第三章
崩壊
8-1 現実 939年1月(18歳)
記憶の糸かぷっつりと切れている。空白。ソレイユはいなくなった。彼女が消えた日々の記憶はあまりない。それは突然でなんの知らせもなかった。ソレイユは金持ちの男と結婚したのだという噂が流れた。相手は外国人だとか、エリート将校だとか、話す人によって違う。僕は何も知らなかった。
知らないと思っていた。これは……いつの記憶だろう。あの夏よりも前だろうか。ひまわりの夏よりも。彼女と裏庭で会っていた。ソレイユは戸口の石段に腰かけ、僕は隣で壁に寄りかかって彼女を見下ろしていた。
「あなたが入営したら、私、看護の勉強をしようと思うの」
「看護? ナースになるわけ、君が」
「なによ、その言い方」
ソレイユは口を尖らせた。僕は笑った。
「だって君はデザイナーになりたいんじゃなかった?」
「そんなこと」とソレイユはため息をつく。
「もう時代じゃないでしょ、お洒落なんて」
そういうものだろうか。僕はがっかりした。
「あきらめるなよ、らしくない」
「えっらそうに。これからは看護が必要になるのよ。戦地にだって行くかも」
「ソレイユが」驚いて寄りかかっていた壁から離れた。
「戦地なんてダメだ」
ソレイユは立ち上がると、つんと顎をあげた。
「いざとなったらの話よ。べつに好き好んで行きたいわけじゃない。それに、ここも空襲に遭うかもしれないしね。どちらにせよ、治療に詳しくなくちゃ。救護活動は必要でしょう。役に立ちたいもの」
まさか。冗談に聞こえた。
「空襲なんてないって。防空演習だって、みんなふざけ半分じゃないか」
「わからないでしょ。王国は国連を抜けたから国際的に孤立してるわけだし」
「同盟国が――」
「あら、あなたの口からそんな言葉が出てくるなんてね」
僕らはしばらく無言で見つめ合った。それからソレイユが「軍需工場で武器を造るよりは、人の手当てをしてたほうがいいって話よ」と言った。
「君が工場で働くなんて想像できないね。怪我人の手当てもそうだけど」
「ルギウス、私だって想像できないけど仕方ないじゃない。現実なんだもの」
現実。現実なんてどうでもいい。そんなものいらない。
「なにもかも変わってしまう」
ソレイユは寂しげに笑った。
「今思うと、あの頃は楽しかったね」
あの頃。
「子供の頃?」
「そう」
あの頃は孤独だと思っていた。毎日が窮屈で自由がないと思っていた。
「あの時が、一番幸せだったかもしれない」
揺れる瞳が僕を見ていた。
「あなたといつも一緒で、二人で遊んで」
大好きなソレイユ。大切なソレイユ。
「これからだって……」
「うん」と言って、ソレイユは僕の手を握った。
「変わらないでいたい」
彼女は僕の手を自分の頬に当てて目を閉じた。肌の柔らかさに手が震えそうになる。たったこれだけのことで情けないと苦笑しながら、それでも込み上げてくる切なさは止められない。ソレイユは近くて遠い人。手の届かない人。僕とは違う世界の人。いつか会えなくなる人。
時間が迫っている気がしていた。ソレイユと引き離される日が来ると、ずっと思いながら忘れようとしていた。子供のときから考えていた。いつか来る。誰か他の人が――僕ではない誰かが彼女を奪っていくだろう日が必ず来ると。
でも、あんなことになるなんて思わなかった。現実は想像よりも残酷なのか。
これはいつの記憶だろう。……もう、あとはつらい記憶しかない。ソレイユがシレーナの町を出たと知ってから、どういう日々を過ごしていたか思い出せない。きっと寂しがり悲しみに暮れ、虚ろな日々を生きていたはずだ。
この後に来る絶望なんて知らなかったから。気弱な妥協した独りよがりな悲しみなんて、そんなくだらない日々の記憶など僕からは消えてしまった。あの頃はまだ幸せだったんだ。なぜソレイユに会おうとしなかったんだ。彼女を探そうともしないで、ただ悲しんでいただけ。許せない。自分が許せない。
ソレイユは町を出てなんてなかった。ここに、シレーナの町、僕の近くにいた。それを知ったのは、あの夜のこと。冬の雪がちらつく暗闇を君は僕を尋ねてやって来た。薄着で毛布を羽織って……、震えながら。
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