第5話

 鬼ごっこ終了まで、もう一時間もない。薄い雲に隠れがちな月光の代わりに、大学ではイルミネーションが闇夜にきらめいている。


 緑色に輝くクリスマスツリーや、青白く光る雪だるまが飾られた中庭には、和気あいあいと写真を撮る学生たちの姿。枯れ木が橙色の蕾を膨らませた並木道には、帰宅の途につく教職員たちの背中。


 昨日の事件を払しょくするかのように、誰もが光だけに興味を向けて、そこら中でうずくまる闇には目もくれない。


 空気がいっそう冷えてきた。強風がわたしのひりつく頬を執拗しつようにつねる。汗を吸った衣服がひたりと肌に貼りついた。


 月明かりを求めてさまよう夏虫のごとく、わたしは敷地の東側に位置するグラウンドへ足を運んでいた。サッカーボールを蹴る学生たちが、まばゆい照明によって生み出された人影と並走している。それを眺めるわたしのかたわらには、今にも消え入りそうな影が病人同然に横たわっていた。


 ――ここにもいない。


 中庭、並木道、グラウンド。くまなく探し回ったにもかかわらず、ドッペルゲンガーは見つからない。鬼ごっこを楽しんでいるあいつが、遊び相手のわたしを放っておくはずはないのに。


 ――まさか、飽きたとか……。


 それだけは困る。こちらに勝ち目がなくなってしまう。


 わたしは体力の消費を無視して体に鞭を打った。悩む時間が惜しい。グラウンドを離れて『L』字の建物群へ急ぐ。


 食堂と図書館はもう閉まっているから立ち入れない。一方、三号館は白衣を着た人がちらほらと見受けられる。運動施設の備わる二号館も大体の階層で照明は健在だ。


 逆に最北の一号館は窓ガラスが真っ黒に染まっていた。この建物は他から少々孤立して建っているため、周辺にも闇が生い茂っている。


 その一号館の北側出入り口に、『わたし』がぽつんと立っていた。


 招かれるまでもなく、わたしは残った力を燃焼させる。


 相手がおいでおいでと挑発する間にだいぶ差を縮められた。わずかなタイムラグで内部に突入する。


「うっ……」


 勇んだ足が硬直した。


 眼前に広がったのは、闇と冷気にとっぷり浸かった一本道の廊下。


 異様な寒さだ。生唾を飲みこんで、数歩進んでみる。みるみる周囲が暗闇に包まれた。凍てつく空気が服を貫いて皮膚を刺す。息をするたび、メントールでも塗られたかと思うほど呼吸器が冷やされる。さながら地下洞窟に潜りこんだ気分だ。


 電灯をつけたいけど廊下の北側にスイッチはない。あるのは南側出入り口の方だ。そこはガラス扉と、階段の踊り場にある明かり窓から届くわずかな光によって、闇が詰まった廊下の奥に薄ぼんやりと浮かんでいた。


 その妖しげな光景は、獲物をおびき寄せる誘蛾灯ゆうがとうを連想させた。


 ――怯んでる場合じゃない、行かなきゃ!


 わたしは拳を強く握ってスパートをかけた。ここに来るまで階段を駆けあがったり、教室のドアをあける音は耳にしていない。ドッペルゲンガーはまっすぐ廊下を進んだはずだ。


 しかし、足音もまた聞こえなかった。となれば、廊下の端でうずくまりながら入れかわるようにして逃げるつもりかもしれない。わたしは神経を研ぎ澄ませて、光の乏しき世界を捉えにかかる。


 直後だった。


「うわっ!」


 目の前に黒い人型の輪郭が、ぬうっと出現した。わたしはとっさに急停止。スニーカーが甲高く鳴いた。



  ここまでよく頑張ったね。



 声が響いた。ドッペルゲンガーが話しかけてきたのだ。



  楽しかったよ。



 と、なにかを伸ばしてきた。腕だろうか。てのひらが上を向いているように見える。


 ――これって、鬼ごっこに勝ったってこと?


 満足げな言葉と、柔らかな声音。逃げる気配もない。


 わたしの頭が心地よい熱を帯びた。


 ――やった、やった!


 人の命をもてあそんできたこいつに、感謝を述べるつもりはさらさらない。でも、今だけは素直に称賛を受け取ることにしよう。


 思えば今日は走り通しだった。全身が深くきしんでいる。足腰に至っては断末魔だ。


 でも、生き残れた。


 明日からも朝を迎えられて、二度寝の喜びを味わえる。コンビニのスイーツに舌鼓を打ったり、動物園に行ってウサギと戯れることができる……そんなありきたりで、けれどかけがえのない日常が帰ってくるのだ。


 目元をぬぐいながら、こちらも手を伸ばした。


 てのひらが重なる。そして――


 そして、わたしの手が『わたし』の手をすり抜けた。


「えっ」


 暗所だから見誤ったのか。そう思って腕を振ってみた。が、まったく触覚が反応しない。試しに相手の腕や肩、胸、頭を触ってみようとするも、手ごたえはない。どこもかしこも。


「これ、どういうこと……」


 次第に『わたし』が、ぶるぶると震えはじめた。


「な、なに――」


 瞬間、体中に特大の音波を浴びた。それが化け物の大笑だと気づいた頃には、衝撃で尻もちをついていた。


 狂騒が空気を伝って周囲に命を与えた。教室のドアが一斉に騒ぎだし、電灯がひび割れた声を上げる。すべてがわたしを嘲笑あざわらっていた。



  残念でしたぁ。



『わたし』が高笑いを吐きながら背後を通りすぎる。


 少しして、ガラス扉の開閉音がした。


「あ……」


 吐息と共に漏れた声が、独りきりの廊下に吸いこまれた。


「そんな……」


 膝がくしゃりと曲がった。


「そんなの、ずるいよぉ……」


 わたしは子どもみたいに泣き叫んだ。


 相手に触れない鬼ごっこなんて、勝てるわけがない。結局わたしの命は、終始化け物の手の上で転がされていたのだ。


 闇にのまれた空間で、慟哭どうこくがいつまでもさまよい続けた。





 泣きつかれたわたしは、二号館のロッカールームに向かった。部屋の壁かけ時計を見れば、鬼ごっこの期限はもう三十分を切っている。


「ダメだったよ、理沙」


 最期にわたしが求めたのは、友人の忘れ形見だった。リュックからウサギのセンサーライトを取りだして抱きかかえる。


 部屋の電気を消した。


「でも、理沙と同じところに行けるなら、悪くないのかな」


 壁を背にして座りこみ、ウサギの底部にあるスイッチをいじってみた。


 ウサギがぼんやりと白く光った。真夜中でも目が痛くならない程度の柔らかな光量だ。これがあれば階段でつまづくこともないだろう。その用途で使われる機会は、もうないのだけど。


 別のスイッチを押すと、今度は橙色に変化した。おしゃれな雰囲気だからインテリアとしても活用できそうだ。形見として家族が飾ってくれたら嬉しい。


 ――こっちはなにかな。


 小さなつまみをひねってみる。


「うわっ」


 光量が大幅に増した。目をあけていられない眩しさだ。


「…………」


 その光を受けても、わたしの影はうっすらとしか描かれない。審判の時はすぐそこまで近づいている。


 ――今日が人生最後の日かぁ。


 どうせなら、たらふく高級なお寿司を食べておけばよかった。最初は甘えびで、シメはたまご。これだけは譲れない。


 ――理沙もそう言ってたっけ。


 懐かしい。その一致が親交を深めるきっかけになった。


 ――ああ、これが走馬灯……。


 脳裏に懐かしい記憶がよぎっていく。家族旅行で行ったハワイの海、中学時代のほろ苦い青春、そして理沙と初めて会った回転寿司チェーンでのひとときが、ありありとまぶたの裏に浮かんでは消える。


「…………」


 去来する思い出の中で一つだけ、どうしても解き明かしておきたい心残りがあった。


 ――なんであいつは、あんな風に動いたんだろう。


 今朝ドッペルゲンガーは、中庭から並木道の方へ逃げようとして、なぜか中庭に引き返してきた。最初は人海戦術を嫌ったのだと推測した。でもわたしがあいつに触ることができないのなら、どの道無意味な心配だ。


 もちろん『触れない事実を終盤でわたしに叩きつけたい』という底意地の悪い考えもあっただろう。ただ、それだけでは片づけられない動揺が、あいつの顔には表れていた。あれが演技ではなかったと直感がうなずいている。


 この引っかかりはどこからくるのか。わたしは網膜が焼けるのも気に留めずウサギを凝視した。


 走馬灯を押しのけて、あいつの行動を一から追想してみる。光を眺めていると不思議なことに、解決の糸口を手繰りよせられそうな予感がしてきた。


 朝、昼、夜。


 並木道、中庭、グラウンド。


 一号館、二号館、三号館。


「…………」


 太陽、日陰、時間。


 北、南、東、西。


 ――もしかして。


 ドッペルゲンガー、進歩、鬼ごっこ、影、イルミネーション、照明――


「分かったっ!」


 爆ぜるように立ちあがった。


 記憶のピースがかちりとはまって、一つの答えが完成した。


 この答えが正しければ、ドッペルゲンガーに勝てるチャンスはまだ残っている。


 けれど、まったくの見当違いだという可能性は否定できない。不安が胸に陰りを落とす。


 ――だとしても。


 自分の力で導きだした答えだ。悩みぬいた末にようやくつかんだ一縷いちるの望みだ。これでダメなら、もう悔いはない。


 ウサギをリュックにしまい直す。それからコスモスのブレスレットをくずかごに捨てた。


 そして正真正銘最後の『鬼ごっこ』に挑んだ。

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