2-4 絵本のこと ソレイユの夢

 絵本はずっと昔に失った。叔父に引き取られるときに捨てたのだ。本当は持っていきたかったけれど、多くの物を処分していくなか「この絵本を持っていきたい」などとは僕はどうしても言い出せなかった。


 ひどく子供じみて思え、恥ずかしかったのだ。ただの絵本だ。似たような物語は数多くあるし、絵柄も地味で不気味。表紙も痛み、ページもぼろぼろになっていた絵本を大事にする理由などなかった。


 それでもあの絵本は、失ってからの方がどんどん膨らんで力を増していった。物語は僕の空想と混ざりあい、白と黒の世界は現実の色と重なり合うようにして広がった。


 ソレイユと出会ってからも、いや、彼女と出会ったことで、さらに絵本と現実の境目がより曖昧になった。邪悪なドラゴンの生贄にされる王女に彼女を重ね、救い出す英雄像を自分の心に密かに描いていた。


 そんな僕には、まだ夢や将来は架空の世界に等しく、現実はただ毎日繰り返される日常でしかなかった。朝起きて、乾いたパンと味の薄いミルクを飲み、秘密基地へと走る。それからソレイユが来るのをただ待つだけ。


 彼女は僕よりもずっとちゃんとした現実に住み、その遠い先を進んでいることを知り、焦りと不安で頭がぐらぐらした。


「夢か……、どんな服を作るのさ」


 僕は心を隠すように慌てて言葉を絞り出した。ソレイユはゆっくり瞬きをすると、眠たげな声でぼんやりと話し始めた。


「もっと、気楽に着られる服かな。動きやすくて、着心地がよくて、それでいてスタイリッシュな洋服。派手じゃなくていいの。もっと……こう、色味は押さえてあって、着ている人の個性が引き立つような」


「服の勉強って、町へ行かなきゃならないわけ? 学校でもあるの?」

 ソレイユはやや眉間にしわを寄せて、不機嫌に僕を見た。

「どうせ、無理だって思ってるんでしょ」

「まさか」僕は急いで上体を起こした。

「なれるさ、ソレイユだもの。なんだって、なれるさ」


 ソレイユは苦笑すると僕から顔をそむけた。しばらくすると、ゆっくり体を起こし、「ありがと」と小さく言って軽く微笑んだ。僕はその諦めたような笑みが気になった。彼女らしくなかった。


「なれるよ、ほんと」

「そうね、なりたいと思う」


 それからソレイユは本当に寝てしまったみたいにまた横になって動かなくなった。わずかに上下する胸の動きだけが時間の動きを示していた。僕は羨ましい気持ちでそんなソレイユに目をやりながら、これからのことを考え、不安になった。未来は輝いてなどなかった。あの頃でさえ。


 彼女には夢があった。そう、僕とは違う、はっきりとした夢が。それなのに、どうして彼女が……、どうして……


 なぜだろう、僕は思い返すたびに彼女がどんどん遠くに行ってしまうように感じる。手を伸ばし、掴もうとする指先から彼女が逃げていく。僕の見ていた世界と、彼女が生きていた世界が違うことに、今さらながら気が付いてしまうことが怖いからだろうか。


 もしかしたら、あの時から、僕らの世界は少しずつ分かれ始めていたのかもしれない。夢を語るソレイユと夢を見ているだけの僕。それとも初めから、重なってなどいなかったのだろうか。


 僕にとってソレイユは特別で唯一の存在だったけれど、彼女にとって僕はただの遊び相手、たまたまそこにいただけの子だったのかもしれない。


 ソレイユにとって、僕は価値ある存在だったのだろうか。

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