終焉

15-1 物語 944年5月(23歳)

 九四一年の十一月頃にソレイユは死んでいた。僕がそれを知ったのは、翌年の十二月。一年以上も知らずに、のんきに夢を見ていたわけだ。もし、僕たちの間に特別な絆があったのなら、君の死を感じ取ることが出来たのかもしれないのに。


 ほら、靴紐が切れたり、皿が割れたりするだろ。あとは嫌な予感がするとか、夢で知らせがあるとか。でも僕にはなかった。気づかなかった。それは僕たちの間には特別な絆がなかったことを示すのだろうか。


 それとも、君が言った新しいソレイユとの間には、僕は何のつながりも結べていなかったと理解すべきか。君には夫がいたようだね。きっといい人なんだろう。嫉妬しないかと言えば、嘘になる。本当は気が狂いそうだ。


 でも、考えないようにしている。別の物語なのだと思う。僕とソレイユの物語には、別の結末が待っているはずだ。


 ふと考えることがある。君は実在しなかったんじゃないかって。もちろん、ソレイユ・ハーゼンズという女性はシレーナの町にいた。でも僕が知っている君は? もしかしたら、すべて僕が作り出した虚像のソレイユで、ただひとりで空想に耽っていたんじゃないだろうか。


 この考えは、あまりに現実的に思えてくる。前に教会のバザーで見かけた君は、まるで別人だった。あのソレイユが本物で、あとは僕が描き出した姿だったのかと、本気で疑う。でも、ハンナは君と僕を知っているはずだし、手紙のやり取りもした。ロンイルまで一緒に行ったのは僕で、今、手元に戻ってきたナイフもある。


 本当にソレイユは僕といたはずだと確かめようとする気持ちがある中で、でも、どこかで空想であったとしても、それの何が問題なんだろうという気もする。大切なのは、君といて幸せだったということだけじゃないだろうか。


 暗く沈んだ僕の人生において、君だけが幸福の中にある。ソレイユを思い出すとき浮かぶのは、太陽を浴び、光り輝きながら僕に微笑んでくれる姿だ。ソレイユは僕を忘れてしまったように、まっすぐに走って行く。それからくるりと振り返って、僕を呼んでくれるのだ。


 手招きする君のもとまで駆けて行って、そのまま空へ抱き上げる。のしかかってくるような濃い青空を背にしたソレイユが声を上げて笑うから、いつしか君しか見えなくなって、まぶしいその笑顔に目がくらみそうになるけれど、ちゃんと見ていたくて、僕は瞬きのあと、君の瞳をのぞきこむんだ。


 あの日、ひまわりを見た帰り道、僕は君を背負って歩いた。夕暮れが迫って来ていて、ソレイユは足が痛いのか、サンダルが地面にこすれる音がした。


「おぶってあげよっか」

 僕の言葉に、ソレイユは不機嫌な顔をする。

「いい。歩けるもん」


 ぱたぱたっと僕より前に出るソレイユ。それを追い越してしゃがみ、後ろ手を振って、「乗って」と合図した。少しだけの間があったあとに、背にぴたりと触れる身体を感じた。僕は立ち上がるときに、若干よろめいてしまった。


「なに、重いっての」

「うん、重い」


 ばしっと頭を叩かれる。


「こういうときは、軽いって言いなさいよ。ううん、軽いよって」

「でも重いほうがいいよ」


 まだ言うか、と怒る君に、僕は笑う。


「軽いなんて実体がないみたいじゃないか。風船みたいに空に飛んでいきそうでいやだな。ちゃんといてくれなくちゃ」


 僕は背を揺らして、ソレイユを動かした。肩に乗っていただけの腕が首に回ってきて、僕を抱きしめる。耳元に息遣いを感じた。そっとだけ顔を動かして、右頬で腕に触れる。上目遣いで見た空は、木々の隙間からこちらを見下ろしていた。


「なんだか眠くなってきた」


 ソレイユが囁く。首にかかる息がくすぐったい。首をひねって彼女を見ようとしたけれど、目の端に髪の毛が見えただけだった。


「たくさん歩いたもんな」

「うん、歩いた」


 眠たげな声に微笑んでしまう。


「あなたは疲れてないの?」

「ちょっとは疲れた」暗くなる前に帰ろう。星が見える前に。

「もし、寝ながら歩いてたら、叩いて起こしてよ」


 むにっと頬をつままれた。


「つねってあげる。ほら、歩いて、歩いて」


 見上げた空はまだ青かった。でも雲の端が陽に染まりつつある。しばらく無言でいて、もしかしたらソレイユは眠ってしまったんだろうかと思ったときに、声が耳に響いた。微かな、消え入りそうな声で。


「あなたって、瞳が黒いじゃない。でも太陽といると、ちょっとだけ青くなるときがあるの。知ってた?」


「ううん」

「誰にも言われたことない?」

「ない」


 そっか、と嬉しそうな声。すりっと後頭部に頬ずりされたような気配がした。


「じゃあ、秘密ね。私だけが知ってるの」

 青くなるんだよ。ずっと見てると、青く光るんだよ。

「太陽といると?」

「うん、太陽といると」


 本当だろうか。自分では見えない。鏡の中の瞳は、いつも暗く沈んで見える。でも、ソレイユといると違うのかもしれない。君に照らされて、変わるんだろう。


 もしも。


 君が病気じゃなかったら。

 病気になったとしても、ドラゴン病じゃなかったら。

 ドラゴン病だったとしても、隔離されることがなかったら。

 隔離されても、ずっと近くに居たら。


 もしも。


 治療薬がもっと早くに開発されていれば。

 戦争がなかったら。

 僕の家族が生きていたら。

 叔父が住んでいるのがシレーナではなかったなら。


 僕らが出会わずにいたら。

 違う時代に生まれていたら。


 そんな〈もしも〉が薄いベールになって何重にも僕を覆いつくしている。それは軽いようでいて、重くまとわりついて離れない。やがて身動きが取れなくなって、呼吸もできなくなるんだ。苦しくて、怖い。でも、これらの事実を積み重ねてきたから、今の僕がある。


 家族を失い、シレーナの町へ行った。

 そこでソレイユに会った。

 二人で遊んだ。ずっと一緒にいようと誓った。


 宝物を埋めた。

 もう目の前に一番大切なものがあったから。


 恋をして、愛してもらえた。


 でも、


 病気になって、僕たちは離れた。

 

 悔しくて、寂しくて、運命を呪った。


 君を想って、泣いた。

 恋しさに震え、悪夢に怯えた。


 希望を見つけて、笑った。

 遅れて知った現実に、打ちのめされた。


 最後、僕はひとりになった。


 ソレイユと僕の物語。それがどれほど惨めで情けなく、苦々しいものでも、〈今〉は〈もしも〉の中にはない。これが二人で紡いだ、物語なんだ。

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