13-4 ユートピア

 男の口から溢れ出る言葉の数々に、僕は圧倒され脳が痺れたようになった。よどみなく流れる音の中に、時々引っかかる言葉があって、それが僕の記憶を刺激した。消毒。その言葉で鮮やかにある場面が浮かんだ。


 海が臨める丘の上。白い洒落た雰囲気の木材建築はまるで高級別荘宅のようだった。看護人が玄関前にいて、僕に言ったのだ。


「これも消毒するんですよ」


 トランクを手にして――ソレイユのトランクを指して、そう言っていた。これも、ということはどういうことだろう。男の言葉が聞こえる。風呂に入れられた。白濁した湯に。あの日、ソレイユに会いたがると「今日は忙しい」と言っていた。入所の手続きで忙しいのだと。


 あの日、あの時に、一体何が起こっていたのだろう。


「ソレイユは……、彼女は知りませんか」

 僕は言った。ぼんやり記憶に意識を持っていかれながらだった。

「二年ほど前なら……、どうでしょう。もしかしたら……?」


 会ったことがあるのでは。僕の問いに、男はやや間をとってから答えた。


「名前はそう重要じゃない。変える場合があるからな。親族に迷惑がかかるとかで。医者たちは把握してるだろうが、俺たちの間じゃ、偽名なことがある」


「迷惑?」


「死んだことにするんだよ。親族にドラゴンがいたんじゃ、たまらんだろ。いないことになるんだよ。たとえ島で死んだとしても、そのままさ。誰も骨を取りになんかこねぇよ。手紙も出さない。縁を切るんだ。知らないのか?」


 知らない。僕は何も知らないんだ。


「ソレイユは……、僕と同い年です。背が高くて――」


 髪は焦げ茶色。陽に当たると琥珀色に見える。瞳は黒に見えるけど、覗いてみると光彩がひまわりのように広がっている。きれいな人。元気で、好奇心が強くて、自由な人。僕の大切な人。


「悪ぃけど、容姿を言われても参考にはならんよ。変わっちまうからな」


 髪は抜け、瞳は白濁し、やがて手足は――


「そんな、まだ症状は軽いんです。足です、右足に麻痺がある程度です」


 眉、そうだ。片眉が抜けていたっけ。首にも赤いあざが広がって――


「まだ変わってないはずです。そう、そうだ。パルって施設だったかな、新しく来た患者の世話をしているって、そんな手紙をもらいました。子供の世話もしてるって。僕、何度か手紙を出してるんです。封筒に押し花も入れて」


 僕はけらけらと笑ってしまった。


「島に駐留してたときに。変わった花なんかを集めてたんです」


 彼女は喜んでいた。絵も送った。それからスケッチが届いた。


「この間まで、やりとりがあったんですよ。手紙をもらったばかりで」

 ちらりとよぎった炎と意地悪な笑み。僕は記憶を打ち消した。

「まだ元気なはずです。楽しそうでした。充実した生活を――」


「そんなわけないだろう」


 低い声だった。どちらかと言えば、のんびりした口調で疲れたように言われた言葉だった。でもぴしゃりと頬を叩かれたような気がした。


「あんたが病者相手でも嫌がらずに接してることは分かった。立派だと思うぜ。もし俺が違う立場だったら関わろうとなんざしねぇと思う。だから、あんたに偉そうなことは言えねぇのかもな」


 でも、あそこを知ってる俺だから言えることもある。


「あの島がユートピアだと思ってんなら、間違いだ。あそこは監獄だ。収容所だ。ドラゴン病者が、世間の迫害から逃れて、楽しく暮らしてるなんて幻想があるんなら、目を覚ませ。そんなわけねぇだろ」


 とん、と肩を叩かれて、はっとした。記憶と現在が混ざり合って、くらくらしていた。男はまた、「ユートピアなんて存在しないんだよ」と言った。僕はぞっとして、それからあの白塗りの木造建築――療養所の姿が目に浮かんで、視界を塞がれた。あの場所にソレイユがいる。いる。あの島に、いる。


 船から見た島の煙突が脳内を占拠した。煙が出ている。もくもく。黒い煙。もくもく。ふとソレイユを思い出した。荷馬車の後ろに乗って、足をぶらぶらさせている。「見て」と言った。指さす方向を見ると案山子がいた。今日も暑い日になりそうだ。霜が溶けて、蒸気が湯気のように空へと昇っていく。


「……、蒸気なんて出るかな」

 僕は言った。男は不思議そうな目でこちらを見ている。

「寒い日に晴れるでしょう。そうしたら凍っていた地面が溶けて、蒸気が湧くような気がしたんですけど、見間違いでしたかね」


 こっちはずっと南国でしょう。寒くないから忘れてしまいましたよ。


 僕はにこやかに笑ったのに、相手は少しも笑ってくれなかった。愛想のない男だ。きっと脱走兵に違いない。

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