8-4 旅路
なぜソレイユが死のミサを望んだかは分からなかった。いや、あの時は何も分からなかったのだ。ただ過ぎていく景色を眺めていたにすぎない。
あとになってハンナから聞いた。ソレイユはドラゴン病者として生きる覚悟が必要だと言って、ミサをしてくれるよう二人を説得したのだと。そんな必要があったのか。今の僕なら彼女に言ったはずだ。そんな必要はないと。まったくないと。
でもソレイユは言ったのだ。
――この悲しみや絶望が、なぜ生まれるのかずっと考えてきたんです。それは失ってしまったものを、ひとつひとつ数えてしまうから。そして失うだろうことを思って怯えているからです。
それではダメなんです。新しくゼロから始める必要があるんです。ひとつひとつ新しい自分を見つけて、理解していくことが大切なんです。だから、これまでの私とは決別して新しく生まれる、全く別の存在として、生きていかなければならないんです……
ドラゴン病は命に直接かかわる病ではない。それはまるで呪いのように病は体を蝕んでいく。髪は抜け、手足は腐り、体中から膿が吹き出す。瞳は白濁し神経が痛む。目は見えなくなり、走ることも歩くこともできなくなる。やがて立ち上がることも不可能になり、何も自分ではできなくなる。それでも死なず惨たらしく姿で生かされる。邪悪なドラゴンのように。
儀式が終わり蝋燭の灯がすべて消えると現実が押し寄せてきた。僕はどくどく脈打つ心臓を感じることができた。少しずつ実感が湧いて来る。逃避している時間はなかった。心の奥底が騒ぎ出す。急げ、急ぐんだ。
ソレイユはハンナに洋服を借り、荷物をまとめていた。トランクに本や着替えを詰め込むと、首にスカーフを巻いて斑紋状のあざを隠した。それから頭をすっぱり覆うフード付きの黒マントを身に付ける。
「本当に両親には黙って行くつもりなの?」
ハンナが言った。ソレイユは微笑む。
「ええ、ごめんなさい。あとで騒ぎになると思うけどお願いね」
ソレイユは町を出たことになっている。ドラゴン病者が親族にいるとなると一族もろとも差別の対象になってしまう。ましてや財産家ともなれば影響は大きい。結婚や仕事にも影響が出てくるだろう。集落にひとりでも病者が出れば、それだけで婚約解消された地域があったほどなのだから。
「一緒に行こう」神父が言うと、ハンナが首を振り、「私が行くわ」と言った。
ソレイユは微笑んだまま、凛とした声で言った。
「ううん、ひとりで大丈夫。ちゃんとたどり着けるはずよ。隣町まで行ったら、そこから汽車に乗るつもり。あとは療養所に知らせると迎えに来てくれるはずだもの。パパがいつもやってることだから、心配ない。よく分かってるから」
ソレイユが行ってしまう。声がかすれた。三人が振り向いて僕を見る。
「僕が行くよ」
「いや」
ソレイユがつっぱねる。あまりの即答に聞き間違いかと思った。
「いやよ。あんたなんかと一緒に歩きたくない。来ないで」
「ソレイユ」
「いや」
僕は助けを求めるようにハンナと神父に視線をやった。二人とも苦笑していて、頼りになりそうにない。僕はソレイユの手からトランクを奪った。
「ちょっと」
「行くよ。嫌でもついていく」
僕は部屋を飛び出した。がむしゃらに走り、廊下を抜けて外に出た。ひんやりとした空気に目が覚めるようだった。吐く息が白く昇り空間に溶けた。だんだんと現実が理解できるようになる。空の黒さ、月の白さ、星が見える。風が吹いた。それから…… それでも最後の部分は逃げて考えないように蓋をする。
「返してよ」
ソレイユがいた。手にはコートを持っている。
「ありがとう」
コートを受け取ると着込んだ。分厚い生地でずしりとくる。寒さが薄らいだ。
「行こっか」手を差し出すとソレイユがきゅっと握った。
「トランク、返してよ」
「だめ」
やんでいた雪が降り始めた。今度は積もるかもしれない。握る手をコートのポケットに入れた。ぎゅっと力を入れるとそれよりも強いくらいで握り返された。指は細く冷たかったけれど、一本一本確かめるように撫でたり掴んだりしていたら少しずつ温まってきた。嬉しくなる。また握る。ぎゅっと。
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