4-1 戦争の影 932年12月(12歳)

 僕が十二歳になったばかりの冬。雪がちらちらと舞い降りてきて、僕とソレイユの髪に触れては融けていった。この年は暖冬で、いつもなら雪景色なるはずの時期でもまとまった量の雪が降らず、街中が乾いた空気と冷たい風で荒廃した雰囲気を醸し出していた。


 僕はソレイユに勉強を習っていた。彼女がうんと小さい時に使ったという教科書を持ってきてもらい、それを使って教えてもらっていた。学校に行こうとは思わなかったし、誰も勧めてこなかったけれど、ただぼんやりと月日が流れるにしたがい、彼女よりも劣っている自分が恥ずかしく思え、少しでも近づこうとしていた。


「あなたって、ドキアから来たんだっけ?」


 ソレイユはつまらなそうにペンを指でもてあそんでいた。僕は熱が出そうなほど頭を振り絞って算数をしているところだった。


「えっ、なに。ドキア?」

 僕は指を折り曲げながら計算した。それを見たソレイユが笑う。

「いいかげん、暗算しなさいよ」


 ソレイユは僕が使っていたノートをひったくると、赤インクで添削を始めた。ピンピンピンとペンがはねる。僕はがっかりして空を見上げた。灰色の雲が全体を覆っていて、雪が忘れかけた頃に舞い落ちてきた。


「ドキアから来たのよね?」

 ソレイユはノートを放り投げると、最後の問題の部分をペンで叩いた。

「これだけ正解。あとは間違い。算数は無理みたいね」


「無理じゃないさ」

 僕はむっとして言い返すと、どこを間違えたのか確認した。

 簡単な計算間違いだった。

「ドキアがどうしたのさ」


「べつに。ただドラゴン病駆逐地区になったらしいから」

「なにそれ?」


 ソレイユはため息をついた。それから僕をじっと見ると、またため息をついた。


「あなたって、無知ね」

「なんだよ。教えてくれたらいいだけだろ」

「文字は読めるんでしょ?」


「読めるってば」

「だったら新聞読みなさいよ」


 僕は開いていた教科書を閉じて横にずらした。もう勉強をする気分じゃなかった。ソレイユはすました顔をしてそんな僕を見ている。それがまた無性に腹立たしかった。


「叔父さんは新聞なんて読まないんだよ」

「そう」


 ソレイユは僕が投げ出した教科書を引き寄せると、さっきまで見ていたページを開き、押しをするように手でこすって広げた。


「じゃあ、読み終わったのを持ってきてあげる。あなた、今何が起こってるか知らなすぎるのよ。戦争だって始まるの、知らないでしょ」


「戦争は終わっただろ」


 僕の返事にソレイユは雪雲も吹っ飛ぶんじゃないかというくらい、盛大に息を吐き出した。


「王国の統治領で軍事衝突が起こったのは知ってる? 双方で三千人の死者が出たのよ。それに王国内でもクーデターが起こってるし、じきに大きな戦争が始まるって、みんな言ってるわ」


「僕の周りでは言ってない」


 ソレイユは左足で僕を蹴とばした。痛くはなかったけれど、ソレイユの怒った顔はすさまじかった。まるで牙をむいて威嚇する猫のよう。シャーって音が聞こえそうだった。


「ルギウス、しっかりしてよ。もし戦争になったら、あなた兵隊にとられるかもしれないのよ。あなたみたいなのが一番に死ぬんだから」


「うん、わかった。しっかりする。新聞も読む」


 僕の軽い了解にソレイユの怒り顔がみるみる困り顔に変化した。


「ねぇ、ルギウス、本当にしっかりしてよ」

 ソレイユは一度言葉を切ってから顔を伏せ、微かに聞こえる声で言った。

「いなくなっちゃ、いやなのよ」


「いなくなったりしないよ」

 慌てて言う。心配になってうつむく顔を覗き込んだ。ソレイユの長いまつ毛に水滴がついていた。泣いたのだろうか、それとも雪が降りたのだろうか。


「ねえ、ずっと一緒にいようよ。どこにも行かないよ。ソレイユといるよ」

 僕の言葉にソレイユは顔を逸らした。

 それから、「ほんと?」とかすれた声で小さく言った。


「うん、ずっとソレイユといる。ぜったい」


 彼女は微笑んでくれたはずだ。見間違いじゃない。でも、もしかしたら…… 

 もう、今は確かめようがない。僕はひとりで思い出をかみしめては、本当は全部幻で、僕の思い違いかもしれないと胸が痛くなる。怖いんだ、ソレイユ。僕の記憶は全部間違っているのだろうか……


 雪の結晶が大きくなり、次第に積もり始めた。僕らはそれぞれの家へと急いで帰った。途中、僕は振り返りソレイユが木陰に消えるのを見送った。彼女は毛皮のマフラーをぎゅっと握り締めて走っていった。僕は薄い上着の襟に手を当て、降り積もる雪を顔に浴び、しばらく目を閉じたまま立っていた。

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