9-5 あと一日だけ
荷馬車の主人に礼を言い、そこから町に向けて手をつないで歩いた。誰もいない一本の道が田畑を割るように伸びていて、そのまま進めば町が見えてくると教えてもらった。コートを着込んでいると暑いくらいで、隣を歩くソレイユの頬も上気して赤くなっていた。
「首のスカーフを取ったら?」
僕は言った。ソレイユはすぐに首を振る。
「ダメ。見えるもの」
ぎゅっと首を掴み守るような仕草をする。僕は「そうか」とだけ答えるのが精いっぱいで胸がつかえる思いがした。誰もいないようだが、それでも不安は消えない。絶対に知られたくない気持ちがソレイユの顔に陰を作る。
「今日中には連絡できそうね」
しばらく間が空いてからソレイユが言った。
「明日には療養所かな。海を見るのが楽しみ」
ずきりとくる。僕は握っていた手に力が入った。
「僕も行くから」
言葉にちらっと視線を感じた。
「療養所で働く。もう決めた」
「無理だって。あなたは桟橋まで。そこまで来たら手を振って帰るの」
ルギウス、とため息をつかれる。
「ちゃんと帰ってよ。ハンナが心配するから」
「分かった」僕は言った。心とは別のところで。
「年末には入営だしね。僕が兵士になるんだ、笑えるだろ」
「そうね」と言ったソレイユは少しも笑っちゃいなかった。
「べつにそれまで待つ必要もないかもしれない。まだ一月だし、前年組に混ぜてもらえるかも。いくらでも兵を欲しがってるんだから」
僕は即戦力になりそうだろ、と冗談半分で言ったが、ソレイユは首をあいまいに傾けただけだった。それからまたしばらく無言のまま僕らは歩いた。どの言葉も空虚に響き、どちらも本音を吐き出そうとしていないのが分かり切っていた。
昼頃には町についてしまった。島の近くだというから港町かと思っていたら、シレーナに似た小さいながらも栄えた町で、商売人の賑やかな声が通りには響いていた。ソレイユはフードの端を掴むとぐっと下にさげ、スカーフがちゃんと巻かれているか神経質に気にした。僕は「大丈夫だよ」と何度も言って安心させた。
駅舎が見えてくるとソレイユは、「連絡してくる」と言って走って行こうとするので僕は慌てて捕まえた。
「そんなすぐじゃなくても。まだ着いたばかりなんだから」
「ルギウス、約束したじゃない。この町に来たら迎えを呼ぶって」
「分かってるよ。でも明日でもいいじゃないか」
ソレイユは顔をゆがめて怒る。
「そうやってずるずると日を延ばそうとしないで。言ってるでしょ、私を困らせないでよ。ちゃんと分かってよ」
「分かってるよ。でも――」
ソレイユは顔を背けてしまった。肩に手をやると荒々しく振り払われる。
「もう昼すぎだし、どこかで食事しよう。それから今夜は泊まって、明日の朝連絡して迎えに来てもらおう。もうここまで来たんだから、あと一日だけゆっくり過ごそう。街を見て回ろうよ」
僕は必死になって説得した。周囲が面白半分でこちらを見ているのに気が付いていたがかまっちゃいられない。そうこうするうちにソレイユの方が折れて、駅とは反対に歩を進めた。
「恥ずかしいったらない。見世物じゃないの」
つんとした態度。唇が尖っている。思わずキスしそうになったが殴られるところを想像してぐっとこらえた。
「海が見えるかもしれないよ。街の外れまで行ってみようよ」
僕はそれから一日中、ソレイユを連れ回した。彼女が口を開くたびに、それよりも先に僕がしゃべった。くだらないどうでもいい言葉を並べたてるばかりだったが、沈黙が怖くて目に入るものすべてに興味を示したふりをした。
街の外れまで行ったけれど海は見えなかった。それより森に続く道があり、他はまた田園が続いている。海はまだ遠いようで、僕はほっとしながらもそんな自分が嫌になった。ソレイユの言うように現実から逃げようとばかりしている。彼女のほうが辛いに決まっているのに、自分のしている事と言えば、ソレイユの覚悟を踏みにじるようなことばかりだった。
自覚はしていた。それでもやめられなかった。気が緩むと頭の中で笑い声が聞こえる。あいつだ。こそこそと僕の周りを嗅ぎまわっては機会をうかがっている。あいつの笑い声が耳をかすめるたびに、僕は「ソレイユ、ソレイユ」と彼女の名を呼んでは、幼子のように手を引いて離れまい、離されまいとした。迷子を恐れた。ソレイユのいない世界で生きていける自信がなかった。
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