第4話

 ドッペルゲンガーとの鬼ごっこはその後も続いた。


 午前中は主に二号館と三号館、そして中庭を行ったり来たりされて何度も煙に巻かれた。おまけに相手の体力は無尽蔵らしく、いくら走ってもペースが乱れない。まさに化け物だ。


 正午頃になると、グラウンドや並木道を含む敷地全体に出没した。もしかしたら出現場所に規則性があるのかも、と抱いた希望はこの時点であっさり崩れ去る。そうしたつかみどころのなさが余計に不気味だった。


 しかしなにより不気味だったのは、わたしがあいつを見失うと、しばらくしてわざと姿を見せにくることだ。ドッペルゲンガーにとってこの鬼ごっこはあくまで遊びなのだろう。だから隠れたままやりすごそうとはしないし、学生が立ち入れない場所は素通りする。


 そのフェアプレー精神とでも言うべき行動に助けられている反面、確固たる理性もちらついて恐ろしくなる。人間でないくせに人間らしく公平性を貫くやり方に、途方もない忌避感を覚えてしまう。


「はぁ……」


 一号館五階の教室で、椅子に座りながら窓の外を眺める。茜色の空模様と同じく、肉体もレッドラインに近づいている。できれば次の遭遇で勝負をつけたい。


 汗ばんだ下着の不快感を無視しつつ、ふくらはぎをスウェットパンツ越しに揉みほぐす。筋肉に走る鈍痛に顔がゆがむ。


 廊下が騒々しくなってきた。五限目が終わったらしい。今日は六限目以降がないためか、どことなく弾んだ雰囲気を感じ取れる。


 駅、食堂、グラウンド、図書館……。彼女たちはこれからそれぞれの目的地へ向かうのだろう。なんてことはない、夕暮れ時の大学ではおなじみの光景だ。


 なのにどういうわけか、廊下の喧噪けんそうが遠くで聞こえてくるかのような錯覚に陥った。声はするのに、ドアをあけたら誰もいない……そんな想像が頭をもたげる。


 ふくらはぎを揉んでいたはずの手が腕をさすっていた。息苦しさに耐えかねて喉があえぎ出す。無性にわめきたくなる衝動に駆られる。


 この時、わたしは強く自覚した。いや、自覚させられた。


 彼女たちが当たり前に捕まえる将来あしたを、自分だけが捕まえられずにいることを。


 このまま鬼ごっこが終われば、わたしは鬼役から解放される代わりに、真の意味での鬼と化す。希望を追いかける自由さえない、無慈悲な死に未来永劫囚われる……。


 心臓が火を噴いて暴れだす。全身が沸騰しそうなくらいに熱い。腫れた頭部がじんじんと痛みを主張する。


 わたしは今、確かに生きている。そう強く感じた。たとえ強風にさらされた灯火だとしても、この感覚こそが命の脈動だ。化け物なんかに消されてたまるものか。


「死にたくない。絶対に死んでなんかやらない」


 腹の底から決意を絞り出す。と、急に廊下の騒がしさが鮮明に届くようになった。


 見れば、後ろ側のドアが少しひらいている。


 頭が突きでていた。


 わたしとそっくりな顔。けれど、わたしとは違う顔。


 だってわたしの顔は、いや人間の顔は……そんな奇怪な笑みは作れない。


 にゅうぅっと、顔の横から腕が伸びた。そして手首をゆったりと上下にこぎ、



 おいで、おいで。鬼さんこちら。



 と、さも楽しげに口ずさんだ。


「このっ!」


 矢のごとくわたしは駆けだした。対するドッペルゲンガーは即座に頭を引っこめた。


 ドアを抜けるなり、わたしは素早く左右を確認。驚いた様子の量産型女子たちを一瞥いちべつしつつ眼球を鋭く走らせる。この中にドッペルゲンガーがいるはずだ。


 血眼になって探している途中、一人の量産型に名前を呼ばれた。生物学科の友人だった。


「あんた、こんなところにいたの。最近サボりぐせついてるみたいだけど、いつからそんな不良になったわけ? この前の実験、人手不足で大変だったんだからね」


 そういえば、この時間は生物学科の講義があったのだ。廊下にいるほとんどが顔見知りだと遅まきに知る。


 呪いなんて信じてもらえないだろうから単身で頑張ってきたけど、もはやそうも言っていられない。


 助けを求めるべく声を張り上げる。


「ねえみんな、わたしがどこに行ったか知らない?」


「は?」


 友人がいかにも困った顔をした。


「この辺りにいるはずなの! 同じ服着てたでしょ! そいつはわたしのドッペルゲンガーなの!」


「ドッペルゲンガーって……」


 力の限り訴えたおかげか、全員の注目が集まる。これなら信じてもらえるかもしれない。


「もう時間もなくて、だからお願い! どこに行ったか教えて!」


 しかし、誰も口をひらいてくれない。そのくせ、わたしを見つめる眼差しはやたらと冷ややかだ。


 ――なんで。どうしてなにも言ってくれないの。


 なにかがおかしい。そういぶかしんで、最悪の想像が脳裏を支配した。


 ――まさか、ここにいる全員がドッペルゲンガーなんじゃ……。


 悪寒が全身を縛った。味方だと思っていた人が敵だったとしたら。オセロのごとく素顔を一変させたら。そうして全員が高笑いを発したなら。わたしは間違いなく気狂いになってしまうだろう。


 だけどそうではなかった。おかしいのはわたしの方だったのだ。


 頬で弾けた痛みによって、それを実感した。


「あんた、冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ」


 平手打ちを見舞った友人が語気を荒げて、


「亡くなった人を茶化すなんて、趣味悪すぎ。サボってる間にこんなくだらないイタズラ考えてたんだ」


「え? いや違うの、誤解だよ! わたしは――」


「最低」


 その一言を皮切りに、誰もがそそくさとわたしのもとを離れていく。


「違うってば! そんなつもりじゃないの! 嘘じゃ、ないのに……」


 みんなにとってドッペルゲンガーはただの噂だ。だから昨日の厚塗りリップも、ドッペルゲンガーの妄執に取り憑かれた哀れな学生としか思われなかったのだろう。反対に、噂を信じていた人なら恐怖をいっそう募らせたかもしれない。


 どちらにせよ今の発言は禁句だった。前者からすればわたしは自殺した人間を小馬鹿にした愚か者で、後者からすれば死神に魅入られた生けるしかばねも同然なのだから。


 一人、また一人と視界から消え去って、しまいには誰もいなくなった。


 わたしは独りになった。


「……嫌だ」


 喉の奥から掠れた音がこぼれる。


「まだ死にたくない。死にたくない」


 意味もなく壁に頭をこすりつける。


 みんなから一生嫌われてもいい。大学の単位もいらない。両足が腐ったって構わない。


 死にたくない。ただ、死にたくない。


「死にたくないよ……!」


 おぼつかない足取りで、わたしは静寂の廊下をひたすら走った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る