第6話

 一号館を出てしばらく。わたしはロマンチックなイルミネーションには目もくれず、弱った体を鼓舞して中庭を駆けまわった。


 時計塔が示す時刻では、あと五分あるかないか。まずはドッペルゲンガーに出会わなければ話にならない。


「出てこい! 逃げるな!」


 息を切らしながらも怒声をぶちまける。周囲のムードを壊そうが白い目で見られようが知ったことか。こっちは命がけだ。文句を言う口があるなら拳をねじこんでやる。


「うぇっ……」


 胃液が逆流してくる感覚。溜まらず咳こむ。気を抜けば咳の振動で下半身が砕けそうだ。


 ――止まるな、走らなきゃ。


 今一度、強く心を奮い起こす。顔を上げて前を見すえる。


「…………」


 いた。十メートル先。発光する雪だるまのさらに後ろ。花壇の上でパンジーとシクラメンを踏みにじりながら、冷たい笑みを飾っている『わたし』。


 ――やっとおびき出せた。


 喘息ぜんそくじみた呼吸で肺に酸素を送りこむ。二度、三度。


 そしてなりふり構わず地を蹴った。仇敵も間髪入れずに逃走を図る。


 その先にあるのは闇にうずまる一号館。手近の南側出入り口ではなく、北側出入り口に向かったのも数十分前と同じ展開だ。


 ――あと少し、あと少しだけ耐えて……!


 節々から発する異音を聞き流して走る。動かすたびに重くなる筋肉を強引に活動させる。


 北側出入り口のガラス扉が化け物をひとのみした。


 扉が閉まり切る前に、右手を差しこむことができた。そのまま手前に引こうとして、


 ガラス向こうのドッペルゲンガーと目が合った。


 直後、意識が弾けた。右手から脳天までを爆ぜるような激痛が突きぬける。


 差しこんだ四本の指が、扉にぎりぎりとはさまれていた。ドッペルゲンガーが扉を全力で内側に引いたのだ。


 化け物は指をへし折ろうとさらに扉を引く。ガラス越しの両目には鮮烈な狂喜が乱舞していた。


 わたしは奥歯をすり潰しながら左手を扉の取っ手にかけつつ、片足で壁を蹴ることで隙間を広げにかかる。


 力が拮抗する。指はいまだ解放されず、痛みがぐつぐつと煮えたぎる。歯の隙間から獣じみた雄叫おたけびがほとばしる。


 と、突然ドッペルゲンガーが手を離した。


「きゃっ!」


 反動で視界が空に向く。


 こぶのできた頭部をアスファルトに打ちつけた。万力でわしづかみにされているような鈍痛が頭蓋骨に染みわたる。目に映るすべてが右に左にぐわんぐわんと回転する。


 このまま眠りたくなる欲望を殺して、なんとか上半身を起こした。


 途端、怒りで煮えくり返った血液が瀕死の足腰に力を循環させた。


 ――本当に、どこまでも、こいつは……!


 ドッペルゲンガーが出入口で、わざわざ扉をあけて待っていたのだ。まだいたぶり足りないということか。


 わたしはたどたどしくも出入り口を通った。もう走るだけの気力はない。かすみがかった意識はもはや、闇に混じる『わたし』しか見えなかった。



  鬼さんこちら。手の鳴る方へ。



 眼前の化け物は後ろ向きに歩きながら手拍子を打つ。音が鼓膜を叩くたび意識に空白が生まれる。


 闇が濃密になってきた。地上とは思えない寒気に襲われる。わたしは今、死神に冥土めいどへと連れていかれる道中なのかもしれない。


 ――それでも……。


 わたしは迷わずこの道を進む。どんなに痛くても、どれほど怖くても、自分の信じた道を歩いていく。


 その先には必ず、希望の光があるのだから。



  えっ。



 ドッペルゲンガーの背後で、白い光が爆発した。


 さしもの化け物も血相を変えて振り返る。事態を察したか、すぐさま逃走の体勢をとった。それを追うわたしの腕は、いくら伸ばしても届かない。


 だけど、


「捕まえた!」


 わたしは堂々と宣言した。


 廊下に生じた影を踏みつける、この足でもって。


 影を踏まれたドッペルゲンガーが動きを止めた。逃げもせず、振りむきもしない。ただ顔は前方の光源に引きつけられていた。


 半径五メートルの範囲に近づくと作動する、ウサギ型のセンサーライトに。


「さっき捕まえられなかった理由、やっと分かったよ」


 呼吸を整えながら背中をにらみつける。


「これ、影踏み鬼なんでしょ」


 目の前の華奢きゃしゃな肩がわずかに跳ねた。


 鬼ごっこにはいくつかの種類がある。その一つが影踏み鬼だ。


 影踏み鬼は普通の鬼ごっことは違い、鬼が子の影を踏むことで鬼役が交代する。また建物などの影に入っている間は人影が消えるので、その状態の子は鬼に捕まらないというルールもある。


 この遊びが影踏み鬼だと仮定した場合、あらゆる出来事に合点がいった。


 まずは早朝。ドッペルゲンガーは一号館から中庭へ移動した。


 中庭は二号館と三号館の西側に位置している。よって東から昇る太陽の光が二号館と三号館に遮られることで、中庭は影に覆われていた。影踏み鬼において、あの時間帯の中庭は限りなく安全圏だったのだ。


 その後、並木道のある南側に逃げようとしてためらったのは、あのまま『L』の角に当たる三号館を曲がれば陽光を正面から受けることになるからだ。要は影が自身の後ろに長く伸びてしまい、肉薄するわたしに踏まれて敗北する危険があった。


 正午頃になると、ドッペルゲンガーは急に敷地全体に足を延ばすようになった。


 理由は、太陽の高度が上がって影が最も短くなる時間帯だったから。同様に建物内の天井にある電灯では大して影は伸びないので、リスクをあまり考慮せずにどこへでも駆けまわれた。


 逆に夜はイルミネーションが華やぐ中庭と並木道、そしてライトで照らされたグラウンド周辺を避けた。光の照射を四方八方から浴びる場所で影踏み鬼をするのは、子にしてみれば不利だからだ。また二号館と三号館も、中庭とグラウンドが近い上に建物自体が電灯によって明るいため、逃走先としての優先度は下がる。


 つまり夜におけるドッペルゲンガーの最高の舞台は、周辺も内部も暗い孤立した一号館だった。


 とはいえ、一号館には廊下の南側に電灯のスイッチがある。そこで北側出入り口から入ることによって、万に一つもわたしが光源を作れないよう工夫を凝らした。


 これらの行動パターンと狡猾な性格をわたしは逆手に取った。逃走先はほぼ確実に一号館の北側出入口と読み、事前にセンサーライトを廊下に置いておく作戦が功を奏したのだ。また明かり窓の存在から、階段をのぼらないであろうことも想定済みだった。


 わたしは思う。最後の最後、こいつに一握りでもフェアな精神があったなら、自分は間違いなく死んでいた、と。


 しかし化け物はやはり化け物だった。純粋な鬼ごっこと思わせて影踏み鬼をしかけるくらいは朝飯前。終始安全策ばかりを選び、希望をちらつかせては踏みにじる。しまいにはわたしの体をひどく痛めつけてくれた。


 性根が腐り切っている。改めてこいつが人でなしなのだと認識させられた。


「あっ」


 踏みつけた影が細くなりはじめた。


 ドッペルゲンガーの体が、しぼみながら黒ずんでいく。



  あーあ、負けちゃった。



 けらけらと、でもどこか悔しそうに言った。


 そして間もなく、光にかき消されるように『わたし』が消滅した。


 あとにはわたしだけがが残された。


 いや、一つ増えたものがある。


「お帰り」


 真後ろの元気な影法師に笑いかけた。


「わっ」


 安堵した途端、急激に力が抜けた。膝が崩れて四つばいになる。


「……ふぅ」


 激痛にむしばまれた中で、よくここまで持ってくれたと自分の体に感謝したい。人間、死ぬ気になれば大抵のことはこなせるみたいだ。


 ――帰ろう。


 そしてお風呂で汗を流して、今日はもう眠ってしまおう。今はそれ以外考えられないし、考えたくない。


 もうひと踏んばりだと自分に言い聞かせて、年寄りくさいかけ声と共に立ちあがる。あとはセンサーライトをリュックに入れてここを出るだけだ。


 それで済むと思っていた。すべて終わったと信じて疑わなかった。


 わたしの右肩が叩かれるまでは。


 息が止まる。指先一つ動かせない。


 なにかいる。後ろにたくさん。


 次は左肩を叩かれた。


 手を握られた。


 腕を掴まれた。


 服をつままれた。


 首をなぞられた。


 髪を引かれた。


 耳をつねられた。


 氷よりも冷たい感触に全身が痺れた。背後に身の毛もよだつ気配がうじゃうじゃとひしめいている。


 複数のささやきが鼓膜をねぶる。



  ねえ、今度は。



  私も混ぜて。



  きみとの鬼ごっこは。



  とっても楽しそう。



  早く、早く。



  さあ、振り向いて。



  捕まえてみてよ。



  私たち全員を。



「もう、やめて」


 声がわななく。


「もうやめてよ! お願いだから――」


 懇願もむなしく、無数の腕が絡みついてきた。体が後ろにかたむいていく。


 真の闇に引きずりこまれる。


「いやぁぁっ!」


 騒ぐ口を塞がれた。耳も覆われた。


 顔に群がってくる指の隙間で、ライトの光がかき消えた。


 同時に、わたしの意識もぷつりと途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る