3-2 ミケ

「……お連れいたしました」

 別人の皺がれた声で、ミケが扉の向こうに告げた。


 やがてひとりでにゆっくりと扉が開き、淡い明かりが、無数の帯になって広がる。

 明かりの奥は、扉の様相から想像できる通りのがらんどうの広間となっていた。

 アルヴィンは、こんな空間が王城にあったことに驚いた。空調機器なんてものを知らない石造りに、吐いた息が白む。


 もともと、フェルヴィンは険しく聳え立つ山岳地帯を開拓してできた鉱山の街だ。

 長い歴史のあいだ、どことも知れず無数の坑道跡がいくつもあり、落盤の危険が無い穴は、市民の住居として使用されていることもある。

 アルヴィンは知識として王城地下にもそれが届いているのは知っていた。そういった『忘れられた道』のいくつかは発見され、水道や、有事のときにだけ機能する避難路として整備されている。


 しかしこの空間は、隠すにはあまりにも広大すぎた。

 幾本もの柱に支えられた丸いアーチを描く天井は、アルヴィンが十人いても届きはしない。

 広間全体は、磨かれた白灰色の岩石でできている。

 煌々と明かりが焚かれていたが、しかしそれでも、かつての栄光より積年の闇が強く空間に残留していた。奥にある玉座のような台座に、裸で跪いて星図を描いた巨球を抱えた巨神アトラスの像がある。その頭上には一つきりの小さな天窓があり、夜闇らしき黒雲の空が透かし見えた。

 先ほどの食事は、朝食ではなく夕食だったのかもしれない。いつしか地下の牢獄で時間の感覚を失くしていたのだろう。

 いや……『失くすように仕向けられていた』のか。



 明かりの中で改めて、アルヴィンは語り部の顔を下から一瞥いちべつした。その、頭蓋骨に皮が張り付いたような、男かも女かも分からない死体のような顔は、一滴の涙も情の名残りもない。先ほどこれと涙を流したことが、目を開けて見た夢のように感じられる。

 人の気配を感じない。広間にいるのは、呼吸をしているのは、アルヴィンと姿を偽ったミケだけだと断言できる。


「ああ、お待ちしておりました」

 しかしその人物は、アルヴィンの目線の先に立っていた。

「お会いできて光栄です。アトランティス末裔の子。アルヴィン・アトラス皇子殿下」

 アルヴィンは思わずのけぞって後ろに半歩足を引いたが、改めて目を凝らすと、『それ』は、互いに手を伸ばしても届くはずがないところに立っていた。


 纏うのは広間に同化している白灰色のローブ。それは銀と黒の糸で縁取りと意匠を施された布を引きずって、持ち上げた指の先まで、同色の手袋に覆われている。

 鼻の下まで垂れ下がったフードの下で、『それ』が笑う気配がする。

 背面に伸びる長い影と白い床とのコントラスト、広間全体の高い天井と、その灰色に溶け込む肌を晒さない衣装のせいで遠近感が掴めず、ひどく大きいようにも、幼児ほどに小さいようにも感じた。

「アア……なんてこと……」

 広げた腕を緩慢に引き寄せ、胸の前で拳を握り、『それ』はうっとりとした声色で、身体を震わせる。


「その月の化身のごとき髪……瞳…………。『これ』ならば間違いない。あの御方も、これならばきっと求めに応じて下さる」


 押し込められるような静かな声だというのに、それは静寂によく響いた。

「とても良い……神々は時に、驚くべきことをなさります。わたしはとても嬉しい……そうとても! 」

 『それ』はもう一度「とても素晴らしい! 」と叫んで、アルヴィンに向かって、手を打ち叩いた。

 纏わりつく違和感が気味の悪さとなり、さらにそれが、恐怖になって、再びアルヴィンに忍び寄る。


「ねえ、ここは王城のどこだと思います? 」とうとつに、それはアルヴィンに問い、自分で解答した。

「墓場なんですよ」ローブの下の影が笑う。


「この講堂の正体は、王城の地下にある、アトラス王家のいにしえの墳墓。……とはいっても、アトランティス王国では火葬したあとの散骨が慣習だとか? なんでも、人は水から生まれて火に還るとか? 、今の人類は炉から取り出された土塊から創造されたとかで? ええ、なんとまあ。泥から生命が生まれるとは、なんとも馬鹿げた……いえ、口が過ぎました」

「アトランティス王国……? ここは今、フェルヴィン皇国だ。アトランティスは……そんなのは神話の時代の名前じゃあないか」

「ふむ。そういえば今は、フェルヴィンというのでしたか。まあいいでしょう。時代は変わる。しかし、すべての枝を辿れば根に集束するように、ここに遺骸が無い事実が君の不運。あればあなたの出番は無かったのですけれど。大切なのは、ここがアトラス王家の墓場だということです。ここはアトランティスの皇帝のためにある斎場さいば。儀式上の『墓』。肉体は火にくべられ、材料たる土に還り、魂はこの『場』にあるとして、人は祈る。祈るための……そういう名目の『墓場』。魂がここへと至るとのならば、わたしはここに立たねばならない……」

「おまえは何が目的だ? 」

「目的? そんなものは決まっている。準備ですとも。準備に決まっているじゃあありませんか。魔女との誓約。この世を創造した神々の試練を果たすがため、約束された世界改変を賭けた大戦! 」

 とうとつに狂乱した『それ』は、大きく腕を広げ、天を仰ぐと、裾を翻して広間の中心で踊るように回った。


「神々の試練に挑むのは、蘇りし『死者の王』―――――」


 『それ』はうたう。



「神の怒りに触れたアトラスの国アトランティス。地の底、タルタロスに沈んだ魔女の墳墓より、雲海を抜けた天空の神殿へ――――の今こそ、魔女と神々が交わした約定が果たされる! 」

 広大な広間に反響したそれが、アルヴィンの肌に凍みて粟立たせていく。

「それこそが! 我があるじへと捧げる王道への筋書きッ! 魔女の預言をくじき、天上の神々を地に落す、あの御方が歩むべき覇道を特等席で見届ける! それこそが涸れ果て摩耗したこの身の悲願――――――ッッッ! 」


 そのときだった。

 『それ』の言葉をさえぎるように、広間にいやな匂いのする大風が渦巻いた。

 灰色のローブがはためき、上がっていた腕が『興が覚めた』というようにパタリと落ちる。硫黄の臭気をまき散らし、床に積もった埃を舞い上げながら、新たな姿が渦巻く風の中から編まれる。

 その醜悪な巨体に、アルヴィンは畏れ慄いた。


「いつまで道化を続けるつもりだ。神官ピューティアよ」

 ―――――頭は馬に似ている。しかし、アルヴィンの知る馬とはかけ離れていた。

 巨躯にとまとわりつく硫黄の臭気のする黒いもや。脂光りするような黒い馬頭に、昆虫のような黒いだけの瞳と口を持ち、胴も、腕脚も、三股に分かたれた大木のような蛇身である。

 醜悪な赤黒いまだらのある鱗は、毒のある茸のようだ。腹は倦んだような黄色みを帯びていて、そこから鋭い棘のついた甲虫の肢が、無数に生えている。背中から床へ黒い皮膜が垂れ下がっているが、それはおそらく、翼のようだった。


「……まあ。出番はまだ先ですよ。アポリュオン様」

「不遜にも我が名を口にするか? 神官ふぜいが」『アポリュオン』は吐き捨てた。「いつまで待たせる? わが軍は腹ぺこだ! いつまで我が子たちにひもじい思いをさせねばならない? 」


 それはねっとりとした卑屈な声色で、アポリュオンに投げかけた。

「三千年待たれたのでしょう? あと二日ほどお待ちいただけませんか」

「不遜な! 」

「しかしあなた様は、もはや奈落の王ではありませんでしょう」

「貴様―――――」


 床に垂れ下がっていた黒い皮膜がバサリと広がった。

 息が止まるほどの硫黄の臭気がたちこめる。馬頭にある濁った黒い瞳が見開かれ、臼のような切れ目のある口が、がりがりと恐ろしい音を立てて鳴った。


「そしてわたしは、『神官ふぜい』などでもない」

 相対する『神官』は、何かを持ち上げるように差し出した腕をアポリュオンに向ける。

「あの御方の下僕といわれるのなら本望でございますが。よりにもよって、官などと―――――どちらが不遜なのか! 」


 ローブの腕が、持った何かを叩き落すように振り下ろされた。アポリュオンの白目のない瞳が、青紫に濁って『ぐしゃり』と皺が寄る。臼のような歯が、奇妙に歪んで、バグパイプを滅茶苦茶に吹き鳴らしたような断末魔が響いた。

 アルヴィンが目を逸らす暇もなく、見開かれた目に映ったのは、アポリュオンが捻じられながら、『圧縮』される姿だった。

 空間にまき散らされる水分に乗って、いままでにない硫黄の臭気と、はっきりと腐臭と取れる悪臭が混じり合い満たされる。

 『神官』が苛立つ様に肩を上下させ、袖をひるがえすと、あたりに立ち込めていたアポリュオンの名残りともいえる霞と臭気は、なにごともなかったように消え去った。


「わたしのことは、ぜひとも『魔術師』とお呼びください」


 おそらくそれは、アルヴィンに向かって言われたのだろう。しかしアルヴィンには、頷くほどの余裕もなかった。

 膨れ上がる恐怖の殻に穴をあけたのは、やはり、隣に立つミケの存在である。

 ローブの下、見慣れたミケの黄金の瞳。その視線だけが、アルヴィンを現実に引き上げる。考えろと言ってくる。


「いや、いや、わたしは誇り高きアトラスの民である、神々の末裔と、もっと語らいたいのです。しかし、そろそろ潮時というのも確か……」

 また音も無く、手袋の手を打ち鳴らして『それ』は宣言した。


「せっつかれたことですし、儀式を始めましょう。さあ、こちらへ。殿下」


 ミケが後ろから肩を柔らかく押す。温度の無い手。しかしミケの手だ。

「……時を待つのです」

 アルヴィンは項垂れるふりをして頷いた。

(……大丈夫。ぼくは必ず生き延びる――――)


 しかし、そのミケが言った。

『現実は物語のように脚色されない』と。



 両手を広げた『魔術師』を中心にして、溶けだした氷像の姿を逆再生したように、何もない床から『それら』は現れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る