エピローグ

 音がする。


 水底から届くような、くぐもった音。


 声かもしれない。何度も同じ言葉を発している。


 なんだろう。誰だろう。重いまぶたを持ちあげてみる。


 眩しい。光だ。暗闇の中で白ウサギが光っている。


「おい、きみ」


 なんとウサギが喋った。


「やっと目を覚ましたか」


 見た目に反して野太いトーンだ。全然可愛くない。


「どうしてこんなところで寝てるんだ」


「……どうして?」


 話せば長くなるし、ウサギに理解できるとは思えない。


 でも、聞いてもらいたい。わたしが生きた証を。そしてできれば、家族に伝えてほしい。


「実は」


「おいおい、こっちを見て話してくれ」


「え?」


 声がした方へ向く。ウサギではない。わたしのかたわらだ。


 初老の男が片膝をついていた。


「うわぁっ!」


「うおっ!」


 磁石の反発を思わせる挙動でお互いがのけぞった。


「だ、誰!」


 誰何すいかすると、男は眉をつり上げて名乗った。


「誰って、この大学の警備員だよ。校門を閉める時間だから、一号館の鍵をかけにきたんだが」


 言われてみれば見覚えがある。今朝も目にした顔だ。


 けれど問題はそこではない。


「一号館? ここ、大学なんですか?」


「なにを当たり前のことを」


 うんざりといった様子でしかめ面を作られた。


 わたしは辺りを見まわしながら、


「あの、他に誰かいませんでしたか」


「なんだ、おかしな学生がまだいるのか。勘弁してほしいね。置物も突然光りだすし、なんなんだまったく」


 不快とばかりに警備員は嘆息をついた。あとはもうわたしへの興味が失せたようで、懐中電灯を片手に廊下の暗闇へ身を投じていった。


「…………」


 しばしわたしは呆気に取られて、自分の胸に問いかけた。


 ――助かったの?


 考えられるとすれば、わたしが気を失ったことで呪いをかけられなくなったため、ドッペルゲンガーたちは去っていった。この状況を整理すれば、その推論が妥当だ。


「そっか」


 紫に変色した右指をさする。


「助かったんだ、わたし」


 突如、さきほどまでの恐怖がぶり返してきた。汗がどっと噴きだしてくる。


 ウサギを抱きしめて、わたしは一号館を脱出した。





 最寄り駅は帰宅ラッシュを過ぎたせいか、ずいぶん閑散かんさんとしていた。がらんどうのホームを冷えた夜風が吹き抜ける。ベンチで縮こまるわたしをからかうように、広告看板の女性が微笑んでいた。


 線路の向こうには大学の建物と敷地が見える。イルミネーションはすでに消え失せていた。


 もう二度と、わたしがあの場所を訪れることはないだろう。両親には悪いけど、大学は中退させてもらう。これからはバイトでもして、その先は追々考えよう。


 でも恐れはないし、後悔もしていない。だってこれは、自分の意志で選んだ道だから。


 左手から電車が滑りこんできた。わたしはベンチを立って、確かな一歩を踏み出した。


 車内の乗客はまばらだった。これ幸いと座席の背もたれに身を預けて、リュックを膝に置く。自然とため息が漏れた。深呼吸をして、もう一度深く息を吐きだす。


 発車は五分後になるとのアナウンスが流れた。知らない車掌の声だ。なぜかそんなところに現実味を感じた。


 それにしても、汗が冷えて肌寒い。思い立ってリュックのファスナーを下げた。


 顔を出したのは、ウサギのセンサーライト。理沙の贈り物。


 お尻のスイッチを入れて橙色の暖光をまとわせた。抱きしめると、ソフトラバーの内側からじんわりとした熱が伝わってくる。即席の湯たんぽだ。


 心地よいぬくもりが、理沙のはにかんだ笑顔を去来させた。


 ――全部、理沙のおかげだね。


 これがなければわたしは死んでいた。彼女の優しさがわたしを救ってくれたのだ。


『大切に使ってね』


 昨日返せなかった言葉に、遅ればせながらこたえる。


「言われなくたって、一生大切にするよ」


 引っ越したって、結婚したって、ずっと連れていくよ。


「だから」


 わたしの願いも聞いてほしい。


「……会いたい」


 お礼を言わせて。


「会いたいよ」


 一度だけでいいから。


「会いたいよ、理沙ぁぁ……」


 温かい光に涙腺をほぐされて、わたしは人目もはばからず泣きじゃくった。


 やがて余力も尽きた頃、電車のドアが閉まった。窓ガラスに反射した顔は見るも無残だ。突然取り乱した女学生に恐れをなした乗客が、全員離れた座席に移ってくれて助かった。


 ゆっくりと電車が進みはじめる。景色が左に流れていく。


 わたしはすぎゆく大学のシルエットをしかと目に焼きつけた。化け物の息づく魔窟にして、かけがえのない友人に出逢えたその学び舎を、生涯忘れないように。


「さようなら」


 今生の別れを淡くつぶやいた。


 その後、右からデパートの巨影が飛びこんできた。それが流れさると、夜景の中に大学の姿はもうなかった。


 こうして、わたしの大学生活は幕を閉じた。


 しかし。


 デパートが横切る間際、わたしは目撃した。


 遠くて暗くて見えないはずなのに、確かに『それ』が見えた。


 大学の至るところで、おいで……おいで……と名残惜しげに手招きする、数多の揺らめく人影が。




 ◇◇◇◇




「それにしても、変な子だったな」


 一号館の階段をのぼりながら、私はぼやいた。


 ウサギのライトの前で倒れていたあの学生。指の異様な変色具合を見るに、自傷行為におぼれるメンヘラという類なのかもしれない。


 だとすれば、やはり関わらなくて正解だった。噂通りなら相当厄介な人種のようだから、親身に接して気に入られでもすれば、警備員の仕事が続けられなくなっていた可能性もある。


「とはいえ、少しくらいは触っておけばよかったか」


 小柄で色気はなかったが、学生というだけあってみずみずしい肉体をしていた。思いだしただけで唾液だえきがあふれそうだ。


「さて」


 二階に到達し、廊下の先へ懐中電灯を振る。幸い二人目のメンヘラはいないようだ。


「では、今日も『仕事』をしますかね」


 私はとある教室に忍びこんだ。一応ドアとカーテンはしっかり閉めておく。


「これだ、これ。よし」


 目当ての机に懐中電灯を置き、その前でおごそかに正座をする。


 そして椅子を引くなり、私は臀部でんぶを乗せる部位に頬ずりをした。


 今日ここには、日頃から目をつけている学生が座っていた。はち切れそうでいて、しかし太ってはいない絶妙な肉づきの子だ。この瞬間をどれほど待ったことか。


「ああ、いい……」


 肉感の残滓ざんしが頬に染みこんでいく。なんと至福のひとときだろう。これだから女子大の警備員はやめられない。


 もう辛抱たまらなくなり、立ちあがってベルトを緩めにかかる。ここからが本番だ。


 と、急に自分の挙動がコマ送りのようになった。懐中電灯の光が途切れ途切れになっているせいだ。


 これは困った。もし電池が切れようものなら、後始末が大変ではないか。


「仕方ないな、まったく」


 面倒だが、事務室に戻って電池を確保してこよう。


「せっかくのお楽しみだというのに、空気の読めないやつだ」


 懐中電灯に悪態をつきながらベルトを締めなおした時だった。


 他に誰もいないはずの教室で、肩を叩かれた。


 喉から驚愕を発し、慌てて振り向く。そのさなかにライトが消えた。暗黒の中で何者かと向かい合う。


 まさかさきほどのメンヘラ女か、それとも仲間か。『仕事』を見られていたなら大変まずい。


 こうなれば口封じだ。こいつにもはずかしめを受けてもらおうではないか。


 私は強引に肩を掴み、押し倒そうと力をこめた。が、びくともしない。この力強さは女ではない。


 ――なら、こいつは一体……。


 答えを示すように、再びライトが点灯した。


 そこに立っていたのは――



  ねえ、鬼ごっこしよう。

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わたしと『わたし』の鬼ごっこ @wirako

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