9-6 聞いて
夜、満月が見えるまで外で空を眺めた。吹く風が冷たくなると宿に戻ることにしたけれど名残惜しくて何度も立ち止まっては空を見上げた。手で掴めそうなほど大きな満月だった。
この日は教会に行くのはやめていた。あそこだと夫婦だと嘘をついていても別々に部屋を用意してもらっていたから。最後の夜だと思うと、少しの時間でも離れたくなかった。
宿は古びていたが小綺麗に整頓してあり、食事も充実していた。宿泊人はまちまちでひとりの旅行者らしき人もいれば、数人で来ている若者たちや中年のグループもいた。全体的に荒っぽい人たちに見えたが、よく笑い賑やかで、暗くなりがちだった僕の気持ちを紛らわせるにはちょうどよかった。
部屋にはベッドがひとつしかなくて驚いたが、床にはスペースがあったので棚にあった毛布を敷いて僕は寝ることにした。ソレイユはごろんとベッドに寝転がると目を閉じて大きく息を吐き出した。
「やっと療養所に行ける」
「ごめん」
あやまると彼女の口の端が少しあがる。
「桟橋まで。それで帰ってね」
「うん」
ソレイユは起き上がるとマントを脱いで、それから首のスカーフを取った。赤いあざにどうしても目がいってしまう。広がっている様子はなかったが、まるで判を押されたようにそこだけ肌の色が違う。ドラゴンに首を掴まれたようだ。僕は無意識に自分の首に手をやっていた。ぐっと力を入れると吐きそうになった。
「なにやってるの」
ソレイユは僕を見て目を丸くした。
「いや、特に意味はないんだけど」
もごもごと答えるしかない。自分でもなにがやりたいのか分からなかった。暗がりに灯ったランプがソレイユを非現実的なものに見せていた。絵画の中の女性に見える。そのまま切り取って永遠に時間が止まればいいと思った。
「こっちへ来て」
ソレイユはベッドを叩いた。
「来た」と座って答えるとくすりと笑われた。
「ペットみたいね。素直なんだから」
ぺろっと頬を舐めたら顔面をはたかれた。
「やめてよ。今から真剣な話をするんだから」
僕は目を瞬きながらうなずいた。近づくと気が落ち着かないのでやや離れて座りなおす。すると大変なことにソレイユがにじり寄ってきて抱きつかれた。
「あのね、ちゃんと聞いてよ」
「うん」
ソレイユは体を離すとふぅと息を吐き出した。
「私ね、右足の感覚がないの」
僕はどきりとした。気づいてなかった。
「動くことは動くのよ。それは問題ないんだけど、感覚がなくて触ってもつねっても、なにをしたって痛くもないし熱くもないの」
ソレイユは裾を持ち上げて右足のふくらはぎを見せた。細くて白い脚が夜の部屋に浮かび上がるように見え、慌てて目をそらした。
「ちょっと」と腕を叩かる。目を向けるとにらんでいた。
「ちゃんと話を聞いてって言ってるでしょう」
僕は真剣に耳を傾けた。
「ここ。この部分はなにも感じないの。火傷しても気づかないでしょうね」
ソレイユは僕の手を掴むとふくらはぎに乗せた。それから二度ほど叩くように動かす。「あなたの手も感じない。なんにも」
「たぶん、そのうちここから皮膚が損傷して膿が出てくるのね。それか結節が出来て硬くなったりするのかな。分からないけど、どんどん進行してる」
僕は手を動かして脚をさすった。彼女は首を振る。指を立ててくすぐるようにしたり、ふくらはぎを掴んで揉みほぐしてみたけれど、微笑むだけでその目が悲しげだった。むくむくと膨れ上がってくる、いら立ちなのか恐れなのか分からない感情が僕の中でうずまいた。悔しくて膝裏を掴むとびくんとソレイユが反応した。
「そこは分かるから。その下だってば」
「ここも?」膝をなでると目をそらしてしかめっ面をした。
「ここは?」しつこく確かめると腹を蹴とばされた。
「分かるってば」
「ごめん」急に恥ずかしくなって体温が上がる。
「変なつもりじゃ……」
細目でにらまれる。僕は委縮した。
「そう? 変な気起こしてんでしょう」
「まさか」慌てる。
「とっても厳粛な気持ちだ」
ソレイユは吹き出した。
「それはそれで困るんだけど」
僕はぽかんとした。ソレイユはくすくすと笑いだしたかと思うと顔を真っ赤にして笑いをこらえようと息を止める。それからまた吹き出す。
「なんだよ」つられて笑えてくる。
「ううん」とソレイユは笑いながら言うと大きく息を吸って吐いた。
「お願いごとしようと思ってたから」
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