3-1 ミケ
だから私は、その瞬間に、誓約を忘れることにした。
魔人とは、かの偉大なる魔女が発明した『意志ある魔法』である。
無機物を肉のかわりにし、呪文を魂のかわりにして、誓約を与えることで命が宿る。
フェルヴィン皇国のアトラス王家に仕える『語り部』は、かの魔女が創造した二十四枚の銅板から
我々は、そんなフェルヴィンの語り部である。
『我々は主の生誕の瞬間からこれらの文句を誓約とし、約定の証としてアトラスの民を記録するために文字を操る意志と、物語る腕と、見つめる瞳と、詩を紡ぐ舌を得た』
我々が魔女と交わした百八の誓約は、この文句から始まり、こう締められる。
『誓約を守れぬ語り部は語り部にあらず。語り部にあらざるものは、約定により一族の原初たる宇宙の一部となる』
この誓約により、我らはフェルヴィンの末までを見届けるのだ。
語り部の本分は陰である。
我々は物語の傍観者であらねばならない。
我々にとって、主となる彼らは、生涯の主人公。
傍観者たる語り部は、決して物語には浮上しない。
語り部は自己を描写しない。
主人公の運命に干渉してはならないからだ。
主人公の睫毛の影として、その瞳に映る世界を記録する装置でしかないのである。我々はその小さく微かな影から出てはならず、主が最期を迎えれば、睫毛の影を滑り落ちて、ただのインクとして、物語に……我らが主人の生そのものを、文字列として編み上げる。そしてピリオドを打つ。その生に意味を与えるために。
魔女が創ったのはそういう魔法。それだけの魔法。
それが誓約。誇りある役目。
物語の前に
主がこの世に産まれたその瞬間に、私は『私』として、この世界にまろび出た。
以降、本日までの十四年と九十八日間、瞬きも惜しんで彼を見つめてきた。
誓約は、我々にとっての血液だ。これによって、我々の存在は元始たる宇宙の法則から
もし誓約を破ればどうなるか。血液が流れ落ちて、肉体を維持できず、消えるしかない。
誓約では、たとえ目の前でアルヴィン様の首が刎ねられようとも、私はそれを黙って見ていることしかできない。
……でも、そんなの、耐えられるわけがないじゃあないか。
アルヴィン様が恐怖に身を捩ることも自分に許さなかったその時、私は、
私の胸に溢れるのは、アルヴィン・アトラスという、ただ一人のこと。
たった十四歳しか生きていない生命のこと。
私が十四年と九十八日、ずっと一緒にいた、たった一人しかいない貴方のこと。
だって、おかしいじゃあないか。十四歳が抱える悩みなんて、十年もすれば教訓になる。間違いで人は成長する。なのに貴方にだけ、その十年後が無いなんて。そんな悲しい覚悟を抱えて死ぬなんて。あの十四年が、悲劇で終わるなんて。
ジーンとコネリウスのようにならなくていい。先祖のような勇者でなくていい。
あなたの生の意味を、私はとっくに知っている。あなたが産まれたその日から知っている。
これが運命だというのなら。
悲劇の少年として死ぬことが、あなたに
それでも、それなら―――――わたしはあなたの運命を否定だってしてみせる!
―――――貴方がいなくなるくらいなら、ミケはなんだってできる!
✡
「お兄様たちは生きておられます」
かたわらを歩く見張りから掛けられた言葉に、彼ははっと顔を上げた。
床を踏む自分の爪先がようやく見えるほど、かすかな灯火しかない地下の回廊。
自分よりも頭一つ高い位置にある素顔は、ローブの奥の陰に沈んでいる。アルヴィンは先ほどまでの明るい牢獄で垣間見た、この人物の髑髏のように痩せた頸を確かに覚えていた。
その血の気のない薄い唇から紡がれたはずの声に耳を疑う。
それは確かに、誰よりも聴き慣れた、少年と少女の間のような声。
「……ミケ、か? 」
「もちろん。貴方様のミケでございますとも」
涼やかな声が笑いを含んで言う。
「今ならば誰が聞いているということもございません。よくぞ辛抱なさいました。ミケは誇らしゅうございます」
「おまえ……おまえ……。い、今までどこにいたんだよ」
「もちろん、貴方様のお側におりましたとも」
「じゃあ、なんで……っ」
アルヴィンは語尾を強くしかけ、荒ぶる感情を千切るように首を振った。
「ご命令をくださいませ。語り部は、命じられなければ動くことができません」
「そんなのわかってる! まず、そうだ。……兄上たちの行方はわかっているのか? 」
「語り部は繋がっております。おのずと情報は共有されるのです。語り部として、
「そうか。逃げるといっても、算段はどうなっている? 」
「このミケにお任せください。活路はございますれば」
「……語り部には誓約があるだろう」
自分で言ってすぐ、アルヴィンは顔を歪めた。嫌いなものの匂いを嗅いだ猫のような顔だった。
「おまえ……誓約を破るつもりではないか? ぼくのために」
「御心配にはおよびません」
闇に沈んだ口元が、明るい声で言った。
「語り部とは慎重であるものなのです、アルヴィン様。また大変不便なことはご推察のとおり。同胞共は慄きながら、それぞれの主人より御指示を待っております」
「お前たちに指示ができないような、危険な状況ということか!? 」
「いいえ。いいえ。アルヴィン様」ミケは指を立て、アルヴィンの口をふさいだ。
「わたしの言葉を今一度、思い出してくださいませ。お兄様はご無事です。ただ、深く眠っておられるだけとミケは推察いたします」
「嘘は無いな? 」
「もちろんでございます」
アルヴィンは柳眉をひそめた。
「……なあ、ミケ。あまり僕に喋りすぎるなよ。『誓約』に触れるぞ」
「いいえ、アルヴィン様。『舌の誓約 第五条』にはこうありますでしょう。『主の意志にみだりに口を開くべからず』……しかし、この『お喋りミケ』が、今まで罰せられたことがありましたでしょうか? 誓約とは、はたして何がどこまで禁忌に障るのか、それは我々にもハッキリしたことは分かりません。しかしこのミケ、語り部とは主の一の従僕であると心得ておりますので、貴方様に命じられさえすれば、私が掴んだ情報のひとつやふたつ―――――」
「誤魔化すな! 『舌の誓約 第二条』には、『語り部はあらゆる虚偽とごまかし、曖昧で誤解を招くような文言を禁ず』とある! おまえは嘘をついているな!? ぼくを騙せるつもりでいるのか? 語り部の誓約が甘いものではないのは知っているぞ! コネリウス皇子の語り部は、死にかけた皇子に水を運んだばかりに誓約に触れて死んだ! 語り部は主の運命を変えたら死んでしまう生き物なんだ! もっと慎重になってくれ! 」
「皇子。らしくない間違いをなさいましたね。我々は『生き物』ではありませんよ?」
悪戯が成功した子供そのものに笑う声が、囁くようにそう訂正する。
「我々は意志ある魔法……生命あるものではありません。魔法は解ければ、宇宙の法則に戻るだけ。それは死ではない」
「今さらぼくが……兄さんや姉さんが、お前たちをそんなふうに見ているわけがないだろう? 語り部を亡くした、
(……あぁ)ミケは笑顔の奥で嘆いた。
アルヴィン・アトラスは、
「―――――意志があるなら、それは命というんだ! 」
「貴方様なら、そのように仰ると思っておりました」
「主人を泣かせておいて、何が
「アルヴィン様、しばし、ミケにお付き合いくださいませ。これが最後なのです」
「最後なんて言うな! 」
「いいえ。いいえ。それは聞けません。よくお聞きください。大切なことです。ここは、王城の地下にある空間です。縦に連なる二十二の世界のうち最も深い、最も冥界に近い場所。ここでの一年は、外での半日にも百年にもなります。ひどく時間が曖昧なのです。少しならあの『死者の王』をも欺くことができましょう。さあ、一語一句ミケの言葉を逃さずに。いいですか」
真剣なミケの声が、すべての首尾を話し始め、アルヴィンはひとつひとつに頷きながら聞いていく。
(ああ、やはり、この方は賢い。ここまで追い詰められているのに、自分がパニックになってはいけないと分かっている。上に立つものの責任感。率いる立場の作法。すべて、ちゃんと分かっている)
「姉さんたちは、うまく逃げられるんだな」
「皇子の功績です! 皇子があそこで部屋を出たから、見張りが分散してうまく皇女を逃がすことが叶ったのです! 」
「そうか……よかった」
やがて一瞬の間が空き、言葉に迷うアルヴィンの肩に、やおら灯を床に置いたミケが手を置き、ふたりはしばしの時、闇に浮島のように浮かんだ灯火の中心で向かいあった。
「……アルヴィン様」
「……ききたくないなぁ」
「お願いです。きいて。これがきっと最後なのです」
「………」
「アルヴィン・アトラス様。わがあるじ。運命とはつかみ取るものではございません。向こうからやってくるものです。
歴史上、数々の英傑が、英傑たる者になったきっかけとは、運命という暴走車に正面衝突されたようなものでございます。そして、危機となれば救けの手がどこぞより降ってくる。
……ですから貴方は、この身勝手なミケに、勝手の『手』に救われて生き続ける運命なのです。
いいですか、私は今から、とても残酷なことをします。貴方は傷つくことでしょう。傷が癒えた後も、ふとした時にミケがいなくなって、困ることもあるでしょう。
貴方から見える現実は、物語のように脚色されません。数々の心無いものたちが、貴方の心を
しかしどんな困難も、これを乗り越えた先にいる貴方なら、何一つとして恐れることは無い。
アルヴィン様は類まれなるイケメンで、勇敢で優しく、頭がいい! アルヴィン様の語り部であることは、ミケの最大の誇りなのです」
「くそ……! くそっ! ぼくは、ぼくは――――」
「……まったく。子猫のようかと思えば、今度は猟師に耳を掴まれた兎のようですね。今こそ悪に抗い戦うべき時。勇者に涙は似合いません」
「……そんなのは、自分の目玉にも言え! 」
「おや……これは私に許された最後の褒美ですもの。……さあ、もうすぐです。行きましょう」
回廊が終わる。
アルヴィンの目の前には、見慣れぬ扉がある。
ミケが掲げた灯火で、ひととき粘的に闇が退き、神話の巨神が剣を持って立ち塞がる姿が浮かびあがる。荘厳であったのだろう、こんな煤けた地下には不釣り合いな、立派な鉄扉であった。
それを見て今さらながら、アルヴィンはこの場所を居城の中のどこかだと確信する。巨神アトラスは、フェルヴィン王家の始祖神であるからだ。
「……お連れいたしました」
別人の皺がれた声で、ミケが扉の向こうに告げた。
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