14-5 約束 942年12月(22歳)

 十二月、僕は何度目かの熱病で寝込み、やっと意識が回復したばかりだった。足腰は弱り、肩と右耳を痛めていた。スンダランドは乾季になり、夜は寒いほどだ。病室ではベッドが足らず、廊下にもごろ寝した兵士がたくさんいて、身を寄せ合うようにして寝ている。


 内地から送られてきた従軍看護師もいて、王国民の女性の姿もあった。けれど、誰もが痩せ衰え、嘆かわしい姿をしていた。ソレイユは看護の勉強をするのだと言っていた。戦地にも行くかも知れないと。そうならずにすんでよかったと思った。戦地で会えるのは嬉しいかも知れないが、こんな痛ましい姿は見たくない。


 王国では空襲を受けた街があったと聞いた。まだ数か所ほどで、軍需施設がある箇所ばかりだと聞いたが、シレーナの隣街には戦艦製造所がある。ハンナ達のことが心配になるが、ソレイユがいるロンイルは孤島であり、軍の施設とは関係のない内海にある島なので、空襲の恐れはない。


 何もかも順調に運んでいると錯覚していた。僕は好物を最後にとっておいて楽しみを引き延ばしている心持ちになっていた。


 ソレイユは無事だ。ユートピアじゃないんだという、脱走者の言葉は都合のいいように頭の隅に追いやり、戦争が終結したら彼女を迎えに行こうと思っていた。治療薬がもたらした希望が、あまりにも刺激的で様々な不安を消していた。


 僕は人生の底辺から抜け出したのだと思っていた。あとは浮上するだけ。数年、戦争が終わるまで耐えればいい。耐えさえすれば、生きのびさえすれば、ソレイユに会える。幸せだった。そう思っている日々は幸福に満ちていた。


 彼を見つけたのは、そんな希望の中にいるときだった。僕は病院の廊下で歩行訓練をしていた。まだめまいがしたが、筋力を早く回復させなければならなかった。床には兵士たちが転がっていて邪魔だったが、その間を縫うようにして歩き、見知った顔がないかと確認しながらの歩行だった。


 がちゃがちゃという音で下ばかり見ていた視線をあげた。やつれた顔をした中年の男が立っていた。どこかぼんやりとした、ここでない遠くを見ているような目をしていて、周りに比べて小綺麗な軍服は持て余し気味だ。腰にある刀が玩具のように見える。


 古参下士官も帯刀を許されているが、男の軍服は立派な仕立てで、肩に勲章が並んでいるところを見ると、より上級士官なのだろう。ただ本人は風格のない、年老いたロバを連想させ、不釣り合いな壮麗さが滑稽だった。


 僕は目が離せなくなり、不躾だと分かっていたのだが、足を止めてしばらく男を観察した。最初に気づいたのは、相手の方だった。僕は声を聞き、にこやかな表情を向けられるまで、全く誰であるか分かっていなかった。


「ああ、君。君はシレーナの」

 男はそう言うと、転がる兵士たちに足を取られながらも、僕に近づいた。

「ルギウスだったね、そういう名前だった。叔父さんと暮らしていた」


「ソレイユの……」僕は言いよどんで顔をふせた。

「うん、そうだ。そうだよ」


 ソレイユの父親だった。ずいぶん印象が変わっていた。大柄な人物だと思っていたのに、僕よりも小さく、ぐっと縮んでしまって見えた。彼は涙ぐみながら、僕との再会を喜んでくれた。僕の右手を両手で包むと、親しげに何度も上下に振り、離すと腕をぽんぽんと軽く叩いた。


「立派だ。立派な兵士だね、君は」


 足元の兵士たちが興味深げに顔をあげているので、僕は彼を誘導して人の少ない場所まで連れて行った。やや引きずりながらの歩行に、相手が気づかわしげな顔をしたので、僕は、「長く寝込んでしまって。悪いわけじゃないんですよ」と言って、丈夫なところを見せようと笑った。


「熱病にばかりかかってるんですよ。水が合わないのか、体調を崩しがちで。まともな戦闘に参加したことがないくらいでして」


「ああ、わたしも内地勤務が長くてね。やっとここまで着いたばかりなんだ」


 暑いね、とさも当然なことを今知ったみたいに言うものだから、僕は笑い、相手も茶目っ気のある表情で、目を見開いた。と、そこにひまわりを見つけた。ああ、父親譲りだったか、と僕は思い、目をそらしてから再度、また確かめた。窓から差し込む光の加減で、見えづらかったかと思えば、とたんに現れたりしたが、花開くような瞳の虹彩が、ソレイユと同じだ。


 治療薬。ふっと湧いた希望を僕は口にしようとした。喜びに満ちた声で、相手と幸福を分かち合おうと。でも、先に口を開いたのは彼だった。


「まさか会えるとは。嬉しいよ、ソレイユが引き合わせてくれたに違いない」

 微笑んだ、と思った瞬間に、相手の表情が崩れた。

「よかった。きっとこれを渡すようにってことなんだろうね」


 仰々しい軍服をめくり、内ポケットからナイフを取り出した。僕はひやりとした。あまりに見覚えがあるナイフだったから。


「これは、君のだろう。名前が」柄の部分を僕に見せる。

「ほら、ここに名前がある。ソレイユが持っていたよ」


 どうしてあの子が持っていたのか分からないんだけど。耳には聞こえた言葉。でも脳内に届く前に雲散した。兄の形見のナイフ。宝物のナイフ。勇者の剣だと思い込み、形見離さず持っていたナイフ。ソレイユと共に、秘密基地で埋めたナイフ。約束の日まで……、そうか。


「二十二歳になったら……」


 僕は渡されたナイフを手にしながらつぶやいた。彼女の声が聞こえたような気がした。あとを追い、姿も思い出される。


 ソレイユは秘密基地にいた。宝物のぬいぐるみを抱きしめる。僕はそれに嫉妬した。大切そうにするから。あの愛情ある眼差しを自分にも向けて欲しいと思った。


 約束した。必ず二人でここへ来て、埋めた宝物を掘り出そう。僕の態度に不安になった君は、怒った顔をして両手を突き出した。指を立てる。五と三の指。可愛らしい指。あと八年よ。八年と半年後。


「どうして」ここにあるんだ。僕は約束を守った。いや、「十年後は今なんだ」


 僕の言葉に、ソレイユの父親は不思議そうな顔をしたが、ゆっくり納得したというようにうなずいた。

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