3-3 ドラゴン病者
初めてドラゴン病者を見たのは六歳の頃だ。そのときはまだ母が生きていて、僕は一緒に市場まで出かけていた。手をつなぎ母を独り占めしている喜びで僕の足取りは軽くなり、浮き立つ心を持て余すようにスキップして飛び跳ねていた。母はそんな僕を叱ったけれど、仰ぎ見た顔は優しく微笑んでいた。
その日は朝から天気が良かったのに、突然雲行きが怪しくなって雨が降り始めた。僕たちは慌てて軒下のある店まで走り、そこで雨宿りをした。周囲はあっという間に水浸しになり、激しい雨脚に隣にいる人の声さえ聞き取れないほどだった。
そのときだ、僕があれに気が付いたのは。視界がぼやける雨の中、街路樹に寄りかかって動かないものが見えた。不思議に思い、僕は母の手を引くと指さした。
「あそこ、人がいるよ」
僕の差す方を見た母は、はっとした顔をすると、自分の背に隠すようにして僕を引っ張った。僕は母の匂いと温もりを感じながらも何が起きたのかと戸惑って不安になった。
恐る恐るだったけれど、こっそり母の背から顔を出し、もう一度街路樹に寄りかかっている人を観察してみた。大きなフード付きの黒っぽいマントが頭から足先まで全部を覆っていた。若いのか、男なのか女なのか、まったく分からなかった。
きっと怪我をして動けなくなっているんだ。ずぶ濡れのあの人を、誰かが運んであげなくちゃと思い、動く大人がいないかとあたりを見渡した。
すると若い男の人が突然、その人に石を投げつけ始めた。それを見た周りの中から、同じように石や空き瓶、他にも様々な物を投げつける人が出始めた。僕は驚いて母を見上げた。母はその光景を見ていたが、目には何も映っていないかのように表情を変えなかった。
街路樹に寄りかかっていた人が地面に崩れ落ちると、笑いが起こった。強い雨脚の中でもはっきりとそれは響いた。僕は怖くなって母に向かって叫んだ。
「ねえ、やめさせて。やめさせてったら」
腰や背中をこぶしで叩いたが、母は無言で前だけを見ていた。
僕の方さえ見ようとしない。
「かあさん。ねぇ、かあさん」
太った女の人が近づいてきて、僕の肩に手をのせた。
「坊や、静かに。静かに……」
「穢れ血だ、汚れた化け物」
「忌まわしいやつ、消えちまえ」
「殺せ、殺せ。あいつを殺せ」
誰ともなく発せられる言葉に僕は息を呑んだ。いたぶられる姿は小さく、雨は容赦なく打ちつけた。地面に這いつくばる姿が、僕の目には蛇と重なって映り始めた。以前いじめっ子が集まり、蛇に石を投げ、棒で叩いて遊んでいたことがあった。それは不快な光景で、僕は彼らにやめるように言ったけれど、笑われ、突き飛ばされた。
「怖いんだろ。おまえ、びびってんだろ」
何も言い返せなかった。納得できない気持ちを抱えたままその場を離れるしかなかった。どこかで蛇じゃないかと軽く考えている自分がいた。ただの蛇じゃないか。人じゃない。
「ドラゴン病、ドラゴン病」
泥にまみれながら倒れていたその人は、力を振り絞るようにしてよろめき立つと、おぼつかない足取りで進みはじめた。その丸まった小さな背に何かが投げつけられる。ばたりと倒れると、また笑いが押し寄せる波のように広がりさざめいた。
男も女も、子供も笑っていた。僕は怯えている自分が恥ずかしくなってきた。誰も背中になんか隠れていない。自分も前に出なくちゃと、母の背から離れた。
倒れたその人は、投げつけられたものを拾い上げると、躊躇なくかぶりついた。じゃがいもだった。生のまま、泥まみれのそれを獣のような勢いで食べていく。僕はその手に指がないのを見た。布の下から覗いた口には唇がなく、欠けた歯がむき出しだった。
また、何かが投げつけられる。物が当たるたびに小さくうずくまっていく姿に、歓声が上がる。気が付けば、雨はやんでいた。けれど、日差しが地面に照り付けるようになっても、誰も道に出ない。そこには物が当たるたびに小さくなっていく姿があるだけだ。まるで地面に溶けていくかのように、小さく、低くなっていく。
「倒せ、倒せ。邪悪なドラゴンを倒せ」
「消えろ、消えろ」
「倒せ、倒せ」
僕は足元に転がっていた小石を拾い上げると、手を振り上げた。ぱしりと音がして、気が付くと母に頬をぶたれていた。
やめなさい、と母の口が動いた。声は聞こえなかった。
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