9-8 憶えてる

 首の赤いあざ以外に、ソレイユの体に病の印はどこにもなかった。白く滑らかな肌が額から足先までずっと続いていて、僕の跡で汚れたくらいだ。右足のふくらはぎはどうやってもダメだったけれど、他に麻痺した部分は見つからない。歯を当てたら嫌がるので舐めてみたけれど、もっと嫌がって小さく丸まってしまった。


 顔をシーツに押し付けていて、広がった髪で表情が分からない。口でさぐって見つけた耳に甘噛みしたら手でふさがれてしまった。背骨に沿って指を這わせると唸り声があがる。


「やめる?」

「―――――」


 何か言っているのだが、くぐもっていて言葉が聞き取れない。腰を掴んで軽く持ち上げ、あごの下に手を入れると顔をこちらに向かせた。


「嫌だ?」訊くと目をぎゅっと閉じて微かに答えた。

「恥ずかしいだけ」


 それから顔を両手で覆って隠してしまった。


「見て欲しいけど、見て欲しくない」

「見てる、見てる」


 腰骨を軽く叩くと身じろぎして足が伸びたけれど、膝で腹を蹴られそうになった。両足で挟み込んだらのどに頭突きされそうになる。どうしたらいいのやら。


「見ないで」と怒ったかと思えば、「でも忘れないで」と言って腕が伸びた。

「うん。忘れない」両腕に絡めとられながら幸せを感じた。儚い幸福。掴んだ端から溶けていく幸せ。僕には何が残るのだろう。



「憶えてる?」

 ソレイユが言った。

「ん?」


 部屋の中でも吐く息は白く煙った。でも寒さは感じなかった。ソレイユが暖かで心地よかった。それでも彼女が寒いかもしれないと毛布を被って足先も全部外に出ないようにして抱きしめた。


「蛍を見たこと。一度だけ、夜に窓から抜け出して森へ行ったことがあるでしょ。何歳だったかな、まだあなたと背丈がそう違わなかった頃よ。貸してくれた上着がぴったりだったもの」


「僕には少し小さかったんだよ」とちょっと見栄を張る。

「十歳とか、それくらいかな。君がずいぶんお姫様みたいな恰好をしていてさ」

「着せられてたの。あれでもパジャマだったのよ。フリフリだったけど」


 パジャマの話じゃなくて、とすねるので口が尖る。ついばむと左耳を引っ張られた。負けじと唇に吸うと、舌を噛まれそうになり顔を離す。


「明日、恥ずかしいじゃない。嫌だな、からかわれそう。診察されるだろうに、どうすんのよ」


「男かな。嫌だな、医者でも」

「首と眉を見るだけだと思うけど。はっきりした症状だもの」

「うん」と言って抜けた眉の跡に口づける。


「蛍の話だってば」とソレイユ。

「きれいだったでしょ、森の中に入ると、そこら中に飛んでて星の中にいるみたいだった。あなたの髪にも留まってね」

「君にもね」と僕。ふふっと笑って頬にキスしてくれた。


「あなたが見つけてきて、それで教えてくれたのよね。次の年にはいなくなってたけど、今でもはっきり憶えてる」


「ソレイユに見せたくて」

「うん。ちゃんと見たよ」


 あの蛍も、あの星も。夜空に森の木々たちも。


「シロツメクサがたくさん咲いてた場所もあなたが教えてくれたわね」

「好きそうだと思ったから」

「好き。王冠作ってくれたのも憶えてる。首飾りも」


 花の中で微笑むソレイユ。誰かに必要とされる喜びに飢えていた僕の名前を君はいつも呼んでくれた。「ルギウス、ルギウス」それがどれほど嬉しかったか。手を伸ばせば届いた手にどれだけ救われたか。


「落ち葉で遊んで」

「雪で遊んで」

「また春が来て」

「夏が来て」


 そうやって二人で遊んだ。永遠のまどろみの中にいるような時間を持て余しながら、僕らは互いに寄り添い合って手を握り合った。未来は遠い先にあり、今はまだその日一日を越えてゆくのに必死だった。いつまでも止まっているような長い時間の流れに退屈し、急ぎ足で過ぎた時間に喜びを覚えた。


 楽しかった。僕にもそんなときがあったのだと、すべては過ぎ去ってから懐かしむしかない。もう届かない幸せに、今もまだ恋しい気持ちがやまない。


 どうしたらよかったのだろう。僕はあの夜、このまま死んでしまいたいと思った。何度もソレイユの首に手をかけては、そのまま肩へと滑らせた。うずめた胸から聞こえる鼓動がやみ、触れ合った肌のぬくもりが冷めていくことに耐えられるはずもなかった。なにより君自身が生きることを諦めていなかった。僕とは違って。


「あげるね」


 ソレイユはそう言って髪をひと筋ハサミで切り取った。長くて先が緩やかに波打っている髪を僕の手首に巻き付ける。


「もっと欲しい」


 ねだる僕にソレイユは笑うと、もうひと筋分を切ってくれた。きれいな髪だから結んでもすぐほどけそうになる。手で押さえて編むようにして手首に固定する。出来上がったブレスレットにソレイユは頬ずりして僕の手の中で微笑んだ。


「僕もなにかあげられたらいいのに」

 思いつかなくて情けない。がっかりしているとソレイユは耳にキスして囁いた。

「いいの。もうたくさん貰ったから」


 朝なんて来なくていい。

 でも夜は明けていく。窓の外が明るくなると、僕らは部屋を出た。

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