第3話

 わたしは昔から動物が好きだった。


 高校時代にはよく動物園に行って、間近で動物たちとたわむれたものだ。中でもウサギはお気に入りで、白くてふわふわした体毛と、丸っこい体つきがたまらなく可愛い。


 そうしたエピソードをもとに、高校の担任からすすめられた女子大の生物学科へと進学を果たした。講義や実験は一年目から大変だったけど、それなりに充実した生活を送れていると思っていた。


 ところが就職が視野に入ってきた今年から、自分の主体性のなさを痛感する機会が増していった。動物は好きだけど、かといって明確な目標はなくて、「高卒は嫌だから大学までは行っておこう」くらいにしか考えていなかった甘さがついに露呈したのだ。


 将来に向けてなんの道しるべも作ってこなかったわたしは、突然砂漠のど真ん中に放り出されたような気持ちになった。その状況から抜け出したいばかりに、講義を休んで遊びに逃げることも多くなった。


 わたしが量産型女子から抜け出せないのも、ある種の逃げだ。


 周りの人たちと上辺だけでも一体化していれば、「あの子も就活なんてまだ頭にない」、「自分と同じような人ならたくさんいる」といった仲間意識をより強く感じられるから。たとえそれが、ひとときのゆがんだ安心だとしても。


 結局わたしはファッションに疎くて、周りから爪はじきにされたくなくて、将来の不安から逃げ出したい……そんな理由で、今まで量産型に頼ってきた。


 要は、自立ができていないのだろう。自分の足で責任を持って人生を歩いていくことが、たまらなく怖いのだ。


 そういう意味でもわたしは、よくいる量産型大学生と言えるのかもしれない。


 でも今は違う。自分の置かれた境遇は、とてもありきたりな大学生の範疇はんちゅうには収まらない。


 だってこの命は、あと半日で尽きるのだから。





「きみ、この大学の子だよね」「昨日飛び降り自殺があったのは知ってるかな」「よければお話をお聞きしたいのですが」「自殺した子がドッペルゲンガーに怯えてたって本当?」


 正門にたむろする記者をかわして、わたしは電飾を絡みつかせた枯れ木の並木道を進む。


 昨日理沙が倒れたあと、わたしは救急車を呼んで彼女に連れ添った。ドッペルゲンガーは捨ておけなかったけど、それどころではなかった。化け物の実在よりも、親友の死を認めたくなかった。


 だけど彼女が微笑みかけてくれることは、もう二度とない。


 次は自分が、あの得体の知れない化け物に殺される……追いこまれたわたしには、友人の死をいたむ余裕も、睡魔にまどろむゆとりさえも持てなかった。その証拠に、メイクを忘れた顔には陰鬱いんうつなくまができている。


 並木道を越えた先に、建物の群れが姿を現した。


 この女子大は、五棟の建物が上空から見て『L』の字に建っている。


 『L』の最上部――つまり最北が、講義に使われる一号館。そこから少し離れて運動施設のある二号館と実験棟の三号館が、間を置かず縦に連なっている。この三棟が『L』の縦棒に当たる。どの館も出入口は北と南の二ヶ所だ。


 三号館を直角に曲がると、その先に図書館と食堂が続く。これらが『L』の横棒だ。それぞれの建物の高さは、『L』の書き順通りに低くなっている。


 二号館と三号館の東西に空いたスペースには、東側に照明つきのグラウンド、西側に中庭が広がる。わたしがたどってきた並木道は『L』の南側だ。


 大学の周辺にはそこまで高い建物がなく陽射しが充分に注がれるとあって、この季節は花壇の白いシクラメンやパンジーの青紫が中庭を囲むように咲き誇っている。


 図書館の前で初老の警備員とすれ違った。全館の出入り口を開錠し終えたところだろうか。早朝でまだ低空気味の太陽が、彼の足元にくっきりと長い影を落としていた。


 自分のものと見比べると差は歴然だ。昨日と同様にスウェットパンツをはいた足元には、水で薄めた墨汁みたいに淡い影法師が横たわっている。


 死期が忍びよっている証拠だ。タートルネックニットの下で流れる汗が脇腹を凍りつかせた。


 ――早くあいつを見つけないと。


 二号館のガラス扉を押しひらいた。ロッカールームに入ってリュックをしまう。


 中身はウサギのセンサーライト。理沙の形見だ。ソフトラバー製で、動物園のウサギよりも一回り小さい。


「見守っててね」


 ふたを施錠して、わたしは再び屋外へ繰り出した。


 さあ、鬼ごっこの始まりだ。





 縦に長い形をした六階建ての一号館は、南北に伸びる廊下の左右に教室が並ぶ造りとなっている。だから電灯をつけないと日中でも薄闇が広がる。二ヶ所あるガラス製の出入口と、階段の踊り場にある明かり窓がなければ、夜はたちまち目の前が真っ暗になってしまうだろう。


 後ずさりしそうになる足を力ませて、わたしはほの暗い廊下を進む。


 まずは手近の小教室に入ってみた。高校と同じく個別に分かれた机と椅子が三十六セット用意されている。ざっと見た限り人影はない。


 他の教室ものぞいてみたものの、かすかな気配すら感じられない。


 ――この階にはいなさそう。


 一階は物音一つせず、眠ったように静まっている。自分の呼吸音さえこだましそうなほどに。


 なんだか心細くなりながら、北側出入り口のガラス扉を横目に、すぐそばの階段へ足をかけた。踊り場の明かり窓から差す光にまぶたが下がる。


 その時、教室のドアをノックする音が響いた。


 振りむけば、廊下の向こうに小柄な人影が立っていた。遠いせいで顔はよく判別できない。


 それでも、そいつがドッペルゲンガーだということはすぐに分かった。


 自分とそっくりな見た目をしていただけでなく、おいでおいで……と手招きをしていたから。


 歯を剥き出しにしてわたしは走りだした。


 ドッペルゲンガーが笑ったように見えた。髪の毛先を躍らせてガラス扉から外へ飛びだす。


 ――逃がさない!


 待望のチャンスを手放すものかと、体当たり同然にガラス扉を押した。


 仇敵は二、三号館の影に覆われた中庭を駆けていた。その背中をわたしは猛追する。


 幸い、相手はわたしより若干遅い。というのも、走り方がどこかぎこちないのだ。腕と足の挙動がいまいちそろわなかったり、生後間もない赤ん坊みたいに頭部が不安定に揺れ動く。直視したくないおぞましさだ。


 とはいえ遅いのだから簡単に捕まえられると思ったが、そう上手くはいかない。中庭に生えた木々や、時計塔、ベンチ、花壇、さらにはイルミネーション用のオブジェクトを障害物にして、ドッペルゲンガーは巧みにわたしの接近をかわす。


 気づいたときには、そこそこ見晴らしのいい場所にもかかわらず姿を見失ってしまった。大学をにしている相手に地の利で勝つのは厳しそうだ。


「あっ!」


 すでにドッペルゲンガーは中庭から『L』字の角――三号館の辺りへ向かっていた。


 このまま視界から消えればあっという間にまかれかねない。わたしは手足を目いっぱい振って死に物狂いで差を縮めていく。


 想定外の追撃速度に虚を突かれたか、化け物が目を丸くした。しかし、


 ――ダメ、追いつけない……!


 ドッペルゲンガーが三号館の角へ隠れてしまう。


 と思いきや、


「えっ」


 急に相手が方向転換。焦った様子でこちらへ引き返してきた。


 ――な、なんで!


 一瞬の迷いが明暗を分けた。捕らえようとした手が、すぐそばを通り過ぎる体に数センチ届かなかった。そのまま二号館に逃げこまれてしまう。


 これ以上の追跡は体力の限界だ。息を整えるために足を止める。


 そして考えてみる。なぜ捕まるリスクを冒してまで方向転換したのか。


 理由を探るべく、三号館の角へ顔を出してみた。


 そこには朝日に照らされた並木道と、通学してくる学生たちの姿。電車通学とバス通学の集団が重なったらしく、かなり大勢の茶色頭が確認できる。


 ――なんであの人混みに逃げこもうとしなかったんだろう……。


 わたしはやや小柄という特徴はあるけど、量産型の容姿だ。あの中に身を隠されていたら見つけるのは苦労しただろう。


 ――もしかして……。


 わたしが誰かに「そいつを捕まえて」と協力をあおぐ人海戦術を懸念したのか。


 ――そこまで思考できる化け物が相手なんて……。


 ショックでめまいがしてきた。打ちひしがれる思考が、いつか観たホラー映画を思いだした。


 ホラー物の作品は、知恵の人間対暴力の怪異という構図がおなじみだ。これは見方を変えれば、怪異側は知能が低く描かれやすいとも言える。


 だからこそわたしが観た映画の主人公は怪異に対抗できた。機転を駆使して理不尽な暴力を回避することで、めでたくハッピーエンドを迎えられたのだ。


 人間の最大の武器とは頭脳である……理系ゆえか、わたしは映画からそんな教訓を得た。


 しかし今回のように、怪異の知能が人間に比肩している場合はどうなるのだろう。


 答えは明白だ。知力に富んだ暴力に、非力な人間は敵わない。狙われれば最後、主人公にはどうあがいても最悪の結末が待ち受けるだろう。


 ――どうしよう、どうすればいいの。


 地面に投じられた灰色の影が、くらりとかたむいた。日進月歩の怪物を相手に、ただの大学生が抗うすべなどあるのか。指が無意識にブレスレットのコスモスを触っていた。


 ――ううん、弱気になっちゃダメだ。


 怖気づいても仕方ない。なにがどうあれ、歩みを止めるわけにはいかないのだ。もう一人の自分を捕まえなければ、逆に背後から襲いくる死神に捕まってしまうのだから。


 ――やるしかないんだ。


 深呼吸をして、わたしも二号館に足を踏み入れた。

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