第2話
「ちょっとそこの二人!」
づかづかと歩みよってきたのは、相も変わらず量産型の女子。
だけどわたしは目を見はった。その特徴的なくちびるはまだ網膜に焼きついている。
今しがた対面した厚塗りリップの人だ。ただ肩は大きく上下させていて、化粧も崩れかけている。
彼女は額に浮いた玉の汗もぬぐわずに、
「この辺りに、私がいなかった? こんな感じの服を着てたはずなのよ」
と言って、自分のニットをつまんで見せつけた。
この不可思議な光景を前に、脳のニューロンがぱちりと発火した。もしかしたら彼女はわたしたちの会話を盗み聞きして、ドッペルゲンガーの噂を利用したドッキリをしかけているのではないか。なかなか機転の働く人だ。
だけど、赤の他人をからかうのはさすがに筋違いだろう。盗み聞きもしゃくにさわる。なんだか
「ねえ、知り合いでもない相手をからかうってどうなの。盗み聞きも趣味悪いし、それにさっきと違って変な演技までしてさ」
声音が尖るよう意識して言いはなった。
なのに彼女は
「会ったのね、私のドッペルゲンガーに! そいつがどこに行ったか教えて! 早く!」
ぎらつく目玉をひん
答えない
「時間がないの! お願いだから答えて! 答えなさいよ!」
「ちょ、ちょっとやめてよ!」
わたしは両者の間に体をねじこもうとする。二人分の影法師が夕日に濡れた教室で激しく踊る。
「あれ……」
わたしは動きを止めた。教室に伸びるのは、硬直した自分の影と、もう一人の影。ぐわんぐわんとヘッドバンキングよろしく頭を振っているから、これは揺さぶられている理沙のものだ。
そう、影は二人分だけ。
三人目の影がない。厚塗りリップの影が。
「な、なんであなた、影がないの」
思わずわたしが発した指摘に、厚塗りリップは首を
ひっ、と息を呑む音。
のち、窓を割らんばかりの大絶叫が
厚塗りリップは千鳥足で来た道を戻っていく。ドアにぶつかっても構わず、奇声をまき散らしながら。アイラインは涙で黒ずんでいた。
冷え切った室内で、理沙と確かめ合う。
「どう見ても、影、なかったよね」
「そうね」
つまり、どういうことだろう。今出会った厚塗りリップは、本当にドッペルゲンガーに呪われている? まったく影が見えなかったから、死期がすぐそこまで迫っている……そういうことなのか。
となると最初の厚塗りリップは、ドッペルゲンガー……。
「いや、まさかね。まさか」
ぎゅっと眉間を押さえる。到底信じられない話だ。
自分を納得させるため、思考を働かせてみる。
彼女は多分、演劇サークルかなにかに所属しているのだろう。きっと迫真の演技をものにすべく、ああして即興劇をしているのだ。影にもなんらかのトリックがあるに決まっている。オカルトなんて、あり得ない。
そんなはりぼてのロジックを、突如として響いた悲鳴がうち砕いた。
嫌な衝動につき動かされるままに、わたしは悲鳴の根源へと走った。隣の教室からだ。
「お前か! それともお前か! お前が私か! どこにいるの! 私はどこなのぉ!」
そこでは厚塗りリップが講義中の学生に襲いかかっていた。自分の容姿と似た人たちに抱きつき、しがみつき、
ドッペルゲンガーの呪いを解くには、ドッペルゲンガーを捕まえなければならない。彼女はそれを実践しているのだ。
厚塗りリップが反撃に遭ってつき飛ばされた。窓に思い切り顔面をぶつける。ガラスにはグロテスクなキスマークが塗りたくられた。
「あ……」
リップで汚した窓を、彼女はまじまじと見つめる。
「あそこね。あそこにいるのね、私は」
不意に窓の鍵を回した。うつろな視線は眼下に注がれている。
「あんなにいっぱい私がいる。どいつなの。早く捕まえないと」
窓をあけて、枠に足をかける。その行動の意図を全員が察知した時には、もう遅かった。
腕の群れをするりと抜けて、彼女は六階から飛んだ。
やがて、重たい水風船をコンクリートに叩きつけたような音がした。
複数の金切り声が
けれど、彼女たちは窓の外を見ていた。対してわたしは窓を見ていた。反射した室内の光景に、か細い太陽の残光が重なり映った、窓ガラスそのものを。
そこには夕焼け色に染まったくちびるを愉悦させた、もう一人の厚塗りリップがいた。
墨に浸したような夜空の下で、わたしと理沙はイルミネーションが輝く中庭、その端にあるベンチに座っていた。辺りにひとけはない。誰もが騒ぎを聞きつけて
あのあとわたしは理沙を引き連れて外へ出た。とにかく怖くなって、気づけば光の集まる中庭に引き寄せられていた。それからは頭の中を整理できずに、無言のまま時間だけが過ぎていった。
「噂は、本当だったんだ」
コスモスのブレスレットを握りながら、わたしは呟く。
「ドッペルゲンガーは本当にいたんだ。それで、あの人を殺した。だって、そうじゃなきゃ説明つかないよ」
震える腕を抱きしめる。
同じ人物が二度現れた理由も、影がなかった理屈も、彼女が死ぬことになった道理も、ドッペルゲンガーの実在を認めればすべて
と思っていたのだけど、
「あれ」
どこか引っかかるものがあった。記憶を改めて手繰ってみる。ドッペルゲンガーの噂と、ドッペルゲンガーに遭遇した際のやり取りを。
しばらく黙考してみて、違和感の正体が判明した。
「ちょっと待って。あのドッペルゲンガー、喋ってたよね」
一度目の厚塗りリップ――つまりドッペルゲンガー――は、確かに声を発していた。喋れないはずなのに、わたしたちと会話をしていた。
「え、じゃあ、なに、どういうこと。あれはドッペルゲンガーじゃないの?」
脳が混乱してきた。もうなにがなんだかさっぱりだ。
納得のいく回答が欲しい。すがる思いで理沙を見た。
「り、理沙……?」
友人は笑っていた。悩むわたしを
「ねえ、あなたはなんのために大学に来てるの?」
唐突に奇妙な質問を投げかけられた。
「な、なんのためにって、急にどうしたの」
「勉強しに来てるんでしょ」
「それがなんなの」
「そうして毎日、少しずつ少しずつ、知恵を身につけていく」
「だから、なに」
「難しい話じゃないわ」
静かに理沙は立ち上がった。
そして自分のバッグを肩にかけてから、言った。
「私たちも日々、進歩してるのよ。あなたたちと同じように」
「え……」
「じゃあね。さようなら」
別れを告げるなり、彼女は振り返ることなく去っていった。次第にその姿がイルミネーションの彼方に消えて、闇と同化した。
薄気味悪い冷風が耳をなでた。
「あ、いたいた」
段々と容姿がはっきりしてくる。
茶色のゆるふわヘア。
厚めのナチュラルメイク。
ひときわ背の高いシルエット。
理沙だ。服装が違うだけで、紛れもなく理沙だった。
「ごめんなさい。教授の急な出張で五限目の講義がなくなってね、時間潰しにコンピューター室でレポート作成してたら、すっかり時間がたっちゃってて。でもまだいてくれてよかった。探しながら連絡入れてたんだけど返事がないし、怒って帰っちゃったんだと思ってたわ」
そう言いながら二冊の本を手渡してきた。
「はいこれ、借りてた漫画。ところで一号館の方に人だかりができてたけど、なにかあったの?」
見慣れた表紙絵とタイトル。間違いなく自分が貸した漫画だった。
「本物……」
「やぁね、当たり前でしょ。偽物なんて作れないわよ。あ、それと」
彼女は隣に腰かけて、手に提げていた紙袋を足元に置いた。
「今日はプレゼントがあるの」
紙袋の中には、チェック柄の包装紙にくるまれた少々大きめの品物が入っていた。
「これね、ウサギ型のセンサーライト。ほら、この前転んで頭打っちゃったんでしょ。この子を階段に置いておけばね、近づくと勝手に光ってくれるから、いちいち家のスイッチをつけなくてもいいの。便利でしょ」
大切に使ってね、とはにかむように微笑んだ。
その笑顔が、ふっ……と、消え失せた。
「理沙?」
茶色の頭がわたしの肩に乗っかった。
ずるずると体を伝って、
そしてうつろな瞳でわたしを見あげた。
『六限目の終わり頃、私と瓜二つの子に会ったのよ』
中庭の真ん中に立つポール型の時計塔が、うら寂しいメロディを奏で始めた。六限目の終わりを告げるチャイムだった。
「理沙」
親友は口をぽかんとあけたまま、なんの言葉も返してくれない。
「理沙。ねえ、嘘でしょ。ねえ」
揺すった体がずるりと腿から滑りおちた。紙袋に覆いかぶさったまま微動だにしない。
「……ぁ」
喉がすぼまって声が枯れる。荒い呼気だけがひっきりなしに口の隙間から漏れていく。頭がぐらついて世界が回る。目に映るすべてが渦になってかき混ぜられていく。
過呼吸になりかけたところで、後ろから肩を叩かれた。
首がそちらへ向く。
小柄な女性が立っていた。量産型の見た目だ。でも、どことなく親近感がある。いつも顔を合わせている気がする。
鏡だ。毎日、鏡の前で対面している女性。
わたしだった。
ねえ、鬼ごっこしよう。
そう言ってにんまりと口の端をつり上げた『わたし』は、
時計塔のメロディが鳴りやんだ。
わたしと『わたし』の鬼ごっこが今、始まった。
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