9-7 忘れないで

「お願い?」


 僕が訊くとソレイユは口を押さえながらうなずいた。まだ笑いが込み上げてくるらしい。顔も首も真っ赤になっている。


「はぁ、おっかし。というか真面目な話なんだけど、あなたの態度見てると言い出しにくくなったわ。言わないでもなんとかなるかもと思ったけど」


「なに?」僕は気になって仕方がなかった。

「ごめん、真剣に聞いてるよ。なんの話?」


 ソレイユは目の端に浮かんでいた涙を拭った。


「笑った。ああ、ほんと雰囲気って重要なはずだけど、それを考えるとまた笑えて来るわ。私ってダメね」


 飲み込めないでいる僕にまたソレイユが笑う。


「やめた、格好つけるの。はっきりお願いするけど、ちゃんと最後まで聞いてよ。途中で遮らないでね、調子が狂うから」


「うん」僕は身を引き締めた。

「あのね」

「うん」


「裸を見て欲しいの」

「げっ」


 反射的に立ち上がるとソレイユが冷たい目つきで僕を見上げた。


「なに、その態度は。げっ、て。ひどくない?」

「いや、その……」


 こういうときに限って、あいつが頭の上で「ひゃっほーい」と喜んで踊りまくっている。下品な奴。僕は頭を振った。


「そんなに嫌なわけ」

「ち、ちがう」と否定して、それもどうかと「いや、その……」ともごもごする。


 ソレイユは表情を和らげると、「はい、ここ座って」とまたベッドを叩いた。気恥ずかしさでいっぱいだったが大人しく言われた場所に座る。


「ルギウス、最後まで聞いて」

「うん」


 ソレイユは僕の手を握った。


「私は病者よ。もう治らない」

 口を開きかけたのを押しとどめられる。僕は言葉を飲み込んだ。

「治らないの。もちろん薬が開発されるかもしれない。でも戦時でしょう。私のような病は後回しになる。期待してないわけじゃないけど夢は見てない」


 だから、とソレイユは握っていた手に力を込めた。


「病状は悪化していく。これよりきれいになることはまずないわ。今が私、一番きれいなのよ、ルギウス。あとは何もかもダメになる。髪も抜けるし、肌だって……、指や足もそう。ね、現実にそうなるの」


 はらはらと何かがめくれ落ちていく感覚がした。目の前のソレイユの言葉が痛くてたまらない。耳を塞ぎたくなるけれど握られた手の強さに励まされ、現実を直視しなければと心に強く言い聞かせる。


「だからね、あなたに憶えていてほしいの。今の私。今までのソレイユを忘れないでほしい。あなたに全部預けて、私は新しくやり直すの」


「上手く説明できないんだけど」とソレイユははにかんだ。


「私は忘れたいと思ってるの。まったくゼロになって、この髪も顔も手や足も何もかも忘れてしまいたい」


 でも、と笑った瞬間涙が彼女の頬を伝った。僕はそっと指先で拭う。


「それでも不安で怖くてたまらない。怖くてたまらないのルギウス。考えたくない。でもどうしようもない」


 抱き寄せた腕の中で震えているのは彼女だろうか、それとも僕だろうか。


「もしあなたが憶えていてくれる、そう思えたら少しは安らぐ気がするの。私の今までの時間をあなたが共有してくれて、その先もあなたの中で生きていてくれるなら、今まだ存在している私、いまのソレイユが死んでしまうことを受け入れられる気がするの。分からないけど、それで救われるんじゃないかって」


 考えないようにして、考えていた。覚悟したふりをして、そうしたつもりになっていた。あらゆるものが溢れ出す。不安も恐れも、どこかで抱いている希望も。


「ルギウス。私を忘れないで」


 憶えているよ。君の声も、匂いも、ぬくもりも。光の中できらめく髪や、のぞきこんだ時に見える大切な瞳も。笑った時の顔も怒った時の顔も。泣いた顔も疲れた時の顔も。不機嫌に唇と尖らせて、目を細める君も。こぶしで叩いてきて、足を踏んづけてくる君も。その痛さも、可笑しさも、かわいさも。


 それから笑って抱きついてくる君も。僕をからかって楽しんでいるいたずらな君。たまに見せる素直な表情や言葉を僕がどれだけ愛おしんだか。強気だけど本当は泣き虫なことも知っている。我慢ならないことに憤っては嘆く君も、喜びを爆発させて跳ね回る君も。誰よりも大人びて見えて、誰よりも幼いところがある君に、僕はどれほどの優しさで接することが出来ただろうか。


 僕の気持ちは伝わっていただろうか。ソレイユ。


「愛してる」


 誰よりも、愛してる。

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