる。懐かしいほどに見慣れた姿。

 息をしている。

 ――――生きている!


「――――兄さん! 父上……っ! 」


 踏み出そうとしたアルヴィンの腕を、ミケが強く引いて留めさせる。

 腕を鎖で拘束され、血の気が引いた顔は憔悴してはいたが、傷らしい傷は見当たらない。そのことに、まずアルヴィンは安堵した。

 フェルヴィン王家たちは、幼い末のアルヴィンを除いて、姉のヴェロニカですら全員しっかりとした体躯をしている。その中でも、野性の熊を思わせる体の大きな男が、最初に息を整えて顔を上げた。

 長兄・グウィンは常に整えられていた髪が乱れ、前髪が秀でた額の上にかかり、眼鏡もかけていない。髭が伸びた姿はずいぶん野性味を増してはいるものの、赤銅色の瞳の奥に湛えられた理知的な輝きは失われていなかった。


「こ、ここは……ア、アル……!? 」

「っおい! てめえ、その汚ねえ手を離せ! 」

 三兄のヒューゴが吠える。彼は四日前に見張りに歯向かって連れて行かれた。兄と違って若々しく見える童顔を茶色い無精ひげが覆い、疲れは見られたが、父や長兄に比べれば格段に元気そうだった。虚弱体質の次兄、ケヴィンは、なかなか息が整わないが、淡い金髪の隙間から、針のように油断のない視線があたりを観察している。


 問題は、誰より長く拘束されていたはずの父。

 皇帝・レイバーン・アトラスは、白髪が混じり、埃で汚れ、くすんでしまった金髪を顔の前に垂らしたまま、ぐったりとうつむいて膝をついている。裸足の足の裏は泥で汚れ、襟に垢が染み、レイバーンが過ごしたこの七日間は、息子たちとは比べ物にならないものだったに違いない。


「……どういうことだ」

 その、斬首刑を待つ囚人のように、首を垂れたままの皇帝が、おもむろに獣が唸るような声を発した。


「この身一つで、貴様らの目的は達せられたはず! 息子らに何をさせようというのだ……! 何を考えている! 」


 つねは凪いだ泉のように静かな父の激昂する姿を、アルヴィンは初めて目にした。

 アルヴィンは、父が性根から【王】であることを改めて認識した。その男は、折れぬ剣たるフェルヴィンの王であった。五人の息子娘たちの父であった。

 囚われの皇帝は、足枷の鎖を引き摺りながら立ち上がる。

 『魔術師』はじっと、人形のように立っていた。


「……立て。グウィン。この魔術師の前で膝を折ってはならない。ケヴィン、ヒューゴ、アルヴィン――――兄を守れ。グウィンが倒れたら、必ずや、次に引き継ぐのだ。絶やしてはならぬ! 」

 次兄ケヴィンが、いまだ整わない調子を押して顔を上げた。

「ゲホッ……陛下……!? 何を仰っているのです……! まるで、そんな……! 」

「ケヴィン、頭のいいお前なら分かるはず。時が来たのだ。始まってしまうのだ。我が一族は役割を果たさねばならん。我が国の名誉とお役目を、あの不埒者から守り抜くのだ! この国は堕ちた! 必ず選ばれる! 」

「今なのですか! 」ケヴィンは悲鳴のように叫んだ。「三千五百年! そのあいだに何も起こらなかったのに! よりにもよって今……私たちの世代なのですか! 」

 長兄グウィンが小さく唸った。顔は厳ついが、無口で優しい兄だ。しかし今の兄は、鞘から解き放たれた刃のように恐ろしい。そしてそれ以上に、憔悴しきっているはずの父の、尋常ではない眼孔の強さが恐ろしい。

「父上」

 長兄と父の、白刃のような視線が交差する。そこではアルヴィンには分からない『何か』が交わされた。

「……わたしはもう駄目だ。グウィン、はおまえだ」

「そうはさせませんよ。


 フードの下で『魔術師』が満面に笑みを浮かべたのがわかった。


「今夜、予言は果たされる……人類の選定が今、この夜、始まるのです。『皇帝』に座るのは、息子のほうではない。貴方だ。もう手遅れなのですよ、レイバーン。あなたは『最悪』で『最後』の『悲劇的な』皇帝として人類史に刻まれる……」

 魔術師が父にむかって、招くように腕を持ち上げた。

 魔術師が手のひらを下に向けると、広間に無数の青い炎が灯った。いくつもの青い火の玉は、儚げに揺れながら、おのおの縦に伸びて、人型の陽炎をつくりだす。

 最初、魔術師と皇帝以外は、その意味を理解できなかった。


「貴ッ様ァァァアアアア――――ッ! 」


 咆哮のような怒声を上げたのは、沈黙を保っていた長兄グウィンだった。ケヴィンが額を掻きむしり、三兄ヒューゴは青ざめて膝をついた。


 ――――見慣れた顔がある。

 皇帝一家が年月をともにしてきた城の住人たちが、青い陽炎となって、死の瞬間のままの姿でそこにいた。


「冥界の、青い炎……」


 アルヴィンの喉の奥から何かがせり上がる。唇を引き結んで飲み込み、アルヴィンは爪が食い込むほど拳を握った。

 少年の胸には決意がある。

 ついさきほど、死ぬ気で牢を出た。あのときとは違う決意が、あの浮島のような灯りのなかで、ミケと交わした決意がある。


 魔術師に向かって足を踏み出そうとした、そのとき。当の魔術師の顔が、アルヴィンを向いた。


 魔術師はフードの陰で、笑んだ。

「そう……次はあなたの番だ」


 魔術師がさっと手を上げる。その指先からが出て、隣を通り抜けたように感じた。

 風切り音に導かれるように首を回したアルヴィンの瞳に遅れて、右の二の腕に痛みが奔る。

 見開いた瞳に、起きたすべてのことが、つまびらかに晒される。


「アアアアア……―――――」

 電池の切れかけた玩具のようにアルヴィンの舌が震える。

「ミケェ―――――ッ! 」


 彼が視たのは、アルヴィンの二の腕を掴んでいた手首が、弧を描いて皇帝の足元へと落下するところだった。深緑のローブに包まれた矮躯が二つ折りに曲がりながら飛んでいく。

 両断され、二つに分かたれた断面から、血の代わりとなって黒い霞が溢れた。

 遅れて、鉄を叩いたような硬質な音が広間に響いた。アルヴィンは足を踏み出し、手枷のついた両腕を伸ばす―――――。


 目に映るすべてのものが緩慢になった。


 胴と足が分かたれたミケは、金色の瞳を見開いて、アルヴィンをまっすぐに見つめている。


 ぽっかりと開かれた口の中で、舌が何かを言わんと動いた。

 その口からも泥のような霞が吐き出される。

 代わりに、千切れた右腕が持ち上がって、アルヴィンに伸ばされた。

 深緑のローブが、アルヴィンの肌に触れた端から塵となって空気に溶けていく。

 魔法が解けていく。ミケを作っていたものが崩れて消えていく。

 鼻の先から黒い霞の中に顔を押し付けると、微かな肉体の名残りの抵抗と、古紙とインクと金臭さの混じった嗅ぎ慣れた体臭、その持ち主の囁くような最後の息吹が耳に触れた。ミケの解けかけた体にも、少年の肌の感触が、名残りのようにかすめる。





 



 あなたが泣くことを知っていた。


 最期にあなたの笑顔を見たかった。


 こんな顔をさせたことが、わたしの一番の罪だった。



 ああ―――――どうして神様。この子にこんな試練をお与えになるのですか。

 この涙がこの子の運命さだめだというのなら、わたしはその運命を否定したい。


 だってわたしは、どうしようもなくこの人を愛しているのだから。


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