2-2 アルヴィン・アトラス

 

 夜。嫌な夢を見た。


 無人の学校をアルヴィンは歩いている。斜陽がさしこむ窓を避けるように、アルヴィンは見慣れた学舎を歩いていた。


(……図書館に行かなくちゃ)


 腕の中には、ずっしりと分厚い本が三冊もある。返却期限は二週間も先だったけれど、アルヴィンは早く次の物語に溺れたかった。足並みはしぜんと早くなる。


 このつらい日々から逃れることができるのは、寮の部屋にこもって、物語を読んでいるときだけだったから。


 ――――物語は、なんびとも差別しません。

 アルヴィンのつらい日々を見て、ミケがそう言ったから。



 この学校には、いろんな子供がやってくる。王族も、商人も、貴族も、外国人も。なにを学ぶかも、それぞれ違っている。共通しているのは、幼い彼らが、保護者の意志で学費を持たされてここに閉じ込められているということだ。その子供の意志ではない。


 アルヴィンにとって、この学び舎は、望まない競争を強要され、欺瞞ぎまん虚飾フィクションで身を固めることを推奨する、汚泥の沼のような場所であった。


 最初は同級生や勉強への期待があったが、皇子であるアルヴィンに近づいてくるのは、権力に鼻が利く生徒ばかりで、やがてアルヴィンが四男だと知ると、「たいしたことがない」などと勝手に言って去っていった。


 それでも、いくらか気軽に挨拶できる友達未満のようなクラスメイトはいたのだ。

 しかし、気付けばアルヴィンは孤立していた。図書館と教室と寮の往復の日々の中、決定的だったのは、ミケと話しているところを見られたことだった。



 自分の影と話す。その行為は、アルヴィンの故郷を知らない子供たちには奇異に映った。―――――アルヴィンが想定したより何倍も。




 すぐに誰とも会いたくないと思う日常になった。鏡越しの自分の視線すら煩わしい。

 悪意ある噂は、悪意ある人を呼び寄せた。暴流する頭の中を鎮められるのは、物語に触れているときだけだ。


 語り部であるミケは何もできない。アルヴィンが頼んだから、アルヴィンが部屋にひとりでいても姿を見せない。ときおり陰から手だけを伸ばして撫でてきたり、目覚めるともう一人ぶんの温もりがあったりする。


 勉強どころではなくなって、成績がどんどん落ち込んでいった。体調を悪くして、ベットから出られない日も多くなった。


 ある日、とつぜん頭の中がすっきりと静かな日がやってきたと思ったときがあった。


 沈黙しかない世界のなかで、本のページを繰る手だけが止まらない。閉じられたカーテンの向こうが、朝か夜かも気にならなかった。


 そうしていると、とつぜん『バツン』と弾けるような音がして、強い光に照らされた。そう、それは、この夢のような、黄昏の斜陽で。椅子から床に転がったアルヴィンの肩をかかとで踏みつけたその人物は、こう言ったのだ。



 ―――――……この、役立たず。



 ……ああ。

 もう僕を見ないで――――!






 おそらく六日目の朝が来た。


 ひどい悪夢が尾を引いて、脳幹の奥を締めあげている。

 いつか砕かれた右肩の骨は、もうすっかり治っているはずなのに、にぶく感覚がない。


 ドアが開くのは一日にきっかり三度。朝食を運んでくる深い緑色のローブの何者かは、必ず食事が終わるまで扉の脇に直立で張り付いている。


 ヴェロニカは、朝食が終われば、奴がアルヴィンを連れて行くことが分かっているので、小鳥が啄むように口に運ぶ。四日前、食事を突っ返して反抗したヒューゴ三兄が、引きずられるように連れて行かれたことは記憶に新しい。



 一口ごとに毒を飲むような顔で食事を進める姉を前にして、アルヴィンは食器を置いて立ち上がった。


「……アル」


 ヴェロニカが、優しく垂れた眦を釣り上げて弟を見る。いつもの弟たちを叱りつけるときの表情だったが、ひどく青ざめて、頬骨のラインが頭蓋そのものの形を思わせるほどに強張っている。白く握りしめられた手の中で、握った銀食器がぐにゃりと曲がったことにアルヴィンは仄かに笑う。本来の姉は、肉体的にも精神的にも兄弟でいちばん強靭な人間だ。


「姉上。ぼくに任せて座っていて」

 姉が見上げてくる。噛み締めた唇から血が滲んでいる。ぶるぶると体を震わせて、彼女は冷たく燃え上がる怒りの衝動に耐えていた。


 王族は、しかるべき時に死ぬことも役目であると知っている。


 もしかしたら……最悪のことを考えるのなら……皇女である姉は、生き残らなければならない。父も兄もいないかもしれない今、もしもがあるなら幼い末皇子よりも、三十年、国家に尽くす一族として、素養を磨き続けた皇女が生き残るほうが混乱も少ない。



 いや、とアルヴィンはそれらをすべて、自分で否定する。


 違う。自分には、そんな崇高な思惑は無い。自分はただ、アルヴィン・アトラスという存在が煩わしいだけだ。



 長男、グウィンは熊のような大男。二十三まで従軍し、世界有数のゲプラー大学に留学し、博士号を取った文武両道のひとである。


 長女、ヴェロニカもまた武道を究め、地質学で十分すぎる成績を取った。


 次男ケヴィンは体が弱いが数学に造詣が深く、その実力は皆が認めるところである。


 三男ヒューゴも粗野なふるまいで軽く見られるが、天才肌の男で、独学でやっていた彫刻や絵画で評価されている一方、スポーツ万能としても知られ、顔の広さでは兄弟一だ。


 ここ二十年の下層世界では、それなりの家庭の子息なら、他国への留学が当たり前になっている。


 アルヴィンもまたその一人であり、兄弟で初めて発生した落第者だった。


 フェルヴィン人の多くは、先祖に多くの民族が混ざった結果、背が高く耳が長く色白で端正な顔立ちで、しかし決して虚弱ではない。見た目以上に頑強で生命力が強く、少しだけ長生きだ。

 それは、先祖に交じる獣人や巨人、あるいは、上層世界にある国『コクマー』に今もいるという龍人の血がそうさせる。アルヴィンの四人の兄姉も例外ではない。しかしアルヴィンだけが、父の胸の高さにも届かない。


 ――――そう、例外はアルヴィンだけなのだ。

 つい三か月前、一年ともたずに留学先から逃げ帰ったアルヴィンに、兄や姉は優しかった。




(でも僕は、父の期待には応えられなかった……)

 祖父のように年の離れた父レイバーンは、何も言わなかった。事情を尋ねるでもなく、優しく慰めるでもなく、叱咤するでもない。

 当たり前だ。ほとんど会話などしていないのだから。


 百年に一度ほどの頻度で、フェルヴィン王家には『先祖返り』と呼ばれるものが産まれるという。体が小さくて、とくべつ虚弱だとかいうことは無いというのに、短命で終わる。


 アルヴィンの前は、かの前皇帝であるジーン・アトラスだったが、彼には卓越した勇気と才能があり、半世紀にも届かない半分以下の人生で、世界に名を遺す英霊になった。


 アルヴィンは、父が言葉少なに留学を勧めてきたとき、初めて父に与えられたチャンスだと思ったのだ。

 あのゲルヴィン火山が吐き出す煙のように、天を衝くほどの意欲がわき上がってきたのを感じた。


 それが半年ほどで消費しつくされ、枯れた意欲は負債となり、自分の中のいろいろな感情を削った挙句、アルヴィンは赤ん坊のように泣いて帰った。


 父はさぞ落胆したことだろう。兄姉だって、やがて離れていくかもしれない。そんなことはありえないと自分で否定してみても、疑惑の声は同じところから湧き出てくる。



『ほんとうに? 』『まだ一度。でも失敗は何度まで許されるかな? 』



 もしかしたら父は、期待からではなく、そもそもアルヴィンが疎ましいから遠ざけようと留学の話を持ってきたのかもしれない。

 アルヴィンは兄弟で一人だけ母親が違う。面差しは姉に似ていると言われるが、もっと似ている人がいるのも知っている。


 アルヴィンは、若かりし頃のジーン・アトラスに似ているのだ。


 前皇帝は、フェルヴィンに多大な貢献をした。ジーンが夭折したのち、皇帝となったレイバーンの苦労は計り知れない。堅物の現皇帝が、破天荒だった前皇帝を疎むのもおかしいことではない。父は、きっとこの貌が嫌いなのだろう。同じ貌をしているくせに、たいして役にも立たないから、余計に疎ましいのだ。



 ああ、それなら、顔を合わせる気が無いのも辻褄が合う。

 アルヴィンの精神にのみを入れたのは、十ヶ月の異国生活ではない。その後、ほんの一瞬、廊下ですれ違った時に向けられた、実の父の眼差しだった。



 だからアルヴィンは、自分から扉をくぐることにした。

 そう、自分は幼いから……蓄えた力がこんなにも小さいから……役立たずだから……。

 だからせめて、自分の足で、扉を開けることにした。



 アルヴィンの思う英雄には程遠い行いだけれど、きっとミケは素晴らしい伝記を書き上げる。これが後の世で称賛を浴びる行為になることを夢想して、立ち上がった。


(この苦しみを利用しよう)

 アルヴィンは薄く笑う。笑うことができた。

(今の僕が役立てる最善。兄さんたちを生かすためなら、どんなに情けない命乞いだってできる。今以上の屈辱は無いんだから……)


 傍らに並んだ見張りの、蝋細工のように冷たい骨ばった手が、アルヴィンの両手首に触れて真鍮の手錠をかけた。







 だから私は、その瞬間に、誓約を忘れることにした。

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