11.精霊少女の母性
未知の恐怖が、背後から迫ってくるのが分かる。
まるで、五感のすべてが悪寒に支配されたかのような感触だ。
そのためか手足の感触は鈍く、全身の神経が麻痺しているかのようだった。
それでもなお走れているのは、ひとえに本能が急かしているからだろう。
早く逃げろ、と。
決して振り返らず、一刻も早く安全な場所へと。
何者かは分からないが、自分の中の本能の声がそう訴えかける。
それに急かされ走りながら、少女はしかし振り返ってしまう。
その瞬間、目に映ったのは――
タスケテ
タスケテタスケテタスケテタスケテタスケ
眼球をなくした眼窩から血を流す、愛しい父や兄弟たち。
そしてその背後には、
彼らを喰らいながらおどろしい笑みを浮かべる、鱗で覆われた、巨大な魔物たちの姿があって――
突然開いた視界に、マリヤッタは驚愕する。
全身からぶわっとあふれ出す熱気と、駆け巡る対照的な寒気の感覚に、彼女の思考は正常な働きを阻害された。
自我の混濁の中、呼吸が荒げ、視界が虹色のノイズで明滅しかける。
意識はかき乱れ、胸と腹の間の奥で、重みと吐き気が膨れ上がり――
すべてが乱れ狂う寸前で、彼女の意識を正気に戻したのは、ひんやりとした掌に伝わる感触だった。
息が乱れ、肩が揺れているのを感じる。
脂汗と冷や汗が額から滑り落ちる中で、マリヤッタは横へ振り向く。
できる限りゆっくりと、落ち着こうとして振り返ったが、自分の手を握った少女の瞳に映ったのは、ひどく取り乱した様子の己の顔であった。
「大丈夫、マリィ。すごく、苦しそうだったよ?」
尋ねてきた少女は、自分が唯一自室で寝起きを共にすることを許可した相手・ルメプリアだった。
幼い顔に、どこか母性すら感じるような聡明な色を浮かべた少女に、マリヤッタは目を伏せ、頷く。
「また、夢を見たの。お父様や兄様たちが、魔物に喰らわれて助けを求めている夢を・・・・・・」
言いながら、マリヤッタは全身を震わせる。
それは、実際に彼女が見た光景というわけではない。
あくまで想像の産物だった。
だがそれでも、それに近い現実が起こったことを、彼女は知っている。
自分を逃すために、彼の父や兄弟たちは、犠牲になったのだ。
その嘆きが、未練が、彼女のマイナスの創造力によって想起され、今でも夜な夜な、悪夢となって彼女の目の前で繰り広げられるのである。
「私が、死ねばよかったのに・・・・・・」
思わず、口をついて出た言葉に、ルメプリアは息をのみ、眼を据える。
言葉は続く。
「そうすれば、父様や兄様たちは死なずに済んだ。そうよ、私が死ねば、お父様たちの重荷はなくなる。私さえいなくなれば――」
「それは違うわ」
ぎこちなく笑って震え、うわごとのように喋り出す乙女に、幼きはずの少女がはっきりと言う。
その目の奥からは、闇夜でも分かる強い叡智の光が宿る。
「貴女がいなかったところで、マクスブレイズの王たちの死は免れなかった。あの英明にして勇敢な王は、何があっても民や子たちを救うため、最期の一瞬まで戦ったはず。そしてその血を引いた男児たる、貴女の兄たちも、また・・・・・・」
断言すると、ルメプリアは震えたまま瞠目する少女の手をそっと両手で包む。
「貴女がいなくなったところで、彼らは意志を変えなかったわ。いえ、むしろ貴女がいてくれたおかげで、その意志を貫けたといってもいい。だから誇りに思いなさい、貴女は彼らの事を。そして想いなさい、彼らの遺した志を」
「遺した志?」
尋ねると、ルメプリアは顎を引く。
「亡き者が、残ったものへ託した想いよ。貴女に生きて、彼らは何をしてもらいたかったのか? 悪夢に怯えてばかりじゃ駄目。その事を思い出して、心を奮い立たせなさい」
震えをだんだんと小さいものに変えながら、マリヤッタはルメプリアを見る。
普段から精霊を名乗る少女は、緩やかに笑う。
「決して平易な道ではないけれど・・・・・・それでも貴女なら出来る。そう、信じているわ」
囁くように言う少女を、マリヤッタは下から上へと視線を移して眺める。
そうして視線が合ったところで、少女は穏やかな笑みから、にっと快活な笑を浮かべた。
「だから、安心して! 大丈夫。また悪夢をみたら、私がこうやって慰めてあげるからさ! なんたって、私はマリィのお守りなんだから!」
「・・・・・・余計なお世話よ」
子供っぽい誘い、子供っぽい言い草に、マリヤッタは手を払う。
そして、ぶっきらぼうに背を向けると、シーツをかぶり直して横になる。
「私の寝床に勝手に入ってこないで。入ったら今度は騎士を呼ぶわ」
「なっ! 何よ、せっかく励ましてあげたのにぃ!」
意地を張るようなその言葉に、精霊の少女は抗議の声を上げた。
頬を膨らませ不平を露わにするルメプリアに、マリヤッタは言葉を返さない。
ただ無言で再び眠りにつこうとする彼女を、ルメプリアは腕を組んで見下ろし、見守るのだった。
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