モンスターとユーリア

 この辺りを支配するのは白く巨大な円柱の闘技場。手入れの行き届いた芝に敷き詰められた石畳は領主の足元へと続き、右手には大垣越しに見える灯台。まるで主を歩哨する兵のように見える。

 闘技場の左側には大小様々な大きさのテントが張られ、その周りを警備兵が等間隔に立ち並ぶ。もしかしたら、あの中にオズワルドも紛れているかもしれない。

 そして遠くからでも分かる長蛇の列。出遅れた感は否めない。

 私達が闘技場へ近づくと木で出来た置き看板が待ち構えており、内容は座席の料金について書かれていた。一番安いのは二階席。次いで一階の後方と前方、最前列の順になっている。

「パティさん! 一番前へ行きましょう!」

 そうだよね。モンスター観察に来たから最前列を選択するのは当然だよね。しかし最前列は私達三人分の食料三日分くらいある。高い!

「パティさん、これで足りますか?」

 ユーリアは背負っているナップサックを下ろして、中から銭袋を取り出し私に突き出した。受け取ると非常に軽い。期待せずに逆さにすると、銀貨が一枚、銅貨が二枚。天気は晴れ。

「お小遣いを全部持ってきました!」

 どうやら貯金を含めた全財産を持って来たらしい。得意満面な笑み。エイダさんから貰ったお小遣いも含まれているようだけど、ぜんぜん足りない。

「どうですか!? 足りますか!?」

 そんなキラキラした目で迫らないでほしい。足りないとは言えなくなるから。

「ぜんぜん足りないよ」

 一度ユーリアを突き放して様子を見る。しかしユーリアは負けない。どんな困難に見舞われても声を出して勢いをつける。

「前です! 前だね!! 前ですよ!!!!」

 三段活用で迫ってきた。どんだけ前に行きたいんだよ。清清しいな、おい。

 ユーリアの今後を考えると甘やかすのはいけない。しかし大好きなモンスターを観察する、またとない機会であり、大げさかもしれないけど人生の転機になるかもしれない。そう考えると、この場面は私の出番かもしれない。エイダさん、司書の次に、私がユーリアに手を差し伸べるべきではないか。少し悩んだけど、足りない分は私が出そうと決めた。

「わかった。足りない分は私が出すね。その代わり出世払いだよ」

「出世払い?」

「ユーリアが大人になってから、お金を返してもらうの。それでいい?」

「はい! いっぱい返します!」

 そんな、いっぱいは要らないよ。でも、どうしても! って言うなら沢山貰いますよ。

「でも今回だけだよ。お金は人から借りてはいけません」

「はい! 絶対返しません!!」

 ん? 今、返しませんって言った? 借りませんの間違いだよね? それとも私の聞き間違いかな?

「パティお姉ちゃん……」

「ん? どうしたの?」

 イリアちゃんは泣きそうな顔で私の手を取った。

「イリア……、お金持ってない」

 イリアちゃんはお金の心配をして、小さな胸が張り裂けそうになっている。よしよし。泣かないで。

「大丈夫だよ。イリアちゃんは三歳だから、お金はいらないよ」

 看板の一番下に記載されている注意書きを指した。

『三歳以下は入場無料です。ただし、保護者の膝上に乗せてご一緒に観覧して下さい』

 そうです。この一文があったから、ユーリアの入場料を支払うと言ったのです。最前列の料金を三人分も払えませんからね。お金は大事ですよ。


 入場料も確認したので、列に並び最後尾から前方の様子を伺う。まだまだ時間が掛かるのは明らかで、闘技場に備え付けられている時計は午後一時半を示している。開演時間の二時には間に合うだろうか。心配だ。

 しばらくユーリアのモンスター談義に付き合っていると「二階席は完売になりました!」と聞き覚えのある声がした。目をやると、帽子を被り腕章を装着したオズワルドが、行列に向かって声を張り上げている。

「ねえねえ、オズ!」

 オズワルドを手招きで呼ぶと「あっ! パティ!」と近寄って来た。

「仕事はどう?」

「順調だよ。でも大丈夫? 開演時間に間に合いそうにないけど……」

「ええええぇぇ!! それは困りますぅぅぅ!!」

 驚いたユーリアが大きな声を上げ、周りの注目を一斉に集める。

「こらっ! いきなり大声を出すな! ビックリするでしょうが!」

 私はユーリアの頭を叩いて前後の人に「すいません。すいません」と頭を下げる。苦笑いを見せる皆様。すいません、よく言い聞かせておきますんで。

「エクレアムースはサーカスの目玉だから最後に登場だよ」

「よ、よかったです……」

 胸を撫で下ろすユーリア。イリアちゃんは何が起こったのか、理解できずに目をパチパチさせている。

「それじゃあ、僕は仕事に戻るよ」

 オズワルドは帽子を少し浮かせ挨拶をすると、前方へ歩いて行った。

 最安値の二階席が完売したと知らせを聞いて、蜘蛛の子を散らすように行列から抜ける人が相次ぐ。お陰でずいぶんと前に進めた。

 肩掛け鞄から水筒を取り出し、三人で回し飲みをして待っていると「一階後方席は完売しました!」とオズワルドの声が前方から聞こえた。そしてまた帰る人が現れ前に進めた。

 けれどすでに開演時間は過ぎている。

 残り四人になると「一階前方の席は完売しました」とオズワルドが言うと、前列の四名が、ため息を吐きながら帰って行く。

 歩みを進め机の前に立ち「最前列を二枚下さい」と言うと「はい。ぴったり二枚で完売ですよ」と受付のお姉さんに笑顔で言われた。

 どっち道こうなる運命だったようだ。


 人間の可能性は無限大なのか。

 腰を後ろに反らして顔が股から「こんにちは」している軟体女。

 複数の狩猟用ナイフを噴水のような軌道を描いて投げる髭おじさん。

 訓練の賜物であるのは間違いないだけど、やっぱり才能によるものなのか。隣に座るユーリアは入場してから声を出して興奮しっぱなしで、時々その場で団員が披露した妙技を真似ようとするので止めに入る。

「あれは頑張って毎日練習して、出来るものだからユーリアには無理だよ。怪我するよ」

「本当ですか!」

 はい! 本当です! この状況下で私が嘘を吐いて得があるのか、と問いかけたいけど、また「本当ですか!」と言われそうなので黙っておこう。

 ユーリアは理屈よりも先に体が動く性格のようだ。それに会話が、かみ合わない場面もあるけど、それは愛嬌と呼んでも良いかもしれない。

 そして、いよいよサーカスの目玉が登場。

 反対側から黒い正装を着た男と、エクレアムースが並んで舞台中央に向かって歩いて来る。

 エクレアムースの体高は男よりも高く、体長は馬よりも遥かに大きく、角が生えていないのでメスのようだ。全身を茶色い毛が覆い、首元には前掛けを連想させる白い毛が生えている。引き締まった巨体に似つかわしくない、スラッとした細く長い脚が美しい。

 主役の登場にユーリアの興奮は最高点に達し、観客席と舞台を仕切る塀にぶら下がり、よじ登ろうとするので、膝の上で大人しく見学するお利口なイリアちゃんを下ろし、無防備なユーリアのお尻を叩いた。するとユーリアは塀から下りて「どうかしましたか?」とキョトンした顔を見せたので、つい怒鳴ってしまった。

「危ないでしょうが!」

「大丈夫です!」

「大丈夫じゃない! 言う事を聞かないと、もう帰るよ!」

「ユーリアは一人でも大丈夫です!」

 ああ! もう! 会話が成立しなくてイライラする! あなたも一緒に帰るの! そこはちゃんと教えないと!

「ユーリアも帰るの! 言う事を聞かないと帰るの!」

「ごめんなさい! 座ります!」

 恥ずかしい。周りの人達がこっちを見て笑っているじゃないか。

 エクレアムースと男は舞台の中央に立つ。それから四方を囲む観客に向けて男は右回りで頭を下げると、同じ様にエクレアムースも観客にお辞儀をする。その姿が可愛らしく、喝采が沸き起こる。隣のユーリアも雄叫びのような歓声で応えた。

 それにしても、神様と呼ばれるだけあって非常に賢いようだ。

 そして舞台の端に立つ女性が甲高い声を出し、まずはエクレアムースの側に立つ猛獣使いの男、その次にエクレアムースの順番で紹介をした。

 エクレアムース専任の猛獣使い、ロジャー・オールストン。彼はオズワルドと同じくらいの身長で、体の線がロイドのように細く、ひ弱な印象を受けた。本当に彼がモンスターを操れるのだろうか。不安だ。

 それからエクレアムースの名前はオリーヴィア。愛称はオリー。花盛りの十三歳メス。私よりも体は大きいけど年下だ。

 性格は穏和だけど、臆病で人見知りが激しく、他人が近づくと驚いて逃げてしまい、過度の刺激を与えると逆上して雷で攻撃するそうだ。なので、団員達も彼女が嫌がる行動は控える。

 過去に一度だけ、オリーヴィアの体格に合わせた専用の馬具を作成し着用させたら、彼女はすごく嫌がり大暴れたそうだ。また鞭や棒を使い命令されるのも嫌がるようで「オリーヴィアちゃんが暴れると死を覚悟し、楽しかった思い出が頭を駆け巡りますよ」と女性が冗談交じりに言い、会場の笑いを誘ったけど誰も笑わなかった。

 いや、笑えなかったと表現するのが適確である。

 それでオリーヴィアは馬具を着用せず、猛獣使いも手ぶらだと言う。しかし、オリーヴィアと猛獣使いの信頼関係は強固なので、勝手な振る舞いや命令に背いて暴れたりはしないので安心して良いそうだ。そうだよね。じゃないと、サーカスの舞台に立てないよね。納得。


 次にオリーヴィアの生い立ちについて話が始まる。

 オリーヴィアは赤ちゃんの時に森で拾われた。冷たい雨に打たれ、怪我をして酷く弱り倒れていた。助からない。誰もがそう思ったそうだ。

 しかし懸命な介護と想像を絶する生命力で、見る見るうちに回復し一命を取り留めた。赤ちゃんとは言え、やっぱり彼女もモンスターの端くれ。一同は傷が癒えた喜びと共に、モンスターの特性に驚愕したそうだ。

 それから森へ帰す為の奮闘が続いた。エクレアムースの生態について正しい情報が少なく、日々の観察日誌を書いて情報を集め、その情報を参考にオリーヴィアを育てたそうだ。誰も頼れず、命綱の図鑑は情報が不正確。確かにモンスター図鑑の内容は本によって差異があると、モンスター研究家が仰っていた。頼れるのは、己の洞察力と判断力。そして経験。

 様々な苦労があったと思うと団員達に感服する。

 そしてオリーヴィアが一歳の時に森へ帰そうとした。しかし彼女は森へ帰ろうとはせず、世話をしてくれたロジャーから離れようとはしなかった。

 団員達は困惑した。共に過ごした時間は、愛着となって全員の胸に刻まれていた。特に親代わりのロジャーにとっては娘と呼んでもいいだろう。それでも彼女の幸せを思うと、森に帰し仲間達と一緒に暮らした方が良い。でも…………。

 答えを出せないまま、何日も議論を重ね続けた、そんなある日事件が起きた。

 サーカス団が道中に山賊から襲撃を受けた。戦う術を持たないサーカス団は山賊に金品を奪われ、暴力に屈する覚悟を決めたそうだ。しかしサーカス団の危機に、自らの意思で檻を破壊してオリーヴィアが飛び出し山賊を追い払った。オリーヴィアは私達を大切な仲間だと思い、自分達を助けてくれた。

 その時、団員達は目が覚めたそうだ。

『自分達を助けてくれたオリーヴィアに恩返しをしよう。私達の手で幸せにしてあげよう』

 オリーヴィアをサーカスの一員、そして家族として迎え入れ、一緒に暮らしているそうだ。

 なんていい話……。泣ける……、泣けるわぁ……。肩掛け鞄からハンカチを取り出すのが面倒なので、ワンピースの袖で涙を拭く。みんな、幸せになって。

 感動ですすり泣く声が聞こえる会場。ちらほらと拍手が聞こえ始めた、次の瞬間。

「すごい!!」

 ユーリアの声だけが山彦のように反響した。まるで時が止まったように静まり返る会場に「すごい!!」の言葉が会場の天井や壁を跳ね返り、寄せては返す波のように何度も耳に入ります。

「パティさん! 檻を壊したって言ってましたよ! 凄いですね!」

 そこ!? そこですか!! もっと重要なポイントがあったでしょう。

 それから申し訳ないですけど、袖を引っ張らないでもらっていいですか? 保護者だと思われるじゃないですか。ユーリアさん。

 良い雰囲気が台無しになり、会場の視線が一点に集まる。私は体を小さくして、小声で皆様に謝ります。気まずい……、非常に気まずい……です。

「それでは、これより挨拶代わりにオリーヴィアが芸を披露を致します」

 そんな気まずい空気を払拭すべく、お姉さんが芸の説明を行う。舞台中央に人を並べてオリーヴィアが飛び越えるそうです。お願いします。この気まずい空気を変えて下さい。

「最前列にお座りの方で、協力して頂ける方は手を上げて下さい」

 速い。誰よりも速くユーリアが手を上げた。しかも進行役のお姉さんが見えるように、椅子に乗ってピョンピョンと跳ねて、ものすごく主張している。

 ユーリアだけで行かせてはダメよ。

 もう一人の私が囁いた。ユーリアを一人で行かせると皆様のお邪魔になる。

「はい! はいはい!」

 気がついたらイリアちゃんを小脇に抱え、大声を出しユーリアに負けないように手を上げて立ち上がりアピールする私。周りの人の笑い声が耳に入る。恥ずかしい……。すごすごと席に座る。少し興奮しすぎたようです。

 係員に案内されて私達三人は舞台に上がる。舞台を上がった人は私達を含めて二十人くらいで、傾斜になっている客席から感じる人々の視線。うん、この視線は悪くない。

 団員の指示に従い、間隔をあけて縦一列に並ぶ。列の長さは舞台の直径よりも少し短いくらいで、私は列の中央に立ち前にイリアちゃん、その先にユーリアが立つ。

 ユーリアが暴走しないように監視していると、前方にオリーヴィアとロジャーが立ち準備が出来たと両手を挙げて合図を送ると、お姉さんが場内に向かってアナウンスをする。

「これらより、オリーヴィアが皆さんの頭上を飛び越えます」

 男が手を広げてパンと一回叩くと、オリーヴィアは数歩助走をつけて跳んだ。視線はオリーヴィアを追いかけて首が上向きになり、天井を見上げると大きな影が飛び去り、そのまま反対側に体が半回転した。

 どよめく会場。

 そして再度、ロジャーが手を叩くと助走をつけて跳び、私達の頭上を飛び越えて元に位置に降り立った。不思議と恐怖は感じなかった。非常に高い位置を跳躍――巨大な鳥が頭上を飛んでいたような感覚だったから。

 それにしてもすごい! やはりモンスターと呼ばれるだけあって、身体能力は人間とは比較にならない。ユーリアも「すごい!」と興奮しながら叫んでいる。高い入場料を払ってでも、エクレアムースの跳躍を見る価値は充分にある。

「続きまして、エクレアムースの脚力をお披露目致します。どなたか、競走して下さる方は挙手をお願いします。只今舞台にいらっしゃる方、または会場にお座りの方でも構いません」

 女性の目に留まるように、誰よりも高く手を上げようと、飛び跳ねるユーリア。それくらいならまだ可愛いけど、絶対に当ててもらおうと、飛び跳ねながら女性へ近づいて行く。いくらなんでも図々しいだろ。

「それじゃあ、そこの元気な君」

「ありがとうございます!」

 最初に指名されたユーリアは喜びのあまり、その場で小躍りをする。私も心の中でお礼を言った。他にも成人の男女と青年が一人ずつ、ユーリアを合わせて計四人が選ばれた。

 私はイリアちゃんへ歩み寄り手を繋いだまま、他の団員にユーリアの保護者であると伝え、舞台の端で見学する許可を頂いた。ここから逐一、ユーリアの挙動に目を光らせる。

「パティお姉ちゃん。あれ、大きいね」

 右手でエクレアムースを指すイリアちゃん。

「あれはエクレアムースって言う、鹿さんだよ」

 近くで見ると、エクレアムースの大きさが手に取るように分かる。長身のロジャーを見下ろせる位置にエクレアムースの顔があり、体長は成人男性の八人分、あるいはそれ以上あるだろう。もしかしたら、まだ成長途中かもしれないし、オスはさらに巨体なのかもしれない。まだまだ成長過程だと思うと少し怖いけど、優しい目をしているのが印象深かった。


 それから女性がこれから行う芸の説明を始めた。エクレアムースの脚力を示す為、選ばれた人と舞台上でかけっこをするそうだ。身体能力によって生じる不利益は、スタート位置をずらすことで解消する。最年少のユーリアが舞台の中央あたりに立ち、次に女性、三番目に男性、一番足が速そうな青年が後方に立ち、さらにその後方にエクレアムースの順で並ぶ。つまり一番足が遅いのがユーリアで、最後尾のエクレアムースが速い事になる。

 二人の団員が舞台の端で白いロープを持って立つ。ゴールに最も近いユーリアで成人男性の歩幅で十歩くらいあり、エクレアムースは恐らく百歩以上あるだろう。

 会場の全員が思ったはずだ。

『先頭の少女が本気で走れば勝つ。あるいはエクレアムースが少女に追いついて、僅差の勝負になる』

 そう思われても仕方がないくらい、エクレアムースが不利に見える。

「それでは私が3、2、1、スタート! と言ったら手を下ろします。皆さんはスタートを合図に走り出して下さい」

 女性が手を上げると、ロジャーはエクレアムースの首元を摩り始める。するとエクレアムースが顔を下げると、ロジャーが耳打ちしながらゴールを指し示した。

「それでは、いきます!」

 進行役の女性が手を上げると、人間達が腰を落として走る構えを見せる。

「3! 2! 1!」

 会場を包む緊張感を幼いイリアちゃんも感じたようで、繋いだ私の手を強く握り締めた。

「スタート!」

 合図と同時にロジャーはエクレアムースの肋骨を叩いた。すると棒立ちだったエクレアムースが二本の前足をほぼ同時に蹴ると、男性のすぐ後ろに迫る。

 速過ぎて瞬間移動をしたように見えた。

 そして次の一歩を見た時、最初の一歩はまだ助走だったと思い知らされる。さらに二歩目を蹴ると、体の半分がユーリアを追い越していた。まだユーリアが一歩目を出した直後である。

 四人が二歩目を出した時には、すでに勝負が着いていた。彼女は白いロープをネックレスのように首にかけたままゴール前で立っていた。

 再び訪れた静寂は、目の前で起きた出来事を検証するのに必要な時間。脳内で時間を戻して分析し、予想だにしない現実を受け入れる準備時間であった。

 目を瞑れば見過ごしてしまうほど、それは一瞬の出来事であった。走るというよりは、地面すれすれを飛ぶ――低空飛行したと呼ぶべきだろう。

「すげぇ!!!!」

 またしてもユーリアの声を合図に会場の時間が動き始める。検証作業が終え現実を受け入れた者から、次第に拍手や歓声が沸き起り、いつしか会場は賞賛の嵐に包まれた。私の検証作業は終えていないけど、その場の雰囲気に飲まれ漠然としたまま手を叩いた。

 喝采で声は聞こえないけど、ロジャーがエクレアムースに呼び掛けながら手招きをすると、彼女はロープを首にかけたまま、競走相手の前を素通りしてロジャーに歩み寄った。

 首に掛かっているロープを取り、ロジャーはエクレアムースの首元を撫でながら声を掛ける。するとエクレアムースはロジャーの顔を舐めた。なんとも微笑ましい光景だ。

「会場の皆様、ご協力して下さった方々へ大きな拍手をお願いします」

 四方から浴びせられる万雷の拍手。いいもんだ。

「それではご協力して下さった皆さん、団員の指示に従いお席にお戻り下さい」

 お姉さんから退席を促されたので、イリアちゃん一緒にユーリアの元へ歩み寄ると、ナップサックから小さな麻袋を取り出していた。

「ほら、行くよ」

「オリーヴィアが好きな葉っぱを、長老さんの所から取って来たのであげたいです」

 そう言いながらユーリアは私に麻袋の中を見せてくれた。葉の先が丸く、青々とした葉っぱだった。どうやら餌をあげるつもりで持って来たようだ。

「勝手な事をしたら、サーカスの人が困るでしょう」

「でも……でも……」

 始めて見る、ユーリアの泣きそうな顔。

 いつも元気なだけに、その表情はより際立ちあふれる罪悪感。泣けば、なんでも叶うと学習させたくない。でも大好きなエクレアムースを想い、頑張って葉っぱを拾い集めた純粋な気持も叶えてあげたい。

 揺れ動く心。

 イリアちゃんが私の手を強く握り締めた。それが決め手だった。

「分かった。それじゃあ、サーカスの人にお土産として袋を渡しましょう。それでいい?」

「自分であげたいです」

「気持ちは分かるけど、サーカスの人達も困るから葉っぱだけ渡そうね」

「どうして困るんですか?」

 ユーリアは素朴な疑問を投げかける。

 さて、どう説明すれば納得してもらえるか。正しい説明で納得してもらえないより、嘘でもいいから納得してもらいたい。それが本音。都合のいいように仕向けようとする、自分が嫌になるけど今は感傷に浸っている状況ではない。

「エクレアムースの好物は図鑑で知ったんでしょう? もしかしたら嘘かも知れないよ。その葉っぱが食べられるか、サーカスの人に聞いてからあげた方がいいよ。それに今は公演中だから、邪魔をしてはいけないでしょう」

 久しぶりに頭を使った気がする。我ながら良い回答だ。

「それならオリーヴィアに聞いてきます!!」

 しまった! ユーリアは人の話を聞かない子だと考慮していなかった。しかも『サーカスの人に聞いて』が『オリーヴィアに聞く』にすり替わっている。

 ユーリアを止めなければ!

 そう思った時には、すでに遅し。ユーリアはエクレアムースに向けて全力で走り出した。……わたくしは……、私は、ユーリアの後姿を眺める事しか出来ない、無力な女です。

 卑屈に身を焦がしエクレアムースにそっと近づく。エクレアムースはその場に伏せ、ユーリアとロジャーが話をしていた。聞き耳を立てる。

「その葉は大好きだけど、仕事中だから食べないかもしれないよ」

「あげても良いですか?」

「いいよ」

 ユーリアが麻袋から葉っぱを取り出し、エクレアムースの口元に持っていく。しかしエクレアムースは、右につーん、左につーん、と何度やっても顔を背け一向に興味を示さない。どうやら訓練の賜物のようだ。公演中は餌に興味を示さず、他人が来ても逃げ出さない。彼女もまたサーカスの団員であると、改めて認識させられた。

「分かったかい」

「それじゃあ、これを後であげて下さい」

「分かったよ」

 ロジャーが紳士で良かった。ユーリアの無礼な振る舞いにも、頭ごなしに怒ったりはせず、実験をさせて疑問を解決させ、納得できる回答を提示してくれた。これならユーリアも文句はないだろう。麻袋をロジャーに預けたユーリアは私の所へ戻って来た。

「ダメでした」

 振られたのに満面笑み。エクレアムースと触れ合ったのが相当嬉しかったようだ。私は彼に会釈して舞台から降り席に戻った。

 席に戻ると、次に披露する芸の準備が始まっていた。

 一面だけ開いた厚い木箱を団員が高々と持ち上げて、内部には仕掛けや他の物が入っていないと確認させる為に、ゆっくりと右回りで観客に見せる。それから、開いた面を上にして舞台の中央に設置された鉄製の台の真ん中に置き、二人の団員がロープで木箱を台に固定させた。

 ロジャーは他の団員からレンガを受け取り、エクレアムースと一緒に木箱の前に立つと、進行役の女性が観客に呼び掛けた。

「これよりレンガを雷で砕く芸をご覧頂けますが、一つ注意がございます。雷が発生する際に起こる雷鳴によって、耳を傷める可能性がございます。入場の際にお渡した綿で耳を塞ぎ、さらに両手で耳を塞いで下さい。私が松明を三回まわすと、猛獣使いが松明を掲げます。それを合図に落雷が発生します。なお、私が両手を上げるまでは、綿を耳から取らないようにお願いします」

 会場がざわついた。

 これから行う芸はかなり危険のようだ。それにしても雷でレンガが砕けるとは知らなかった。膝に乗るイリアちゃんを一旦下ろして、ポケットから綿を取り出した。

「これから大きな音がするから、耳に綿を詰めて両手で塞いでね」

 綿を見せて、両手で耳を塞ぐ動作をして見本を示す。

「うん、分かった。でも怖くない?」

「大丈夫だよ」

 とにかくイリアちゃんを安心させようと、笑顔だけは絶やさない。

「うん!」

 なんて純真無垢な笑顔なんだろう。思わず見とれてしまいそうになる。いかん、いかん。イリアちゃんの耳に綿を詰め「これで大丈夫だよ」と話しかける。

 次はモンスター研究家だ。

「ユーリア。耳に綿を詰めないと、耳がおかしくなるよ」

「大丈夫です」

 その大丈夫の根拠を教えてほしい。しかしそれは後回し。ユーリアは観察日誌を広げて、なにやら書き始めている。やっぱりこの子は夢中になると周りが見えなくなるようだ。

「言う事を聞かないと帰っちゃうよー」

「はい! 言う事を聞きます!」

 魔法の言葉を発見した瞬間である。これでしばらくはユーリアを意のままに操れる。ユーリアは観察日誌を床に置く。手早く綿を耳に詰めると、観察日誌を拾い上げて再び書き始めた。私も綿を耳に詰め、イリアちゃんを膝の上に乗せて準備が完了した。さあ、いつでも来い!

「それでは、会場の皆様。これより芸を行います」

「二人とも耳を塞いで」

「うん」

 やっぱりイリアちゃんは素直で可愛いな。音にビックリして膝から落ちないように、しっかりと抱きしめよう。イリアちゃんの温もりは最高です。そして問題はあの子ですけど……。

「はい!」

 観察日誌を書く手を止め、両耳を手で塞ぎ今度は素直に聞き入れたユーリア。魔法の言葉が聞いているようだ。よしよし、いい子だ。

 女性が松明を掲げると、舞台の四隅に設置された篝火を団員が素早く消してゆく。水を使わず消しているので、おそらく団員は火の魔法を扱えるのかもしれない。

 全ての篝火が消され会場が薄暗くなると、無意識に明るさを求め舞台で赤く燃える松明に目をやる。女性が一本。ロジャーが一本。なんだか緊張してきた。

 それから女性が松明を回す。

 一回。

 二回。

 三回。

 そしてロジャーが松明を掲げた。するとエクレアムースから舞台中央に向かって一本の青白い光が走る。その光を雷光と認識するには、爆音を体感した後になる。

 空気の振動で鳥肌が立った。

 予想以上の光景に会場は恐怖で静まり返る。私の心臓は激しく鼓動を打ち、今にも飛び出してしまいそうだ。イリアちゃんはすっかり怯えてしまい、私に抱きついて大きな目に涙をためている。頭を撫でて落ち着かせ、イリアちゃんに触れた私も落ち着きを取り戻した。

「すげぇ!!!!」

 隣のユーリアが叫んだ。恐怖で怯えていると思ったけど心配無用だった。

 しばらくして舞台の篝火に火が灯された。短時間で明るくなったのを考えると、やっぱり火の魔法を扱える団員がいるのだろう。魔力はどの程度か? 同じ火を扱う者として気になってしまう。同胞を気にかける余裕が生まれた。ひとまず落ち着きを取り戻せただろう。

 舞台の中央に目を移す。木箱は衝撃でバラバラに破壊され、中に入っていたレンガは跡形も無い。それに少し焦げ臭いが鼻に突く。

 団員達が台の両端を持ち、木箱が置かれていた面を起こして観客に向ける。台の中央は黒く焦げていた。どうやらの雷で破壊されたレンガの衝撃で、固定された厚い木箱が破壊され鉄製の台を焦がしたようだ。こんなモンスターと戦うと想像しただけで気が重くなる。モンスターの生態を熟知し、弱点を突いても勝てる気がしない。戦いを回避するのが賢明だ。

 進行役の女性が両手を上げて綿を取るように合図を出すと、ようやく肩の力が抜けた。

「ユーリア、綿を取っていいよ」

 そう言いながらイリアちゃんの綿を取り、次に自分の綿を取って、とりあえずポケットにしまっておく。

「イリアちゃん。怖かった?」

「うん……」

「もう大丈夫だよ」

 頭を撫でるとイリアちゃんは袖で涙を拭いた。こっちは大丈夫そうだ。問題はあのモンスター研究家だ。ちゃんと私の話を聞いてくれたかな? 横を見ると熱心に観察日誌を書くユーリア。綿を取るのを見ていないので、もう一度訊ねる。

「ユーリア、綿は取った?」

「…………」

 どうやら夢中になって聞こえていないようです。しょんぼりです。

「ユーリア! ユーリア!」

 肩を何回か叩くと、ようやく気付いてくれました。

「どうかしましたか? パティさん」

 どうかしましたか? じゃないわよ、まったく。

「耳から綿は取った?」

「まだです」

 もう、しょうがない子だ。モンスターの事になると、本当に周りが見えなくなるんだ。呆れるを通り越して感心してしまう。

「動かないでよ」

 ユーリアの顔を動かして両耳から綿を取り出す。

 取り出した綿をポケットにしまうと、まるで私を待っていたように進行役の女性から公演終了が告げられる。観客は立ち上がり喝采を送る。私は立ち上がれないので、代わりにイリアちゃんの手を取って一緒に拍手を送った。そしてやっぱりユーリアは拍手もせずに、夢中で観察日誌を書いていた。

 すると観客のカーテンコールに誘われ、舞台裏に下がっていた団員も舞台に登場して、中央で円を描いて各々観客に応える。もちろん、その輪の中にエクレアムースもいる。ロジャーの会釈に合わせて頭を下げる姿が愛らしい。

 モンスターは凶暴。そんな概念を壊す平和な光景だ。

 感動の余韻を残したまま、団員が退場すると客も席を立ち出口に殺到する。出口に通じる廊下は長い列。列が解消するまで座っておいた方がよさそうだ。

「パティさん。ノートを書くんで少し待って下さい」

「いいよ」

 ちょうど良い口実が出来たので座って列の解消を待とう。

 ユーリアは観察日誌を広げエクレアムースの芸について書いており、私はイリアちゃんとサーカスの話をしている。しかしイリアちゃんの話が頭に入らない。隣に座るモンスター研究家の観察日誌が気になってしょうがないからだ。チラッと横目で観察日誌を覗いた。

 丸の列の上を大きな丸が放物線を描いて飛んでいる。おそらく私達が体験したエクレアムースのジャンプだと思われ、大きな丸の横に『すごい!』と書かれている。

 そして、その下には大きな丸からギザギザの線が、正方形の上に載る小さな四角に直撃している。レンガと思われる四角の横に『ドカン!』と書かれ、エクレアムースと思われる丸の横に『すげぇ!』と書かれている。

 私は考えた。『すごい!』と『すげぇ!』はどっちが上なのか。感嘆符の数は同じ。違いは言葉だけ。しかし考えても答えは出ない。それを書いたのはユーリアだから。

「ねえ、ユーリア。この『すごい!』と『すげぇ!』はどっちが凄いの?」

 この疑問を抱えたままでは、今夜は眠れないはずだ。私は負けを認めてユーリアに尋ねた。

「いいですか……」

 ユーリアは咳払いをして喉の調子を整えて言った。

「すごい!」

 あっ、うん。それで? と思ったけど口には出さない。すると今度は息を大きく吸い、胸を膨らませ声を張り上げる。

「すげぇ!!」

 さっきよりも声を出して私の方へ体を乗り出した。その声は会場全体に響き、他の客が不思議そうにこちらを見ている。大声を上げてすいません、と心の中で皆様に謝る。しかし明確な違いが分からない。分かったのは一つだけ……。

「い……、言い方だよね?」

「でも凄さの違いは、分かってもらえましたか?」

「う、うん……」

 それはつまり『すげぇ!!』が上でいいんだよね? と真意を確認できませんでした。

 私は本当に小心者です。

 深追いすると、またしてもユーリアという名の迷宮に迷い込むので、雰囲気で『すげぇ!!』が上であると判断し強引に自分を納得させました。理屈なんて不要です。なぜなら『すげぇ!!』が『すごい!』より会場に響いた……、それで良いではありませんか。疑問は解決しました。後は寝る前に思い出さないように願うだけです。

 考えるのをやめ祈りを捧げていると、ユーリアが観察日誌を書き終えた。

 闘技場には私達しか残っていなかった。


 外へ出ると西の空が赤く染まり始めていた。鳥達が陸に向かって飛んで行く。私達も帰ろう。

「パティさん! オリーヴィアを見に行きましょう!」

 闘技場に隣接するテントを指すユーリア。まだ満足してないようです。

「ダメよ。もう陽が暮れるし、警備をしている人に怒られるよ」

「それじゃあ、怒られるギリギリまで近づいてみましょう」

「いい加減にしなさい」

 ユーリアの頭を軽く小突くと「えへへ」と頭を掻きながら照れ笑いを見せた。

「帰るよ」

 ユーリアに手を伸ばすと、空気が変わった。何かを予感させる不穏な空気。音を立てて大地が揺れ動く。

 私はとっさにイリアちゃんを抱きかかえ地面に伏せる。この前の地震より揺れは大きいけど、幸い倒壊するような物が近くに無いので恐怖感はそれほど無い。小刻みに震えるイリアちゃんに声を掛けながら辺りを見回しユーリアを探すと、やっぱり地面に耳を付けてミミズを探している。

 私の視界にユーリアが収まる様に体の向きを変える。後は地震が治まるのを待つばかりだけど、今回はなかなか治まらない。怖がるイリアちゃんを想い、早く治まれと地震に念を送る。すると、まるで私の念を汲み取ったように揺れが治まった。

「大丈夫?」

 胸に抱いたイリアちゃんを下ろし、目の高さを合わせて聞くと「うん! 大丈夫!」と元気な返事を貰った。ホッと胸を撫で下ろす。

 さてと、後は地面に這いつくばる、あのモンスター研究家の首根っこを猫のように捕まえて帰るとするか。

 帰路に就こうと思っていると、テントの方がなんだか騒がしい。怪我人でも出たのか? そんな風に考えてテントに目をやると、テントから大きな影がこっちへ向かって飛んで来る。

 警備兵の頭を超えてユーリアの近くへ降り立ったその影は、恋焦がれしエクレアムースのオリーヴィアだ。どうやら地震に驚いて逃げ出したようだ。このままではモンスターが町に野放しにされて危険だ。すぐに捕まえないと。でも、どうやって捕まえるの? オリーヴィアの機嫌を損ねると、雷が飛んできて危ないし……。

 それよりも近くにいるユーリアが危ない。しかし私が考えている間に、ユーリアはオリーヴィアの前に立ち、両者が睨み合いを始める。

 張り詰める空気。

 声を出してオリーヴィアを刺激すると、激怒して雷攻撃をするかもしれない。最悪を想定すると体が硬直して動けなかった。

 するとユーリアが仕掛けた。手を地面に付いて四つ足になると、それに反応してオリーヴィアは膝を落として臨戦態勢に入った。

 ついに始まる。何かが!

 息を呑んだ次の瞬間、目を疑う光景を目の当たりする。

 ユーリアは頭と手足を縮め亀のように体を丸めると、左右にゴロゴロと転がり始めた。

 なんだっ! 一体何が起こっているんだぁ!! その行動は何を意味するんだぁ!!

 ユーリアのこれまでの言動から、あらゆる可能性を考慮し答えを導き出そうとした。

 そうか! きっとアレだ! 

 エクレアムース同士が行う意思疎通を、ユーリアが体現しているかもしれない。

 大好きなオリーヴィアに逢えて、ユーリアは嬉しいです!!

 そうだ! きっとそうに違いない!

 しかしオリーヴィアは臨戦態勢を崩さず、ユーリアを見つめたまま動かない。それでもユーリアはゴロゴロと転がり続け、心なしかオリーヴィアの警戒心が増しているように見えた。

 なぜだ!?

 なぜ、ユーリアの想いが伝わらないのか。エクレアムース流の挨拶なのに……。

 はっ! まさかっ!! 

 私は思い出してしまった。

 オリーヴィアは赤ん坊の時にサーカスに拾われた。つまり人間社会で育ったオリーヴィアは、エクレアムース同士が交わす挨拶などを知る由も無い。するとオリーヴィアはユーリアを見て、『なんか変な奴がゴロゴロと転がっているな。気持ち悪いから雷で攻撃しよう』と考えているかもしれない。

 ユーリアが危ない!!

「イリアちゃん。危ないから離れて」

 状況を理解できないイリアちゃんは呆然と立ち尽くし、心配そうに私を見つめる。

「心配しないで。大丈夫だから、向こうに行って」

 イリアちゃんを安心させようと笑顔で言うと「いや!」と私の足にしがみついた。

 どうやら嘘だと顔に出ていたようだ。

 もし、オリーヴィアが不穏な動きを見せたら、私は躊躇わず魔法を使うつもりだった。オリーヴィアの雷攻撃は怖いけど、それよりもユーリアを助けたい気持ちでいっぱいだった。しかし、イリアちゃんが一緒では手が出せない。

 妙案を模索しているとユーリアは四つ足のまま、その場で何度も飛び跳ねる。

 今度は何だ?? 何が言いたいんだぁ!? ユーリアァ!! 

 天に向かって……ユーリアに向かって絶叫したい。

 すっかり混乱した私は考えるのを止め、五感で感じようと決めた。心の赴くままに……。ユーリアが飛び跳ねる様子を見て、思い付く言葉を口にする。

「ピョンピョン……」

「ピョンピョン?」

 イリアちゃんに復唱されると、凄く馬鹿みたいで恥ずかしいです。

 それからユーリアは再度体を縮め、今度は左右に揺らしていると、オリーヴィアが近づいて来る。さっきより緊迫感が薄れているように見えるけど……。

 私は考え直した。

 私が取るべき最良の行動は?

 このまま様子を見るべきか?

 それとも仕掛けるべきか?

 この瞬間にもオリーヴィアは歩みを止めない。しかし考えるだけ無駄だった。私だけならまだしも、足元にはイリアちゃんがいる。つまり残された選択は祈るしかない。

 お願いだから、何もしませんように……。

 オリーヴィアはユーリアに近づき、警戒しながら口で突いた。不思議そうに数回突くとユーリアの動きが止まり、顔を上げてオリーヴィアを見つめる。どうやらオリーヴィアはユーリアを攻撃するつもりはないようだ。思わず漏れる安堵の息。

 しばらく見つめたまま両者は動かない。するとユーリアは再び頭を引っ込め、体を左右に揺らす。それに反応してオリーヴィアは頭で小突いてユーリアをひっくり返した。ユーリアは仰向けになって、手足をバタバタさせる。そこには絶望感が漂う亀がいた。

 それを見かねたオリーヴィアが頭で押して亀を起こした。亀から人間に戻ったユーリアは嬉しそうに「わんわん!」と吠えながらオリーヴィアの周りを走り回る。

 …………なんだ? この光景は? 二人の間で何が起こっているんだ!

 そしてオリーヴィアは臨戦態勢を解いて、ゆったりモードでその場に伏せた。するとユーリアは後ろに下がって助走を取り、真正面からオリーヴィアに向かって突進する。それを迎え撃とうとオリーヴィアが頭を下げると、ユーリアが直前で止まりゆっくり頭と付けた。

 頭を押し合う、一人と一頭。

 どう見ても……、どう見ても遊んでいるようにしか見えない。

「ユ、ユーリア……。ちょっと、ユーリア……」

 オリーヴィアに刺激を与えないように小声で話しかけても、ユーリアには届いていないようだ。なのでもう少し近づいてみる。そろり、そろり。

「ちょっと、ユーリア……」

 ユーリアの動きが止まり、ゆっくりと立ち上がって私の方を振り返る。

「あっ! パティさん! どうしましたか?」

 もしかして真剣な面持ちで悩んでいた私ってお馬鹿さんなの?

「どうしましたか? じゃないわよ。大丈夫なの?」

「大丈夫? 何がですか?」

 うん、ごめん。主語を省いた私が悪いけど、状況から察してほしかったな。

「オリーヴィアって危なくないの? 雷は飛んでこない?」

「大丈夫ですよ。エクレアムースは大人しくて優しいんです」

 ユーリアはオリーヴィアの横に立ち背中を撫でた。するとオリーヴィアはゆっくりと顔を地面に付けて、気持よさそうに目を閉じた。どうやら雷は飛んでこないようだ。

「パティさんも撫でてみて下さい」

 手招きをするユーリアを信じて近づき、オリーヴィアの背中を撫でた。獣特有の匂いが鼻を突いたけど、毛はしっかりと手入れがされ、肌触りが良く気持ち良い。ベッドだったら最高だ。

 この気持ち良さを独り占めすのはもったいないので、足にしがみ付いているイリアちゃんを抱きかかえた。

「イリアちゃんも触ってごらん」

「う……うん」

 不安そうな表情でイリアちゃんは恐る恐る手を伸ばし優しく背中を撫でると、オリーヴィアの耳がピクリと反応したけど寝そべったまま動かない。

「フカフカしてるよ」

 例えユーリアと会話が噛み合わずイライラしても、イリアちゃんの笑顔を見る度に私の心は晴れやかになります。それにしてもオリーヴィアの背中は気持いいな。

 私達はオリーヴィアの背中を夢中で撫でていると、いつの間にか警備兵や団員に周りを取り囲まれていた。

 ところで、なんでそんなに驚いた顔をしているの?


 オズワルドがやっと帰って来たので、食事を取りながら『オリーヴィアがユーリアに懐いちゃったぜ事件』を二人に話した。

 エクレアムースは大人しいモンスターだけど、警戒心が強く人に懐かないそうだ。赤ちゃんの時に拾われ人間に育てられたオリーヴィアは、野生のエクレアムースと比べて人に慣れていたけど、それでも手懐けるには大変苦労したと猛獣使いのロジャーは語っていた。

 ロジャーが試行錯誤を重ね何年もかけて手懐けたオリーヴィアを、ユーリアはほんの数分で手懐けてしまった。オリーヴィアが餌をあげようとするユーリアの顔を覚えていたとしても、それは衝撃的な出来事だったようだ。

「なんか人だかりが出来ているなと思って近寄ると、パティ達だったからビックリしたよ」

 オズワルドが乾パンをかじりながら言った。

「それで金は貰ったのか?」

 卑しい人はすぐにお金の話をする。さすがロイド。予想通りで安心しました。

「貰ってないよ。その代わり、ユーリアがオリーヴィアと遊べるようになった」

「なんだ! 貰ってねぇのかよ。言っておくけど、財布の中身……結構やばいからな」

「本当ですか?」

「ああ。お前も覚悟を決めておけ」

 その覚悟は体を売る覚悟ですかね?

「そんな事はしなくても大丈夫だよ」

 オズワルドが咳払いをして止めた。もしかしたらロイドの言った財布の話は、私に覚悟を決めさせる嘘だったかもしれない。

よし! ロイドの髪の毛焼却の刑を執行する時が……、ついに来たな!

「それでユーリアは、どうしてそんな行動を取ったんだよ」

 それ! ロイドさん! それが重要だよね! 私もユーリアの奇行を目の当たりして、頭から煙を出し、ついには考えるのを止めてしまった。

「ユーリアの行動は子犬の真似だったみたい」

「子犬の真似?」

「憧れのエクレアムースが目の前に登場したので、ユーリアは『君に逢えて嬉しくて楽しい』という想いを子犬の真似で表現したそうよ。それがエクレアムースに伝わったみたい」

「…………」

「…………」

 二人の反応は当然だ。私もユーリアから説明を受けた時は言葉に詰まった。それに説明している今でも、この説明が正しいのか困惑気味である。

「僕には嬉しくて楽しいの表現が、どうして子犬の真似になるのか。そこがよく分からないよ」

「それがね、最近子犬を飼い始めたけど、子犬が楽しそうにピョンピョン飛び跳ねる様子を見ると嬉しくなるんだって。それでエクレアムースと逢った時、楽しくて嬉しいと伝えたい一心で、とっさに思い付いた子犬の真似をしたそうよ」

「言われてみれば分からなくもないけど、子供ならでは感性だね」

「いや、子供は関係ない。これは大物を引き当てたかもしれないな」

 ロイドは俯きながら考え始めた。もしかしたら、ユーリアから金の臭いを嗅ぎ取ったかもしれない。こいつの鼻は利くからな。

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